4畳半暮らし
4畳半暮らし
自己都合退職したので、失業手当も3ヶ月待たなくてはならない。義父の葬儀後ハローワークに通う毎日が続いた。折しも就職難の時代となり、求人欄は貧弱で何時も郡山ハローワークは職を求める人達で溢れていた。世間がこのような状況であることを迂闊にも知らず、ただ嫌気が差したという安易な気持ちだけで退職した私は本当に馬鹿者だ。
その中で、求人欄には警備員指導教育責任者を求める会社があった。右翼活動家の笹川良一氏が設立した日本トーターで、新規警備会社を立ち上げる為、その道のプロを募集していた。早速メールで応募したところ、面会したいとの事で会津若松市内のホテルで会った。履歴書を見せ幾つかの質問に澱みなく答えたところ、好感触を得た。
しかし、面接した課長は私一存ではいかない、社に帰り上司の判断を仰ぐと云う事で、後日また会うこととなった。そして、数日後今度は課長と上司の部長二人と会った。今度も色々質問されたが、キャリアの私にとってなんら難しいことではなかった。
結果は電話で連絡すると言う、しかし内心私は自信を持った。何しろ25年この道に携わっている、それも一警備士からの叩き上げから管理職も経験した。何でも御座れと意気揚々、再就職を心配している妻に決まったようなものだと告げた。
そして電話が来た、だが予想に反し不採用となった。そして採用は喜多方市に住む方に決まったと。唖然とした、福島綜合警備の本社警備課長を経験している私よりキャリアの持ち主がいるのか、そんな筈はない、私は大手の綜合警備だぞ、間違いではないのか。
落胆したが、何私程の実績があれば小さな警備会社だったら諸手を挙げて採用するに違いない、そして今度は郡山市内の警備会社が警備員指導教育責任者を求めているので応募し、面接に行った。業務拡張ということで、警備員の指導を担って頂きたいということ、無論承知した。
条件は日本トーターより落ちるが、ま、それは仕方がない、何しろこの就職難、贅沢は言っていられない、早く妻を安心させたい。
だが、結果はまたしても不採用、どうして、私の何処が悪いのだ、学歴だって努力して通信だが中央大学法学部を卒業した。警備経験も豊富で、現実警備業法の変更届け出や認定の更新等実務経験も豊富で、しかもパソコンもエクセル、アクセス、ワード、パワーポイント、一通り何でも出来る。
何が良くないのだ、幾ら考えても答えは出て来ない。このニ度の失敗で懲りた私は、警備員指導教育責任者への就職を断念し、平警備員を募集している小さな警備会社に応募したが、ここでも不採用となった。もうこうなると訳が分からない、こうして警備会社への就職は諦めた。
仕方なく運転手の道を選んだが、56歳となった私を採用する会社はなかった。最後とばかり乳製品を扱う運送会社の面接を受けたところ、採用担当の課長から、ある人の名前が出た。
福島綜合警備の本社警備課長時代、その人は郡山支社で警備係長をしていた、ある時駅前のビッグアイ警備を請け負うにつき色々相談を受け、私は些か力を貸した。採用担当の課長は、その警備係長の友人で、私の人物像を尋ねたところ問題ないとの回答を得たので、就職難だったが幸いにも採用された。人の縁は何処に繋がっているか計り知れない。
だが、折角の就職もバイクの自損事故で負傷した私は辞めることとなってしまった。もうこうなると馬鹿に付ける薬はない。
妻からはもう完全に相手にされなくなった、で、4畳半での家庭内別居状態となった。




