勝(まさる)叔父さんの死
国雄叔父さんの子供達
八坂村の鳥屋国雄叔父さんには男二人、娘一人の子供がいる。従兄弟達は次々と結婚していったが、最後に残ったのが国雄叔父さんの長男だった。私より一つ下の昭和24年生まれ、従兄弟会があってお互い結婚する時は助け合うというのが暗黙の決まりで、事実そのように皆で協力し合って結婚式を盛り上げていた。
その長男の武史さんが従兄弟会のリーダーだった、私が一つ上だということで敬意を払って頂き、従兄弟会で最初の結婚した将憲さんの二次会では積極的に話しかけてきて呉れた。お酒が強く、風貌からして野武士風で、田舎親父然とした国雄叔父さんの息子さんとは最初思えなかった。
その彼も年貢の納め時、40歳で結婚し国雄叔父さんもほっとしていた。私も間もなく70歳、長男が40歳になった、叔父さんの憂いは正しく私の憂い、叔父さんの気持ちが良く分かる。
極平凡な娘さん、あれほど皆の結婚式を盛り上げていた当人は自分の結婚式は地味、拍子抜けしたがそれが彼らしい。
勝叔父さんの死
親父の突然の死は私にとってショックだったが、半面親父の故郷を知り叔父さん達、そして栗林家を知ったことは何よりの財産となった。
正一叔父さんの末っ子の将憲さんの結婚を発端として、血は繋がらないが、多くの従姉妹たちを知ったことは、それまで孤独を噛みしめていた私に新たな世界を切り開いて呉れた。しかし、それは私の勝手な思い込み、そんな甘いことはやはり無かった。
平成11年1月21日はその厳しい現実を思い知る日となった。朝から義父の具合が悪く病院に連れていくと、医者は様子を見るなり、このままだと命が危ない直ぐ入院しなさい、と。
家で知らせを待っている妻に緊急入院しなければならないと言うと、今知らせがあって、東松山の叔父さんが亡くなった、それと大町の勝叔父さんが亡くなった、と相次いで不幸の知らせが耳に飛び込んだ。
しかし、妻は家を留守にする訳にはいかない、で、私が行くことになるが、どちらを優先すべきか、東松山のおじさんの事はまた聞いて頂くとして、結果としては東京で下宿している長男の所で泊り、早朝車で大町に向かった。
告別式には間に合ったが、東松山の葬儀に参列したことで通夜には出られなかった。これは、勝おじさんの家族に悪い印象を与えた。私の親父の時もお袋の時にも、勝おじさんは来て呉れた。叔父さんの死の知らせは午前のこと、直ぐ私が向かえば通夜には間に合った。しかし、私は、間に合わなかった理由を説明しなかった。それは私の事情だ、つまり私は義理を欠いた。
親父の骨を納めるときは栗林家の墓は無かったが、勝おじさんは立派な墓石を建てていた。納骨を見届けた後、家に戻ったが、それからもう二度と大町に行く事はなかった。つまり、縁が切れたのだ。
それから数年し、長男の伸男さんから手紙が来た。それはまた別の稿で。
結局、私は実父と養父、ふたつの故郷から捨てられることとなった。




