親父の死 後段
こうして何とか葬儀を終え、親父の死で思いがけず大町の叔父さん達と会へ、相談して遺骨は生まれ故郷の大町の墓に納める事が出来、お袋一人アパートに残し部隊に戻った。
早朝、班長から起こされる前、私は不思議な夢を見ていた。それは、親父の顔で、親父が重彦に会いに行くと言う、重彦は親父の実の息子、生まれて半年で死んでいた、私が重彦は死んで居ないよ、と言ったら、ふっと親父の顔が消えた、只それだけの夢。
それが虫の知らせか、そのあと班長から親父の死を聞かされたので、親父は一言、私に何か言いたくて夢の中に現れたのだろう。
しかし、親父の死は私には堪えた。小柄な体格で炭鉱夫や製綿工場の重労働で酷使した身体を、安い焼酎を飲んで誤魔化していたが、胃から鮮血を吐き入院したこともあり、その分多めに仕送りをして少しでも育てて呉れた恩を返そうと、陸曹候補生の試験にも1回で合格しその喜びを伝えた矢先の自殺だったから。
自殺した親を持つ子供は、精神的に大変なショックを受けると一般的に云われているが、私もその内の一人となった。
22歳で既に成人だったが、夫婦仲が醒め、お袋が時々九州の叔母さんの家に遊びにいくので、孤独であることは知っていたが、しかしそれが本当の理由か、否そんな事ではないだろう、矢張り病気を苦にしてか、でもそれもきちんと治療すれば治ると先生から聞かされていた私は、どうしても親父の自殺の理由が分からない。
長い、長い、自問自答は間もなく古希を迎えるこの歳になっても解決出来ていない。若い頃は、私に対する腹いせかと考えることもあった。
実の息子同然に慈しんで来たのに、家出なんかして、しかしそれは九州旅行で借りを返した筈、送金も廻りの者より多くし、自分のことは後回し、貯金もしている。何も今は迷惑を掛けていない、なのにどうして、首吊り自殺を。
仕事に行かない親父を心配して覗いたら、部屋の窓の手摺りに紐をかけそれを首に巻き付け横たわるように倒れている親父を発見したので、直ぐ救急車を手配したが、もう手遅れだったと、隣の部屋に住む夫婦が教えて呉れた。
陸曹候補生の前期教育終了後、後期教育前の休み期間中に不祥事を起こし退職を余議なくした私だが、その一因、否大部分を親父の自殺が関係していると思っている、それはまたお袋にも関係していたからだ。
一人残ったお袋は間もなく瀬戸の旅館で仲居として住み込みで働くようになった。しかし、糖尿病の治療を先生から厳しく指導されていたにも関わらず、甘いものを中心に偏食していたお袋は、身体に変調を来たし、満足に旅館で働けなくなっていた。
その苦しい様子を度々聞くようになった私は、その休み期間中に原隊である大津で宿泊していた最中外出し、強かに痛飲し隊に戻る途中、酔った勢いで、民家の駐車場にエンジンを掛けたままの乗用車に乗り込み、そのままお袋に会うべく名古屋に向かった。しかし、忽ち警察の御用となり、留置場に行く羽目となった。
今までも、高校卒業近くに担任から強制退学させられそうになる憂き目や、就職の世話をしない学校のあしらいで世間の冷たさを知ったり、折角の就職も家出で棒に振ったり、と些かの挫折感を味わったが、この自ら招いた不祥事はとてもそれらの比ではなく、その後の人生に大きく影響した。
辞めてからは、もう二度と陽のあたる仕事に就くことは無いだろう、結婚もすることはないだろうと卑屈な気持ちで過ごす毎日が続いたが、病気を抱えるお袋をそのままにして置くわけにはいかない、親父の自殺は堪えたが、今一度奮起して、兎に角もう一度やり直そうとした時24歳となっていた。
そして改めて、この紙面を借りて大家の安藤さんにお礼とお詫びを申し上げたい。親父の自殺でアパート経営に支障をきたしたことは間違いない、また同じアパートに住む方達にも大変なご迷惑を掛けた、まだ若かった私は、葬儀後大家さんに充分お礼を申し上げることもないまま、自衛隊退職後は名古屋市港区で生活に追われる毎日、いつしかその時のことを忘れてしまっていた。
また、春日井市の愛知県心身障害者コロニー中央病院の先生と子供達が遠い所、足を運んで頂いたのに、そのお礼もせず今日に至っている。誠に恥ずかしい限りだ。
お袋ももうそのアパートで暮らすことは出来ない、かといって新しい部屋を借りるには金がない、私の仕送りは度々の九州行きで使いはたしていた。私も些か貯金していたが、親父の遺骨を納めに郷里に行くなど、何かと使ったのでもう余力はなかった。
だから住み込みも仕方ないが、糖尿病を軽く見て治療を怠っていたお袋にとって、もう若い頃のような元気は残っていなかった。といってもまだ48歳だったが。
不祥事を起こした私は、京都から逃げ帰るように名古屋に戻り、瀬戸で働くお袋を迎えに行ったが、旅館はお袋が充分に働けない身体を知ってから幾分お荷物と見ていたので、私を見てやっと厄介払いが出来た顔をしていた。
こうして、自衛隊で人生を全うしようとした私の計画は敢え無く根底から崩れ落ち、お袋と二人、港区のアパート、6畳一間、ガスコンロひとつ、共同台所、風呂なし、共同便所、襤褸畳でしかも幾分傾いている部屋で、仕方なく約1年過ごす事を余儀なくされた。生涯で最大の苦難の年で、今になってもその時の生活の苦しさを忘れる事はない。




