1.ハンドル操作は慎重に
僕の名前は吉良亮太、40歳。仕事は銀行員で、本店勤務の課長。しかし、出世ルートからは外れたので、10年後は万年課長と呼ばれるか、関連会社に出向しているだろう。ただ、今でも年収は、1本超えている。だから、家庭では幸せな生活を送っているとも言える。
『愛があればお金など必要ない』とは詭弁だと、今では思ってしまう。金があれば全て良しとする風潮……銀行員になり、人間の汚い部分ばかり見ていると僕までその風潮に毒されたからだ。
そして、金の亡者の僕とその家族は日本アルプスのキャンプ場に向けて車を走らせている。地球が長い年月をかけて作り出した絶景を見るためだ。
長い間仕事に没頭し、家族孝行を忘れていた。娘の美鈴、息子の翔太、そして、何より、妻の早苗に迷惑を掛けてきた自信はある。だが、これから数日は家族全員で幸せな時間を過ごす。仕事用携帯の電源は切った。全ては家族のためだ。
「うわぁ、綺麗っ!パパ、ありがとう!」
「いやぁ、美鈴に喜んでもらえて嬉しいよ!」
娘の美鈴はとても可愛いらしい。女の子は10歳過ぎたら『パパ、臭い!』が口癖になり、父親は蔑まれると同期から聞いだが、うちの娘は例外だ。正真正銘のパパっ子だ。
逆に息子の翔太の方が問題だ。今はスマホを弄って黙っているが、美鈴曰く、奴は『中二病』なる病気に罹っているらしい。薄々気がついていたが、行動がいちいちウザし、悪い意味で心に刺さる。『俺の手が打ち震えている』なんて言った時には、病院に連れて行きかけた。
「さて、そろそろ日本アルプスが綺麗に見えるSAに着くぞ!そこで、昼食を取ろう!」
『は〜い!』
妻と美鈴が元気良く声を上げた。だが、ルームミラーに写る翔太は物思いに沈んでいる様子だ。これも『中二病』の症状らしい。頭の中は空っぽだが、物思いに沈んで見えるとの事だ。見るに堪えない。
(よし、翔太については忘れよう!)
この高速道路は真っ直ぐに日本の屋根へ延びている。目の前に聳え立つ山々はどこか神秘的であり、多くの登山家を惹きつけるのも当然に思われた。
「おっと、そろそろ自動運転を停止しないとな……」
自動運転が車の速度調整やハンドル操作を補助しているので、運転者としてはとても心強い。だが、自動運転は補助の域を出ていないので、車線変更や一般道などでは、これまで通り運転しなければならない。
僕はハンドルを操作して、SAに入った。夏休みという事もあって、SAは観光客で満員である。
「到着っ!皆、降りるぞ!」
『は〜い、ご飯だねぇ!』
妻と美鈴はいつも通りだ。花より団子とまでは言わないが、二人とも美味しい食事とスイーツには目がない。
しかし、問題は奴だ。
「おい、翔太、降りるぞ!」
「ふっ、やっと辿り着いた……ニューワールドに!」
車内に悪い空気が流れる。僕も含めて全員が笑顔で『あらあら』という表情だが、誰も内心では笑っていない。僕らは無言で車から降りた。
「……ふう、あそこにレストランがある!好きなだけ食べて良いぞ!」
「うわっ、パパ、太っ腹だね!」
美鈴が良い反応をしてくれたので、微妙な雰囲気は解消した。我が娘は気立てが良い。僕は哀れみの表情で男の子を凝視する。奴は危険だ。
そして、食事を終えた僕ら家族は再び車を走らせた。今回も自動運転を作動させ、高速道路をアルプスに向けて進む。
暫く走ると山道に入り、それに伴い勾配やカーブ、トンネルが多くなってきた。幸い自動運転は上手く作動しているが、そろそろ気が抜けない。僕はハンドルを握り締めた。
「さて、山道だから……おっと、スマホを落として……あれぇ?」
「パパっ、パパっ、パパっ!!」
「うん?って、うわぁぁ!」
『きゃああああ!』
