須成町の襤褸アパート 前段
須成町の襤褸アパート
7月に起こした不祥事も、自衛隊は将来に影響が少ないよう依願退職という穏便な処置に、しかも懇切に連隊長から、元師団長が経営する京都の料理店への就職を世話され、三ヶ月程勤めたが、やはりお袋の事が気になり辞めてしまったので、折角のご厚意も無にしてしまった。申し訳ありません。
自衛隊勤務のことはまた後程書くことにして、身から出た錆びとは云え、京都から逃げ帰るように名古屋に舞い戻った私は、瀬戸市の旅館で仲居として働いているお袋を訪ねた。
お袋も持病となった糖尿病が悪化し、満足に仕事が出来ないことから、旅館からもお荷物扱いされ、迎えに行った私にこれ幸いとばかり、にべも無い応対をしたので、鞭持て負われる如く、親子二人悄然と肩を落としながら旅館をあとにした。
僅かな蓄えも底をつき、お袋の発案で、4番目の叔母さんが暮らす港区須成町のアパートに行くこととなった。かといって、二人の子供を育てる叔母さんと一緒の部屋とはいかず、親子二人一部屋を借りることとなった。
最低の家賃しか出せないので、提供された部屋は昔ながらの廊下を挟む6畳一間、台所なし、トイレなし、勿論風呂なし、のないない尽くし、しかも畳は襤褸、おまけに建屋2階自体が老朽化しているので、部屋全体が傾斜している有様、勿論陽も当たらない、あるのはガスコンロひとつ、裸電球ひとつという、23年間生きて来た中で、ここまで落ちぶれるかと、思わず涙が溢れそうになるのをやっと堪えるのが精一杯だった。唯一楽しみなテレビも、月賦が払えず持っていかれてしまった。
しかしお袋は平然としていた、大体このお袋は楽天家だ、くよくよしている姿を見たことがない、糖尿病にも関わらず、相変わらず好きなものを食している。もう少し健康管理に気を配って欲しいが、何せ健康保険証もない。お先真っ暗だが、このお袋がいて呉れて良かった。
もし自分だけなら、もっといい加減な人生を送っていたかもしれない。人生山あり谷あり、このお袋が居れば何とかなるさ。
10月から住み始めたが、自衛隊で失敗した後遺症から就職するのが怖くなり、その年は配送のアルバイトなどして親子二人何とか食いつないだ。
年末となり、最後の稼ぎとばかりアルバイト料が高い熱田の中央卸し市場のバイトに行った。早朝3時からのきつい仕事だが贅沢は言っていられない、それに朝食も出るので助かる。正月を迎える市場はてんてこ舞いの忙しさだ、言われるまま魚をあちこちと運ぶ、まごまごしていると叱責が来る。
時には助手となって、得意先に魚を配達する。こうして2週間バイトをした。バイト料とともに、マグロの背骨を貰った。それを担ぎながら、2キロの道を歩いて帰った(勿論自転車は持っていない)。
階段下のアパートの共同台所で、その背骨についている身を丁寧に取るとこれが結構な量となった。4番目の叔母さんや同じ建屋に住む人達に分けても充分過ぎる程だった。大晦日、これで食事をすました。明日から新年を迎えるが、この昭和46年(1971年)は、まさに私にとって、生涯忘れることがない激動の年となった。
あれから53年が過ぎ76歳となった、今は長男が建てた家で妻と四男の4人で住んでいる。お袋はいないが、お袋が居て呉れて本当に良かった。人は一人では生きていけない、誰かが傍に居て呉れてこその人生、
家族があってこその人生。




