食パン
食パン
小学4年の時、青山君が東京から編入してきた。半ズボンから伸びた長い足、顔立ちもすっきり、忽ち女の子が夢中になった。それに比べて、ずんぐりむっくりの私だけど、何故か青山君と仲良くなった。
ある日、青山君は欠席した。しかし、給食の食パンはクラスの誰かが届ける決まりだったので、私が雨の中、食パン2枚をハンカチに包んで青山君の家に届けた。チャイムを鳴らすと、母親が出て来たので、食パンを届けに来たと言ったら、有難うと言って家の中に入った。
青山君の様子が聞きたかったが、口に出せないまま、雨がまたひとしきり強く降る中、俯きながら帰った。
神社
北原町には小さな神社がある。誰を祭っているか知らないが、子供達の恰好の遊び場だった。私も、境内の木に登ったり、キャッチボールをしたり、と昼間は自由気儘に遊んでいたが、夜はちょっと不気味で日が暮れると早々と家に帰った。
その内、誰かが肝試しをしようと提案した。夜、社殿の裏を廻ってくるのだ、裏手は無花果の葉が生い茂っていて、茂みから何か飛び出してくるような気配がする。また、神様が寝ている時間に、騒がしく音を立てたら、罰が当たるかもしれない恐怖心があった。
夏向けのお化け映画の看板すら怖くて目を逸らし、あの生意気な妙子にからかわれる小心者の私だが、ある夜覚悟を決めて社殿を一周した。何事も起こらなかった、それからの私は自分が少し変ったような気がした。
フォークダンス
中学3年時のクラス担任の矢野先生は、少し変っていた。体育祭に学年全員でフォークダンスをしようと企画したのだ。思春期の真最中、先生の提案は到底受け入れられるものではなかった。ましてや私は、人一倍容姿に自信がない、顔が腫れただけで、学校を休むと言って、親父の拳骨を貰ったのだから。
それにあろうことか、入場行進の先頭を命じられたのだ、しかもペアを組む女生徒は、学年でも一番背が高く、勿論私より背が高い八木さんだ。練習の時も、手を握らない私を名指しで叱りつけた。
運動会がやってきた。白い体操服の男女中学生が肩を組み、手を繋ぎ、輪になって踊り、それを眺める父兄や関係者、秋空の下、清々しい空気が会場を包んでいた。
先生の、得意げの顔を思い出す。
400メートル
団塊世代の私達は、昭和38年の時ピークを迎えた。私の中学校も3学年合わせて、36クラス、生徒数1800人弱、もうこれでは、学校の運動場で体育祭を開くのは無理だ。そこで、瑞穂競技場を借りることとなった。
私は、何故か400メートル走に出場することとなった。しかし、走るとこれが辛い、ゴールに辿りつけるかどうか、なんとか完走したら、これが予選突破の2位。もう1回決勝で走ることになった。結果は8位。もう二度と走るものかと固く誓った。
少し間を置きます。その間福間家の家族旅行記Ⅱをお楽しみ下さい。
ある時、石灯篭が崩れた、幸いに誰も怪我がなかった。誰かがいたずらしたか、それとも劣化によるものか分からないが、私がもしその下敷きになっていれば、また違った人生になっていただろう。運命は本当に測りがたい。