守り子の像
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
むむむ、また子供が放置されていたニュースか……。
少し前だと買い物のとき、車の中で待たせていたら暑さにやられちゃったっていう事故を聞いたことがある。閉め切った車内は想像以上の暑さになって耐えられなくなっちゃったと。
でも、いまは放置のレベルが違うね。分単位、時間単位どころか、日とか週とかをまたぐことさえある。
それを、誰かとコミュニケーションとることさえあやふやな歳の子供ひとりの力で乗り切れって、もうね。森に置いていかれるヘンゼルとグレーテルっしょ。家の中に閉じ込められちゃ、パンくずだって道しるべになりゃしない。
生まれた子供をどうするか。いまもむかしも大きな問題だよね。
口減らしの話は古今東西、珍しくない。最初から子供作るなといっても、作る時と捨てる時じゃ状況が違っているかもしれないから、一概に親を責められないしね。
そうしてしばしば犠牲となってしまう子供にも、どうやら不思議な力が宿るときがあるらしいんだ。
最近、子供をめぐる昔話をまたひとつ仕入れたんだけど、聞いてみないかい?
むかしむかし。村の近くを流れる大きな川へ、釣り人が訪れたときのことだった。
小さい飛び石をいくつか渡った先にある、岸と中州の中間にある岩。そこが釣り人の勝手に定めた釣り場だ。
人がぎゅうぎゅうに詰めても、3人乗るのがやっとという広さのその岩のあたりは、魚がよく釣れたらしい。そこを占拠するべく、朝も早いうちから足を運んだんだ。
ところが今日は、お目当ての岩とその直前の飛び石の間に、挟まっているものがある。
流れから半身を出し、横倒しになっているものは銅の像だった。岩の間の狭い流れを、水面に出た己の首で更に二分し、しぶきのかかるままに肩を湿らせながら、じっとその身を横たえている。
昨日まで、このようなものはなかったはずだ。不審に思った釣り人は、釣り道具一式を置いて、銅像を引き上げようとする。
これが思いのほか軽かった。川に沈んでいる下半身も含めれば、大人と遜色ない体格にもかかわらず、どうにか両手で抱え持つことができる重さだったとか。
更に振ってみると、中で少し重い物が、上下する手ごたえが伝わってくる。
ひとまず川べりの砂利の上へ像を寝かし、釣り人は改めて調べてみる。すると像の脇の部分に、うっすらとだが頭から足の先にかけて伸びる、閉じ目が存在したんだ。
手で開けようにもびくともしない。釣り人は持参した小刀を抜き、閉じ目へねじ込んでみる。突き立てることはできなかったものの、すき間からは接着に使った薬らしい、特徴的な臭いを放つカスがこぼれてきた。
――削っていけば、こじ開けられそうだぞ……。
どのようなものでも、手がかり足がかりが見えると、勝手にやる気が出てくるものだ。
当初の釣りの予定はどこへやら。釣り人はその場にあぐらをかいて、閉じ目を引きはがすことに、躍起になった。このまま陽が高くなると目立つから、わざわざ像を橋の下にまで移動させて。
刃が半ば滑るような手ごたえだったけど、削りカスは確実に増えている。つい先ほどは、小刀の刃先に感じていた抵抗が、一気になくなる感覚があった。おそらくは閉じ目を抜け、中の空洞に達したんだ。
釣り人は刃の向きを変えて差し入れ、なおも閉じ目を削っていく。橋げた越しに聞こえる人や牛馬の足音が増してきた。斜めから差しこむ陽の光が、作業を続ける釣り人の顏をほてらせ、汗をにじませる。
それでも釣り人は、弁当の握り飯をかじりながらも長くは休まず、小刀を動かし続けていたとか。
昼過ぎになって、釣り人はようやく小刀を手放す。その刃は少したわんでいるようにも見え、ここまでの酷使を物語っている。
やっと両手の指を差し入れられるほどに、すき間が作れたんだ。あとつながっているのは、頭と足のほんの先端のみ。ここからなら力づくでいけると思ったんだ。
橋の土台に像を押しつけ、ガタンガタンと揺らしながら力を込める。閉じ目につま先も突っ込んで押さえとしつつ、挑むこと数十回。
