6人家族
生まれて来て呉れて有難う
連絡を受け、直ぐ病院に向かった、病院とは云え、同じニュウタウンの産婦人科医院だった。妻は実家に帰らず、此処で産むと決心していた。これが女性にとって如何に大変なことか、男の私には分からない。
初めてのお産、実家に帰って産むのが普通だろう、だろうか、それは人それぞれで、時代もあるだろう。だが、妻は此処で産むことを決めた。それは、何よりも私に生まれたばかりの赤子を見せたい、その一念、それほど私は妻から愛されていた、いたのだろう。
妻は今でも、その時のことは言わない。だが、妻は多くを語らないが、真はぶれたことがない、妻だけではないかもしれない、多くの女性がそうかもしれない。多くの女性に尊敬の念を込めながらも、やはり妻を褒めたい。有難う、肉親の情愛が薄い私にこれから生きる指針を与えた呉れた妻に乾杯。
保育器に眠る我が子をガラス越しに見た。涙が溢れてならない、こんな幸せがあるの、何時までも見ていたい、此処で夜を明かしたい。
お袋も大喜びだ、良かった、本当に良かった
6人家族
23歳での挫折は、経済的にも精神的にもボロボロになったが、僥倖にも最愛の妻を得て、子供が生まれで人並みの人生を歩めることとなった。長男誕生翌年後、同じ2月に次男が、その翌年10月に三男と、所謂歳子で3人男の子に恵まれた。
瀬戸市の旅館で住み込みの仲居をしていたお袋が、持病となった糖尿病で満足に働けなくなり、旅館から邪険な扱いをされていた中、これも自分が招いた不始末から、自衛隊を中途退職した私が迎えに行ったとき、これ幸いと荷物と共に放り出された悔しさを忘れることは出来ない。
世間の辛さ、惨さを知ったことはその後の私の生き方に暗い影を落とした。若し、お袋がいなければ自暴自棄になっていただろう。
そしてお袋と二人、世間の隅で生きてきたが、妻と巡り合えたことは、神様がもう一度遣り直せとチャンスを呉れたのだ。
そして子供3人に恵まれた。二人だった生活が、6人家族、もう家の中は賑やかだ。