道路に敷かれた白線を誤解した自動運転車が、カーブを認識せず、別の方向にハンドルを切った。その方向は土砂災害で埋れてしまった旧道、そして、地獄の入り口だった。
ブレーキをかけた時には、車は既に土砂の上に乗り上げて、空を飛んでいた。僕たち家族は悲鳴を上げながら、車と共に遥か下の崖下に落ちていく。
一瞬の事で、僕は混乱していて対応策を考える事が出来なかった。全員死ぬ、その事実だけを理解出来た。
◇◆◇
車内の全員が揉みくちゃになり、身体があらぬ方向に捩れたり、眼球にフロントガラスの破片が刺さった事までは覚えていた。それ以降の記憶はない。
だが、僕は生きていた。怪我をしている筈の身体が自由に動く。痛みは感じるが打ち身程度だ。目も見えた。
僕は立ち上がり、付近に倒れていた美鈴、翔太、そして、妻を抱き起こした。彼らも外傷はないようだ。僕は内心、安堵の溜息をついた。命は助かり、大した怪我はない。助けが来るまで生き延びられる。
ただ、疑問も生じた。『なぜ、身体が無傷なのか?』だ。混乱のあまり脳が誤解した、もしくは既に気絶していて夢だったなど考えられるが、答えは分からない。ここが現実だと認識出来るだけだ。
「おい、起きろ!起きろ、皆!」
「……ううっ、身体が痛いっ!で、でも、亮太さん、私たち生きているの?」
妻は足首を痛そうに擦っているが、血は出ていないし、骨折の様子もない。彼女も打ち身で済んだのだろう。
「あぁ、皆無事だ。誰も大きな怪我はしていない!でも、ごめん……こうなったのは僕の運転ミスのせいだ」
「良いのよ、皆無事なら……それよりも助けは呼んだの?」
「あっ、そうだ!忘れていた……」
僕はポケットに入っていた仕事用の携帯電話を取り出し、電源をつけた。強い衝撃を受けたので故障していないか心配だったが、通信会社のロゴが表示される。僕はガッツポーズした。
そして、僕は110番した。もしかしたら、山岳救助隊は別の番号があるのかもしれないが、そんな番号など知らない。
「出てくれ……」
『ピーピー、ピーピー』
僕が携帯電話に目を移すと圏外だった。僕は子供たちを世話している妻に、首を横に振って応えた。
このご時世山奥でも電話が繋がると宣伝する会社も多いのに、ここは随分と未開な場所らしい。
「さて、どうするか……」
「どうするも何も……ここに留まって助けを待つのが一番よ!だって、誰かは私たちが崖から落ちたのを見かけているに違いないもの……」
「そうだね、そうしよう。幸い車には食料が積んである。数日間は大丈夫だろう。風呂には入れないけど……」
僕は頭を掻きながら軽い冗談を口にする。妻は呆れた顔をしているが、このくらいの冗談は場を和ますために必要だ。
僕は妻に許可を取り、周囲の状況を確認するため歩き出した。どこまで飛ばされたのか、誰か通行人は居ないか、熊のように危険な生き物が闊歩していないかを調べるためだ。
「あそこに車があるって事は……ここから落ちた……でも、道がない。つまり、どこから落ちたんだ?」
あるべき筈の場所に高速道路がない。僕は周囲を見回した。だが、結論は変わらない。存在すべき道路や車が落ちた事で生じたであろう地面の凹みなどが一切ない。僕は何か恐ろしい事態に陥ったのではないかと悟り、そして、続く悲鳴で確信した。
『きゃああっ、な、何なのこれぇ!』
「くそっ、早苗っ!」
僕は急いで妻たちが居る場所に駆け戻った。妻たちの目の前で青透明の巨大な生き物が蠢いていた。
「こ、これはっ……」
「り、亮太さんっ、助けてっ!」
妻を、家族を救うため付近にあった太い枝を手に取りモンスターに無謀にも挑みかかった。
「し、死にやがれっ!」
「……ぷにゅ」
何か声、いや、音が聞こえた後、差し込んだ枝が飲み込まれていく。僕はモンスターの身体に枝が吸収される前に手を離した。このままでは僕も飲み込まれる所だった。
