結婚式参加者
結婚式参加者
結婚費用も調達出来ぬ有様、よくこれで結婚したいなどと厚かましさにも程があるが、義父母は東京の1件があったことから、準備云々より早く一緒にさせた方が良いと考えて呉れた。
それで昭和52年4月10日に式を挙げることとなった。しかし、式は郡山市なので、出席者は私、お袋、九州のイセ叔母さん、名倉さん、川瀬君の計5人。
名倉さんは、昭和50年私が初めての東京での中央大学夏季スクーリングの時知り会った。当時、名倉さんは通信学生の愛知支部の支部長をしていた。学業も5年目となっていて、卒業まで後一息翌年卒業した。私の酒屋での立ち飲みがきっかけで懇意にして頂いたが、寿司屋でご馳走になるなど、同年ではあったが、大人の風格があり、皆から慕われていた。
これも恒例だったが、スクーリングの前期、後期の合間一週間の一日、愛知支部は県出身者の教授を招いて懇親会を開いていた。そこに、商法の大家である戸田修三教授が出席して呉れた。先生は、この懇親会を楽しみにして、お身体が少し不自由にも拘わらず、一人一人の話に耳を傾け熱心に聞くとともに、励ましの言葉も頂いた。
先生の講義を大講堂で拝聴したが、商法第502条の各号についての商行為を、実に分かりやすく胸に沁み入るような格調の高い内容で、商法を身近に感じた。特に5号は、作業又は労務の請負も商行為であること、だから警備業も請負業として商行為が成立していると理解した。
その先生と話している、昼間学生だって先生のお顔をこんなに近くに見ることはないだろう、もう感激だ。懇親会が終了し先生をタクシーで名倉さんと一緒にお送りしたが、ご自宅に到着した時寄って行かないかと暖かいお言葉を頂戴したが、既に時間も遅いことから辞退した、しかしあの感動は今でも忘れる事が出来ない。
30数名参加した懇親会で、新入りの私が名倉支部長と一緒に戸田先生を送ることとなったのも、名倉さんと懇意になったため、今度は私が招く番となり、名倉さんが卒業後も連絡を取り合っていたので、思い切ってお願いした。気持ち良く引き受けて頂いたが、実は義母の旧姓は名倉で、これも何かの縁かも知れない。
川瀬君は、私が24歳で小さな運送会社で働くようになって半年後知り会うようになった、少しばかり私が、蘊蓄があることに驚き、また通信大学に入る時は大いに励ましてくれた。ひとつ上の兄貴だが、川瀬君と君づけで読んで忽ち親友と呼べる仲となった。当然、結婚式に出席することを大いに喜んで呉れた。
九州のイセ叔母さんはお袋の二番目の妹で、お袋が親父と九州福岡県飯塚市の三菱炭鉱で働いていた時、名古屋から呼び寄せ地元の青年と結婚させたが、引き合わせた仲人の当事者達はさっさと名古屋に引き返し、結果叔母さんは取り残された形となり、大いにお袋は恨まれていた。
しかし、私の高校3年冬休みの自転車旅行や自衛隊時代の家族3人の九州旅行がきっかけとなり、名古屋と九州福岡県と遠く隔たりはあるものの、お袋は頻繁に叔母さんの所に遊びに行き、また私達が高蔵寺のニュウタウンで暮らすようになった時、お袋の糖尿病が悪化して緊急入院した際は、はるばる見舞いに来て呉れたこともあり、姉妹5人の中でお袋はイセ叔母さんと一番気が合っていた。
総勢5名、結婚式前日の4月9日名古屋駅で集合し郡山へ向かった。




