親父の故郷、長野県大町市
初めに
長い間、実父の福間姓で原稿を書いてきたが、養子となって栗林の姓を名乗るようになってもう68年。この親父の故郷を書くにあたり、実父の福間姓では伝わらない事があるのでこれからは栗林姓で書くことにした。
親父の故郷、長野県大町市
高校で歴史の犬養先生から紹介され就職した研磨会社(日本研紙)も、家出したことにより9ヶ月で解雇され、その後一念発起し入隊した陸上自衛隊で、昔で云えば下士官の試験に一回で合格するも、前期教育と後期教育の間に不祥事を起こし、これまた解雇され途方に暮れていた時、お袋の一言で何とか近場の運送会社で就職し生活を立て直すことが出来た。
その後結婚し、先ずは人並みの生活を送るようになっていたとき、親父の故郷である長野県大町市の正一叔父さんから電話が入った。
話は遡るが、妻と結婚してからは毎年名古屋と福島県郡山市を往復していた時のこと、松本市に差し掛かる頃、ここから大町に行けるが、そこは親父の故郷で叔父さんの家があると言ったら、妻がじゃ行ってみたらと言うので、大町に行き、親父の遺骨を納めた寺をうろ覚えながら辿ってみると、畑を耕している男がいた、勝叔父さんだった。
親父は5人兄弟の長男、弟三人妹一人。本来なら家を継ぎ百姓をしなければならないのに、やくざな馬車曳きが昂じて郷里を飛び出し名古屋で魚屋に奉公した。
これまたお転婆だった9歳下のお袋と所帯を持ったが、戦後は職を得るためはるばる九州へ渡り、私を養子にして戻ってきた。そして、死ぬまで郷里の事は何も語らず自殺した。遺骨だけでもと思いお袋と初めて大町を訪ねたが、先祖の過去帳がある寺も栗林家代々の墓石はなく、卒塔婆を1本立ててそこに埋めた。
それから一度も墓参りはしていない、する余裕がなかった、何しろ自衛隊で失敗してから苦難の連続、やっと運転手の仕事を得、結婚し子供が生まれの10年間。
通り過ぎようかと迷いながらも、妻に、おじさんだ、と告げたら、挨拶したら、と言う。渋々車から降り、おじさん、“名古屋の栗林です”と声を掛けた。吃驚しながらも、覚えていて呉れていた。ま、兎に角家にあがれ、と言う。畑の直ぐ横に木造2階建のおじさんの家が。
あがりこんで手土産を渡し挨拶を交わす傍ら、何処かに電話している。すると直ぐ、もうひとりの男が、それが正一叔父さんだった。勝叔父さんは次男、正一叔父さんは四男 、この二人の叔父さんが親父の葬儀の時大町から駆け付けて来て呉れた。
結婚し子供の父親となった私を見て嬉しそうだった。特に、正一叔父さんは親父と歳が12歳も違っていた。四男なのに正一、それは昭和元年生まれだから、普通は昭一だろうが、何故か正一。
歳が離れていたので、末っ子の正一叔父さんは親父に可愛がって貰ったとのことで、勝叔父さんとは対照的に親父のことを懐かしんでくれた。それから正一叔父さんの家に行き、居間に飾ってある熊の縫いぐるみを長男が欲しがったらそれを持たせてくれた。正一叔父さんから、間もなく次男が結婚する、結婚式に来てくれるかいと言うので、勿論出席させて頂きますと約束し、その半年後の電話だった。
”警備人生まっしぐら”とその”事件事案集”を読んで頂いた方にここでお詫び申し上げます。
実は、綜合警備という実名で書いた所、その本社業務部から、業務上知りえた機密事項云々の文書が送られて来ました。削除しなければ、法的手段の措置を取ると云われたので、止む無く削除しました。
天下の綜合警備が、高々100名に満たない人にしか読まれていない、私の人生をけしからんと圧力を掛けて来ました。
私の文章の何処が綜合警備及び警備先に不利益を齎したのか、読者の方のご判断に任せます。
機会があれば、その綜合警備から送られたきた文章を読んで頂きたく思います。




