港区須成町の運送会社 後段
最初に与えられた仕事は2トントラックで、会社から直ぐ中川運河沿いの倉庫会社から荷を積んで愛知県下の配送先へ運ぶ仕事だった。
事務所に寄って荷送り状を貰い倉庫係に渡し、倉庫係がリフトでパレットの荷をホームに持って来るので、それを手積みし、シートが必要な場合はシートを掛けて運ぶ。
天気が良く、袋物で風に飛ばされるようなことがなければそのままで運ぶ。2トン車だから20キロ袋だと積載オーバーではあるが150袋は積む。
今なら積載オーバーは違反だが、否当時でも勿論違反だが、荷主と運送会社は暗黙の了解のもと、否むしろ積載オーバーで走らない運転手は駄目運転手、また運転手もどうせ走るなら少しでも運送賃が良い方が良い、そんな時代だった。
だから4トン車で、5、6トンは当たり前、倍の8トンは積んで走ることもざらだった。何も、私が働いた運送会社だけでなく、どの運送会社もどうせ走るなら、そんな風潮だった。
極貧生活を余儀なくされていた私にとって、働けば働く程収入が増える運送の仕事は魅力的だったが、当初はトラックの振動で胃の調子が悪くなり、社長から長距離仕事を命じられた時、それを理由に断ったら、少しむっとした顔をされたこともあり、これでは又元の黙阿弥になると、身体をそのように懸命に馴らした。ま、若かったので直ぐ慣れたが。
しかし、明日の生活にも困る逼迫した状況だったので、お袋の入れ知恵で前借を申し込んだら、社長の奥さんは気持ち良く応じて呉れたので、改めてここで一所懸命働こうと決意した。
最初の倉庫会社での思い出と云えば、配送係の人が住所を間違えたので、配達出来なかったこと。配送先は岡崎方面の西尾市なのに、宛先の記載を岐阜方面の尾西市にしたので、行き先々で住所を尋ねたものの分からず、止む無く倉庫にその連絡をしたら、宛先が間違っていたということが分かり、一日無駄足を踏んだ。
今なら携帯電話やナビで連絡や住所地を確認出来るが、当時は公衆電話で連絡を取るしか手段がなく、手間が掛かる時代だった。
その2トンで東名自動車道を上り御殿場方面に荷を運んだ際、途中エンジンの調子が悪くなり、PAの給油所で確認したらオイルが無く、会社に連絡したら、兎に角オイルを補充して走れという指示のもと、御殿場の急坂を登って行ったが、白煙がもうもうと噴き出し、後続車から怒られる始末、何とか届けたものの冷や汗が出る思いだった。




