結婚式
結婚式前夜
実は本当に情けない話だが妻に結婚指輪も渡していない、それと結婚式の費用は全額義父母が負担した。
満28歳で結婚したが、何せ自衛隊での失敗で生活はどん底、漸く運送会社で働くようになって極貧生活から脱出したが、無謀にも通信教育に挑戦したことから辛うじて生活を維持しているだけ、とても結婚費用を蓄える余裕はなかった。
こう書いていると、義父母と妻に済まないと云う気持ちばかりで、今こうして幸せに暮らしている私は何と果報者であることか。
前日は全員妻の実家で御世話になったが、義父母は前夜祭も準備していた。
所謂親しい身内だけ集まっての宴で、1階の8畳と6畳を開放し、15,6名が参加した。
この中には、長男が生まれたとき命名の筆を取って頂いた猪苗代の若き御坊さん(何故か義父は懇意にしていた)や、妻が裁縫を習っている先生も来て呉れていた。
和気藹藹の中話も弾み、緊張して名古屋から来た私達の気持も大いにほぐれた。裁縫の先生が準備した達磨に皆が寄せ書きをして呉れた。
結婚式
挙式した伯養軒の会館、今はない、そこにはマンションが建っているが、そこを通る度に結婚式を思い出す。
無謀と云える結婚の申し込み、トラックの運転手、母子家庭、高卒、貯金もない。高学歴、高収入、高身長、所謂三高と真逆の私、何か取り柄と云えば、身体が丈夫なことだけ。
前夜の心温まる宴で気持ちが昂揚している。紋付袴の私と文金高島田の妻が神前で誓の言葉を述べ、披露宴会場へ向かう。扉を開けての入場かと思いきやゴンドラから降りてくる演出、何も知らない私は吃驚するとともに幾分気恥かしい。
着席し仲人から履歴紹介があるが、取り立てて誇るものは何もない。
仲人さんもあっさり終わる、妻の方は義父が今を時めく福島県日教組の副委員長、妻の学歴もこれまた郡山でも有名な女子校。ましてや仲人は義父の親友で市会議員、いやはや此処にとぼけた顔で着席している私の何と図々しいことか、こんな私と結婚する妻は本当に偉い。
私の方は5名だが、妻の方は義父母が心温まる式にしたいということで、しかし余り大勢でも、とそれで総勢50名程となった。
乾杯の合図とともに披露宴が始まった、皆がビールを注ぎに来る。妻は御色直しに席を離れているので、程程にと言われているが何しろビール大好き人間、これが飲まずにいられるか。名倉さんも川瀬君も、顔を紅潮させながら来る。
余興も始まって益々盛り上がっていく。妻は友達も多い、それも中学、高校からの交際で、妻の優しさと思いやりを誰もが良く知っている。
その女性陣が合唱する歌は、はしだのりひことクライマックスの“花嫁”、妻が遠く名古屋に嫁いで行くことを思いやっての歌だ。
義父の妹夫婦は共に牧師さんで、日曜日で教会の仕事が有って出席出来ないが、代わりに子供達3人が来て讃美歌を披露して呉れた。澄んだ歌声が会場を益々和やかにする。
義父は市会議員の親友とダンスをしてこれまた場を賑やかにしている。こうして楽しく過ぎ、宴も終わりに近づいた時、皆が両手でアーチを作った、その中を、二人背を屈めながら潜って行った。
一人一人からお祝いと励ましの言葉、妻と二人感動して泣いてしまった。会場も泣いていた。
失われた30年では結婚事情も大きく変化、収入面や将来の展望不安などで結婚件数も低下、加えて離婚率上昇と、小生が結婚した1977年と正しく隔世の感がある。確かに誰しもが安定的な生活を望むことに異議は唱えられないが、その根底に多くの収入イコール幸せと幾分勘違いしている面も多々あると感じる。
これを読んで頂いている方には十分承知のことだろうが、そうなら私は結婚の対象すらならないだろう。あまりにも条件が悪すぎる、病気の母を抱え高卒のトラック運転手、見向きもされなくて当然かもしれない。しかし、妻はそれらを承知で21歳で結婚を決意してくれた。何が言いたいかと云うと、結婚してからが大切、二人で協力して生きていけば何とかなるさ、と。しかし、これもこの76歳で感じること、ま、兎に角、踏み切ることではないだろうか。




