石榴その後
石榴その後
昭和34年9月26日、名古屋にあの伊勢湾台風が直撃した。名古屋はそれまで大きな台風に見舞われたことが無かったが、無情にも台風は伊勢湾を北上し、高潮と強風で繋留していた材木の綱を切断し、濁流とともに材木が港区、南区の民家に押し寄せ、死者5000人以上と未曾有の大災害となった。
雨戸に板を打ち付けて、強風に備えていたが、最大瞬間風速50メートル以上を記録した強風は、それをあざ笑うかのように容赦なく家を揺すった。質店に勤めている家主と、親父、私も必死になって雨戸を押さえ、辛うじて強風から家を守る事が出来たが、夜半過ぎ、二階の壁が崩れたので、近くの中学校の体育館に避難して一夜を明かした。
帰って見れば、石榴の木は無残にも根本から折れていた。その後、もうあの酸っぱい実を二度と味あうことはなかった。
背番号10
背番号1の凄い奴が相手と歌にあるが、中学野球部での私の背番号は10。3年生が10人、つまり補欠だ、町内野球大会で些か活躍した私も、野球部ではレギュラーになれなかった。それでも、最後の夏の大会に、先生は代打で出場の機会を与えて呉れたが、期待に添えず、3球3振。敢え無く、3年間の野球部生活は終わった。
記念写真を見ると、レギュラー番号の中に一人二桁のユニフォームを着た私が、幾分恥ずかしそうに唇を噛んでいる。
赤チン
小学校4年の頃、お茶屋にお使いにいった妙子を待ち伏せし、日頃苛められている恨みを晴らしてやろうと、店先を出た妙子目掛けて飛び出したら、思い切って角で頭頂部を打ち、2、3センチ裂傷し血が出た。
家に戻った私を見て、親父も、お袋も驚いていたが、医者に連れていく気配はなく、お袋は取り敢えず、タオルで傷口を押さえ、血が止まるを待って、裂傷した部分に赤チンを塗った。治療はそれだけ、心配そうに妙子の家族も見ていたが、お袋は慌てることもなく平然としていた。