ギシギシという音と一緒に、抵抗の意を示し続けていた銅像。いや銅の棺が、バチンと高く叫んで頭と足を離し、ついのその中身をさらしたんだ。
入っていたのは子供だった。
屈葬するときのように手足も背中も丸めて、この棺の半分ほどの容量におさめられている。先ほど運んだときの音は、この開いた空間へずれたり戻ったりしたから立ったのだろうか。
その顔は、折りたたんだ太ももへ押し付けていて、分からない。何者か確かめようと、釣り人は手を伸ばしかけて、ふと気がついた。
折りたたまれているこの子供の身体、その肌が瞬く間にカサカサになって、白いひび割れが入っていくんだ。ひびの広がりが目で見えてしまうくらいの、すさまじい早さだった。
男はつい、浦島太郎のおとぎ話を思い浮かべる。あちらは玉手箱を開いた浦島太郎があっという間に年老いたが、まさか箱の中身が急激に年をとるかのごとくとは。
ただごとではないと、棺を閉め直した釣り人はそれを抱えたまま、寺へと急いだ。
医者は畑違いだと直感する。このような怪しいものなど、僧なり拝み屋なりの知識を借りねば対応できそうにない。
道行く人の何名かは男の持つものを振り返り、物珍しそうな顔を見せる。それらをすべて無視して、釣り人は先を急いだ。
けれども、寺の境内へ続く長い階段に差し掛かるころ。釣り人は不審に思うことがひとつあった。橋から出てしばらくは続いていた、棺の中でごつごつと中身が動く手触り。それがつい先ほどから、全然感じなくなってしまっていることだ。
予感は当たった。
住職に話をして、招かれた本堂で再び開かれた銅の棺。その中に子供の姿はなかったんだ。
代わりに出てきたのは、小麦色の煙だった。棺が開かれるやあっという間に屋内いっぱいに広がったそれは、すぐに外へも飛び出した。
近くに住んでいる者、通りかかった者たちは、煙が境内に置かれているものをことごとく包みながら、空へ空へ上っていく様を見届けたとか。その煙の中心にいた釣り人と住職は、しばらく気を失っていたものの、命に別状はなかったらしい。
二人が意識を取り戻してから、銅の棺は中身をあらためられる。釣り人の話す子供の姿はなかったが、棺の底に何本か毛髪が残っていた。
住職の指示で脂にぬめるそれらは、水をたたえた瓶の中へ浸される。瓶ごと熱してみたところ、先ほど棺から出たものと同じ色の煙が雲のごとく底へ向かって広がり、水の中を満たしていく。
そのさまを見ながら、住職はあごに手をあてつつしばしうなる。やがて彼は「これは『守り子』じゃな」とつぶやいた。
守り子はこの地域だと、神隠しに遭った子がなるものと伝わっている。
よもつへぐいの言い伝えに似て、神域における神の食べ物を食べたがために、人間ではなくなってしまった子である、と。
神の側へついた子供は、この世で必要な身体に別れを告げる必要がある。それらは神域から俗世へ確実に届けねばならず、今回の銅やそれに準ずるものの覆いを持って、こちらへ流れてくるんだ。
それをこじ開けるなど、恐れ多いことをしたかと、釣り人は不安がったらしい。けれど住職は、もし手を下さずとも、時を置けばおのずと開いて中身をさらしただろうことを告げる。
「身体に縛られなくなった神は、より遠くへ手を伸ばすことができる。そのぶん、見るべき場所も増え、追いきれなくなるところもあるでな。
その不手際が起こる前の策として、神は迷い子をあらかじめ遣わす。いずれその力を見るときがこよう」
その日から、空にはあの小麦色の煙がうっすらとかかり続けるようになった。
空の青色をほぼ隠してしまうのに、不思議と太陽の光は問題なく地上へ降り注ぐおかしな晴れの日がやってくる。曇りの日も雲の色を塗りつぶして居座り続けたが、やがて訪れる雨の日は違った。
その時の雨は、緑色だったと見た者は語る。しかもそれを浴びた木々はただちに枯れ、生き物は肌が変色したり、壊死してしまったりとひどい目にあった。
けれど、小麦色の煙で遮られたその地域ではたいした影響はなく、煙もまた、じきに晴れていったという話だよ。