東京浅草 後段
ある日階下の靴店に“虹色の湖”で、大ヒットした中村晃子が買い物をしていることを聞きつけ、私も遠目に見たが何と美しい女性だ、と心が震えた。
浅草の新仲見世通りにある喫茶店は、頻繁に客の出入りがあるので、厨房に立つ私も、慣れない手つきでサイフォンのコーヒーをかき混ぜたり、シェーカーを振ったりした。幾ら給料が出たのか全く覚えていないが、毎日が面白いので、そんな事は気にしていなかった。そして年が明けた頃ふと家に手紙を書いた。もう家を出てから三ヶ月が過ぎていた。
仕事を終え寮に帰ると、みかんの段ボール箱が届いている。開けて見ると、下着やお菓子、そして何故か下駄が入っていた。真冬の1月だったが早速履いてみた、何とも気持ちがいい、それで暫く通勤した。月も終わろうとするある日、店舗入り口から見たような顔がある、何とそれはお袋だ。驚愕している私を尻目に、お袋は支配人に丁寧に挨拶し、迎えに来た事を言った。
支配人も驚いた、実は私が家出していたことを知らなかったから、良く覚えていないが、今のようにお喋りではない当時の私は、多分その事を誰にも話さなかったのだろう。また、東京は人の流れが早い、もう誰も人に興味を示す時代では無くなっていた。
ま、兎にも角にも事情を察した支配人は即座に此処を辞め家に戻るよう命じた。元々何の目論見も無く、只の思いつきで家出した私、里心が芽生え初めていたので何ら抵抗せず従った。
勝川のアパートに戻る前、お袋は折角東京に来たからと、1日用賀の親戚を訪ねた。東京で生まれたお袋は生まれて半年ぐらいで名古屋に来たが、親戚が東京で暮らしていることを知っていたので、懐かしく、訪ねたのだ。
こうして10月から1月の約4ヶ月の東京暮らしは終了した。車中で、あの下駄の事を聞いたら、それは足封じの為だと。行き先が分からない家出人の消息が知れたら、それ以上其処からまた何処かへ行って仕舞わないように、足封じの御祈りをした下駄を荷物の中に入れて置くのだと。
勝川のアパートに戻ったが、もう親父は私の顔を見ようともせず、口を聞くこともなく完全に無視した。それもその筈、無断退職は家族ばかりでなく会社も大騒ぎだった。所謂行方不明者となった訳だが、会社としては当然解雇処分、それに伴い運転免許取得費用を請求した。
その工面も共働きの両親には重荷になった、毎日毎日心配の連続だっただろう、息子が突然姿を消せば、働いている最中でも息子の心配ばかりしていたことだろう。
今こうして文章を書いていると、改めて親父とお袋がどれだけ心配していただろう、と4人の息子を持つ親父としてつくづく、そして心から謝りたい。本当に申し訳有りませんでした。




