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高蔵寺ニュウタウン

高蔵寺ニュウタウン


 新築の2LDKの団地住まい、お袋にとって長い辛抱がやっと実った新生活の始まりで喜びに溢れていた。思えば、親父と一緒になり戦前は名古屋で所帯を持ったが、戦後職を失い、仕方なく福岡県飯塚市鯰田の三菱炭鉱社宅に住んで、夫婦共働きで私を育てたが、見切りを付け名古屋に戻ったものの、実家での間借り生活、他人の家での間借り生活、勝川のアパート時代も共同便所、そしてあの襤褸アパート暮らし、と、本当に落ち着いて暮らした時代はなかった。


 しかし、今度は台所、トイレ、風呂付きで二部屋とリビングルームもある。5階建の1階だから、出入りも苦にならない。何しろ山を切り開いて出来た団地だから解放感が味わえる。買い物も間もなくして、スーパーなど出来たので便利となった。


 後は持病となった糖尿病の治療だが、港区の名古屋掖済会病院で診て貰うようになった。しかし、最早食事療法は手遅れでインスリン注射をするしかなかった。そして、その注射をするのは私の役目となった。


 それはもう仕方がないことだが、お袋はそれも気にならないことで、時には私の大好物のぜんざいを大量に作って、食べきれない時は、持ち前の社交術で向かいの家と仲良くなり、3人の子供を抱える母親にそれをあげていた。


 働き場所は、小牧ターミナルの日本通運で、会社はその下請け会社としてトラックを持ちこみ、私も団地に留置きのトラックでそこに通っていた。団地には、4トントラックを置いていても苦情を受けるのを心配しなくても良いスペースもあり、何とも幸せな時代だった。


 それから1年後して、黒電話を持てるようになった。団塊の世代の方ならご存知のように、黒電話は庶民にとって憧れだった。この黒電話を持ってやっと人並みと云われた、それを持った。これで、会社や九州の叔母さんと連絡が取れる、しかし通話料には気を付けないと大変なことになるので、大体どの家庭も手短に話をしていた。


 こうして順調に推移して行った。後は月一度お袋を名古屋掖済会病院に連れて行ったが、その時は朝早くお袋を港区の病院に送り届け、その後小牧ターミナルに向かうが、何せ会社近くを走るので、ある時同僚のトラックに見られ、それが社長の耳に入り、トラックを私用で使っているのを叱られたので、その後、お袋は電車で通院した。


 週1、2度長距離運転し各地に荷を運んだが、ナビの無い時代、道路地図と宛先の電話番号だけが頼り、時には全く見当違いの道に迷いこみ、危うくという場面もあり、あまり運転手としては自分ながら優秀とは言えないが、これについては別に書くこととするので、それも是非読んで頂きたい。


 早く仕事が終われば、トラックで県スポーツ会館に乗りつけ柔道の練習をし、また高校の柔道部で先生に断って練習させて貰うなど、結構勝手気儘に過ごしていた。それと云うのも、会社は週末だけ日報を報告しに来れば良いと管理も緩やかだったので、それに甘えて随分好い加減な事をやっていた。


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