手紙
手紙
今ならメールだろうが、40年前は手紙、便箋と封筒は常備品。文通の時代で、週刊誌には交際を求める男女が住所を掲載していた。自衛隊時代、一度文通したことがある。
唐突な申し込みを承知して呉れた妻に手紙を書くこととなった。綺麗な字を書いて教養があることを見せたくて、便箋に書いては気に入らなくて何度も何度も書き直した。忽ち書き損じの山となった、何時までもそのまま出さずにはいられないので、納得した字ではないが送った。
直ぐ返事が来た、3枚の便箋には女性らしい柔らかな文字がきめ細かに書かれていた。文章もしっかりしている、やはり私の目に狂いはなかった。
ひとつひとつの言葉の綴りに教養の深さが感じられる、驚いたことに百人一首から選んだ恋の歌が添えられていた。こんな素敵な手紙を書ける妻がますます好きになるのをもう押さえることは出来なかった。
読んでは返事を書き、それを読んだ妻もまた手紙を書いた、それを読んだ私は直ぐ様返事を書いた。こうして昭和50年の夏8月から52年4月に結婚式を挙げる約1年半に凡そ二百通手紙を交換した。
時には、会えない焦りから不安の気持ちを赤裸々に書いたら、妻は痛く心配し、決して心変りはしないと何度も何度も書いて呉れた。
私が書いた手紙は妻が何処かに隠している。妻から貰った手紙も何処かに妻は隠している。もう何を書いて、何を書いて貰ったか遠い記憶だ。何処に仕舞ってあるか聞いても笑うだけだろう。
それで良いさ、こうして暮しているのだから、もう忘れていいのよ、そう妻は思っているに違いない。
男親とは
正月訪ねても良いですかと聞いたら、即答でいいわ、と言ってくれたのでその日を心待ちにして仕事にも励みが出た、勿論学業の方も。
後日、妻の自宅に電話を掛けた。小さな運送会社だったが、生活も安定し黒電話も持てるようになっていたのは幸いだった。それと港区の襤褸アパート住まいでは、流石に交際を申し込む厚かましさはなく、これも団地に移れたので。
電話を掛けると、義母が出られて、私が挨拶すると、“おばんです”と言う、今も笑い話としてそのときの会話を取り上げるが、お義母さん、自分が歳とっているから“おばん(おばさん)です”と言ったのかな、と。
勿論これは冗談、福島の方言で“こんばんは”の意味、私も何となくそういうことではないかと思っていたが、初めて聞く方言で印象に残った。義母は、勿論妻から私の事を聞いているので、正月訪問したい、と告げると、気を付けて来て下さい、と快く返事をして呉れた。
妻との手紙のやり取りで、真剣に交際している気持ちを伝えたいので、ご両親に手紙を書きたいけど、と言うと、妻もそうして、と。
率直に結婚を前提としてお付き合いさせて欲しいと書いた。しかし、これは義父にとって驚きだった、妻は長女で、下二人弟がいるが所謂箱入り娘だ。
勉強したいからと、東京に出せば、どこの馬の骨とも知らない男と交際している。裏切られたという気持ちを持ったとしても誰も咎められない、それが世間の男親と云うものだ。
また、義父は福島県日教組の副委員長として日々忙しく活動し、拠点も福島市で、郡山の自宅に帰ることは月何回もなかった。
それだけに、妻が長女として一家を守っているとばかり思っていたら、突然の交際していることと、会っても居ない男から無礼にも結婚を前提にしているという手紙、暫くは妻と口も聞かない程険悪なムードとなっていた。