「よ、よし、逃げるぞっ!」
「えっ?」
僕は妻と美鈴の腕を掴み逃亡態勢に入った。見た事も無いモンスターとやり合うのは危険すぎる。だが、無謀な者が一人居た。モンスターと正面で向かい合い微動だにしない。中二病の息子だ。
「おい、翔太っ!お前も急げっ!」
「フハハハハ、遂にこの時が来た!刮目するが良いっ!シャイニング・バースト・フェニックス!」
「ふざけるのも……って、えっ、えっ、ええっ!?」
息子の身体から炎に包まれた火鳥が飛び出した様に見えた。いや、確実に見えた。
「ハハハ、俺は無敵だぜ!おっと、右手が疼く!抑えろ、俺のラブリーライトアームよ!」
翔太は明らかに要注意人物になっているが、それ以前に奴の力は何なんだ。モンスターに向けて炎が、と言うか、森が燃えている。
「か、火事になるぞぉ!おい、翔太っ!こ、これっ、放火だぞ!ど、ど、どうするんだ!」
「ふっ、俺にかかればこの程度の火事……『水の女神の息吹』…………うんっ?『水の女神の息吹』!」
翔太は意味の分からない言葉を呟いているが、火の手が収まる様子はない。むしろ、火が次々に燃え移って炎の勢いが増している。
「し、翔太っ、じゅ、準備しろっ!命を無駄にするなっ!」
「な、なぜだっ!俺の力は無限大のはず……」
「おい、馬鹿言うな!」
僕は翔太の腕を掴み無理矢理連れて行こうとする。だが、肝心の翔太が頑として動こうとしない。火の手が迫り、遂に火に囲まれた。妻と美鈴は無事だが、僕と翔太は万事休すだ。
「おいっ、火を抜けるぞ!覚悟は出来ているか?」
「フハハハハ、俺は最強なんだ!ビホールド、俺はシャイニング・バーストの使い手だ!炎は炎で消す!シャイニング……いてっ!」
「ふざけるのも大概にしろっ!!」
自分の世界に入り込んでいる翔太の頬をぶった。この息子の育て方を間違ったとは思わないが、危機的な状況で冗談を口走るダメ人間に育てたつもりはない。
「クソ親父っ、見てみろっ!シャイニング…バースト…インフェニット!」
森が吹き飛ぶ様な爆発音が聞こえたと同時に、身体が吹き飛ぶほどの衝撃で僕は後ろの木に叩きつけられた。
その後は記憶がない。つまり、僕の記憶はここで途切れている。
◇◆◇
「つまり、貴方はこの世界の住民でないと……」
「いやいや、ドラマやアニメじゃないんだから冗談はよして下さいよ!僕は正真正銘、この世界の人間ですよ!だって、貴方と同じ言葉を話し、貴方と同じ字を……この字は……に、日本語じゃないっ!?」
目が醒めてから事情聴取を受けていた僕は先程から手にしていた書類に目を通すと、素っ頓狂な声を上げて驚いた。ここは日本ではない。加えて、僕はなぜか未知の言語を解している。
(待てっ、これは夢だ!ちょっと、夢に思えない、現実風の夢を見ているんだ!)
「悪い夢だ……」
「あらっ、夢ではありませんよ!だって、貴方は今、私の目の前で喋っていますし、先程から自らの素性について耳が痛くなるほどの熱弁を語っていましたよね」
確かにかれこれ20分は事の顛末を語っていた気がする。目が醒めてから状況も把握出来ないまま目の前の女性が現れて、あーだこーだと質問されて僕は返答していた。そして、その後、旅行の話になって色々と話し始めたのだ。
つまり、僕は夢見ていない。ここは現実世界だ。
「いやっ、夢で語る事も……いやっ、これは何かの撮影なんだなぁ!おい、カメラマンさん、出て来いよ!」
「はぁ、大丈夫ですか?ここ、おかしいんですか?さっきから気が狂った話ばかりですし、やっぱり頭をぶつけた衝撃で……」
「いやいや、どこが狂っているんです!僕はまともですよ!失礼じゃないですか!」
「はぁ、どうしよう……」
彼女は困り果てている様子だが、僕の方がもっと訳が分からない。と言うか、美鈴、翔太、早苗はどこに居るんだ。