港区須成町の運送会社 前段
港区須成町の運送会社
足掛け10年の運送屋時代は、生活も安定したので予てから志していた通信教育を学んだことにより、そこで妻と出会い結婚し子供が生まれ、20代前半から30代前半に掛けてお世話になり、今思い起こせば一番充実した時期だったような気がする。
自衛隊退職後ひと月だけ別の運送会社で働くも、人間関係が上手く行かず直ぐ辞めてしまったが、この会社が家族的な会社だったことが幸いして、何とか運送屋時代を全うした。
現在どの企業も同様に管理社会であることから、運送業界に於いてもその運行管理がきめ細かく決められているが、私の時代は大手の運送会社もその管理が緩やかな時で、ましてや20数台の4トントラックを抱えるだけの小さな会社では、格別煩いことは云われなかった。
しかしながら運送業が危険なことは今も昔も変わりはない、この小さな会社でも、人を死亡させたり、事故を起こして重傷をおったりと、人生を棒に振った運転手も居た。
私も居眠り運転したり、ダンプに追突されたりと色々なことがあったが、何とか怪我なく運転手を勤めあげ、第三の人生となった警備業に移れたのは幸運の何者ではないと今つくづく思っている。あわやという事案はこれから読んで頂くが、先ずはこの会社のことを紹介したい。
社長は2代目で34歳、その下に弟さん、そして事務員として社長の奥さんと、弟の奥さん、奥さん達は姉妹、つまり社長とその弟さんは同じ家から嫁さんを貰った訳だ。
今嫁さんを貰う、と、表現すると差別用語だと非難されそうだが、当時は極当たり前の表現で、この稿を書き進めていく中で、現代では死後となっている表記もあろうが勘弁して頂きたい。
社長の奥さんは目が大きくふくよかな顔立ち、弟さんの嫁さんはちょっと目が細く痩せていたので、最初は同じ姉妹とは思っていなかったが、親友となった川瀬君からそのことを聞いてそうだったのかと分かった。
その川瀬君は奥さん達の弟で、川瀬君は自らトラックを持ちこんでこの会社で働いていた、そして川瀬君の弟も同様にトラックを持ちこんでいた。そう典型的な同族会社だった。そして、社長の父、現会長の弟で大手の西濃運輸の営業所長を退職した方が専務の役職に就いていた。
従業員は私が入社した時は20数人、大半が20代と30代の集団で、一番の年長で皆から親父さんと呼ばれていた方も40代半ばだった。会長が裸一貫で築いてきた会社を今の社長と弟さんが受け継ぎ、小さいながらも着実に業績を伸ばしてきていた。




