お袋が惚れた男
お袋が惚れた男
親父は、信州長野は大町の生まれ、長男にも拘わらず、百姓を嫌って名古屋市の魚屋で修業した。包丁捌きは見事だったが、戦後はその働き場も失い、止む無く、お袋と二人、石炭景気に沸く福岡県飯塚市にやってきた。
炭鉱夫は何時落盤に遭って死ぬかもしれない、だから皆宵越しの金は持たぬ、を心情としていた。親父も然り、仕事を終えれば、仲間が集まり我が家は宴会場。何時も隅っこで寝ていた記憶がある。
5年間勤めた炭鉱を辞めるとき、退職金が20万円出た。千円札がない当時、百円札で2000枚、後にも先にもそんな大金見たことも持ったことも無いと、お袋が話して呉れたが、それも束の間、ツケの支払いと引っ越し費用で、手元に残ったのは少しだけだった。
だから、お袋の実家に親子3人転がり込んだ。まだ、未婚の娘が二人いるのに。魚屋で気風はいいかもしれないが、一家の大黒柱としてはどうか、でもそんな親父に、お袋は惚れた、九つも上の男に。
赤バット
アップリケのバイト料で赤バットを買った、小学3年には少し大きすぎたが。当時広場はいつも子供達が、ゴムボールで野球に興じていた。
バットの代わりは棒切れ、そこに真新しいバット、皆の羨望の的だ。大事に使っていたが、ある日八高(戦前の名古屋大学の名称)のグランドで遊んでいたら、中学生がやって来て、私にバットを貸せと言う。仕方なく貸したら、バットを2、3回振り回した後、バットを木の根っこに叩きつけた。
ものの見事に真二つ、折れたバットを持ちながら、とぼとぼ歩いて帰った。30日の労苦が一瞬で終わった。
先見の明
町内に同級生の中野君がいた、字は違うが名前が同じよしはるだったのでよく一緒に遊んだ。親父も中野君を可愛がって時々食事に連れていった。中野君は、瑞陵高校から神戸大学に入り、雪印の社長になった。親父に見る目があったのかな。
粉末ジュース
毎年学区で町内少年野球大会が開催された、参加資格は小学校4年から中学3年生まで。私が中学3年時、北原町の野球チームもメンバーが充実し優勝を争えるチームになっていた。
私は双子で兄の小林司君とバッテリーを組んだ。順調に決勝戦まで勝ち上がった。相手チームも中学の野球部員を中心に組んだ強豪チーム、白熱した戦いになったが次第に劣勢となった。しかも、回も7回、最終回だ、一死一塁、相手チーム投手の金城君が一塁に牽制球を投げた。タイミングはアウトと思われたが、何故か審判はセーフの判定。
これに不満を抱いた金城君はその後制球が乱れ、私たちのチームは大逆転勝利で初優勝した。私も、二塁盗塁阻止や、センター越えに2塁打を放って、応援に来て呉れた親父の前で、良いところを見せることが出来た。
夏の炎天下、応援の父兄は子供達に様々な差し入れをしたが、親父も差し入れをした、大きな薬缶に、粉末ジュースを溶かして。それを飲んだ子供が、これ、ジュースの味、しないよ、と。