親父の死 前段
親父の死
不肖の息子となった私、ふた月後陸上自衛隊に入隊、真面目に勤務し2年経過後は一時退職金の名目で纏まったお金を得たので、家族3人九州旅行をして少しは親孝行らしきものをした。陸曹候補生の試験にも合格し、松山の陸曹教育隊に入隊する日を迎えていたある日、1本の電話が私に掛かって来た。
忘れもしない自衛隊記念日の3月10日早朝、それは勝川のアパートの大家の安藤さんからで、班長から、親父さんが死んだと、その大家さんからあったので直ぐ行けと言う。
何故大家の安藤さん、お袋じゃないのか、混乱する頭で身支度して京都の大津駐屯地から愛知県春日井市勝川のアパートに到着すると、そこには安藤さんが。狭いアパートの一室の畳の上に布団が、線香の香りが漂う中、横たわっている男に被せてある白い布を取れば、それは紛れもない親父の顔。
死因は自殺、アパートの住人が発見し、大家さんに知らせ、大家さんは私が自衛隊員と云う事を知っていたので、関係先に連絡し漸く私の所在が判明したとの事だった。
溢れ出てくる涙を押さえ、本来なら此処に居る筈のお袋は屹度九州の叔母さんの所に居る、そこに電報を、チチシススグカエレ、親父の故郷、長野県大町市の叔父さんに電報を、名古屋市瑞穂区の雁道の叔母さんに電報を、と郵便局に向かう、勿論部隊に電話を。
細かなことは忘れて仕舞ったが、そうこうしている内に、大町の叔父さん達が、亀崎の叔母さんが、雁道の叔父さんが、小隊長二人が、そして最後に夜遅く、漸くお袋が九州の叔母さんに抱えられるように、幾分蒼ざめた顔で到着した。
狭い6畳の部屋は忽ち人で一杯、何時までも布団に寝かせて置く訳には行かないので、納棺しようと。だが死後硬直した親父の身体が少し曲がり、そのままでは棺桶に収まらないので身体を押さえつけたら、肋骨が折れる音と共に口から鮮血が溢れてきた、慌てて脱脂綿で口を拭いたが、それを見た途端私は不覚にも涙が溢れ、その涙が親父の顔に掛かった。後にも先にもこれほど泣くことはもう無いだろうと思うほど、次から次と涙が溢れて来た。
お袋が、御経を唱えながら身体を摩ると戻るよ、と言うので、宗旨と云う訳でもないが、雁道で暮らして居た時、風呂代が少し安くなるという単純な理由で、親父が入信した日蓮宗の南無妙法蓮華経を唱えて身体を摩ると、不思議、死後硬直した身体が少し柔らかくなり、親父の身体が正面を向いた。
こうしてやっと棺桶に収まったが、今度は猛烈にお腹が空いていることに気がついた。そう云えば、朝から何も食べていない、そして心の中で、人はこんな悲しみの中でも、お腹が空くのか、俺は何て親不孝な奴だ、と恥じた。
こうした中で、亀崎の叔母さんは台所に放置してあった剃刀で怪我をした子供を病院に運ぶハプニングもあり、とても静かに見送るという雰囲気の通夜ではなかった。
しかし、駆けつけてきて呉れた小隊長と大町の叔父さんが寝る所がない、何せ6畳一間と3畳の台所では無理、叔父さん達は近くのホテルに、小隊長二人は大家さんの家にお世話になった。
翌朝は出棺、しかし遺影の写真はない、大家さんから親父の写真を聞かれたが、自衛隊に居る私にはその所在が分からず、漸く九州から戻ってきたお袋に聞いて分かったがもう間に合わなかった。
大人二人がやっとの狭いアパートの通路、玄関を抜け、葬儀車両に運ぶ時、その道の傍らに大勢の子供達が先生と一緒に並んで立っている。親父は、もうきつい遠出の清掃作業から、春日井市の愛知県心身障害者コロニー中央病院の清掃員として働いていたので、親父の死を聞き大勢の子供達が参列して呉れていたのだ。
冗談好きの親父、子供達と触れ合い、何かと皆を笑わせ、職員の方達からも可愛がって頂いていた。こんなに皆に慕われていたのに、何故自殺なんかしたのだ、大勢の子供達一人一人の顔を見ていたら、もうあの時散散泣いたので涙が枯れ果てたと思っていた筈が、また止めどもなく溢れ、満足に会葬のお礼の言葉も云えなかった、代わってお袋が淡々と挨拶をした。




