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真冬の九州自転車旅 後段

 この旅で幸いしたのは雨に降られないこと、何せ雨具は用意していない、どうして、それは分からない。


 5泊目は広島県尾道、倉敷の大原美術館は知っていたが、そのまま倉敷を通り過ぎる、しっとりした情緒溢れる佇まい、此処で暮らす人達、朝は洒落たコーヒーでも飲むのかな、俺は何時もお袋の味噌汁だけだが。


 尾道は民宿だった気もするがそれも今となってははっきり覚えていない、実は宿泊先毎にスタンプを押した手帳が有ったのだが、過去に未練を残すなが信条の私、それを捨ててしまった。


 6日目の朝、坂が多い尾道から港を眺めれば、瀬戸内海はきらきらと陽光に映えて何と美しいことか、その景色は今も眼に浮かぶ。


 国道2号線、歌手のフランク永井が、そのタイトル名で歌っていたことを後年知ったのか、その時だったのかもう遠い記憶だが、大阪から下関までひたすら瀬戸内沿いを走る。時々西風にしかぜが自転車の行く手を邪魔するが、ただひたすら踏むだけ、夏と違い睡眠と食事は万全、返って風が心地よい。


 今日は岩国の民宿。宿から直ぐ近く錦帯橋があったので渡ったことは覚えているが景色はぼやけている。もう一度訪ねて見れば思いだすだろうが。


 12月31日の夕方やっと来ました下関に。今グーグルマップで測ってみると約700キロ、もっとあるのかと思っていたが、その時は道路地図だけが頼り、測定方法も多分いい加減。


 それでも1日平均100キロなので頑張ったのかな。大晦日の宿は決めていなかった、私予算の関係と冒頭書いたが、どうもそれは違う、実は飯塚に到着したら蜻蛉帰りで名古屋に帰る計画だったから、否違うな、それだと帰りの宿泊先が有る筈だが、何処も決めていない。矢張り片道切符の計画だった。


 なら、何故下関の宿は決めて無かったのだ、今となってはその謎は解けない。が、兎に角今日は駅構内で寝て朝関門トンネルを渡ろうと考え、下関駅に行ったところ、夜12時頃近く駅から閉め出しに遭った。仕方なく街を歩き、民家の駐車場で寝袋に包まって寝ようとしたが、流石に寝袋だけではアスファルトを通して伝わってくる寒さには勝てず、まだ関門トンネルを通過出来る時間ではないが、自転車を引いて歩き出した。


 もう元旦、昭和42年の年明けに一人自転車を引いて見知らぬ町を歩いている私、いま想像してみても些か滑稽だ。市電の停車場で初詣に行く若い女性とふと目が合い、彼女から事情を聞かれたので、あらましを話したら、財布から2千円を取り出し渡そうとしたので、お気持ちだけ頂戴し、その励ましの言葉を背に関門トンネルを目指した。


 5時頃だったと思う、通行税は10円か20円、歩行者と自転車の専用道路の斜道を下ったような気がする。しかし“ここから福岡”の境界線を越えたことは良く覚えている。少し血が滾ったかもしれない、無謀とも云える計画だが海の中とは云え、現実に私は九州の地を踏んだのだ。


 門司から大分県の行橋、白く染まる雪道、飯塚の町に到着したのは夕方。飯塚駅で自転車を預け、今も三菱炭鉱の社宅で暮らす2番目の叔母さんの家を訪ねるためバスに乗り、運転手さんに下車する場所を尋ね、長い坂を登ればかすかに記憶がある社宅の風景が。


 お袋から連絡していたらしく、迎える叔母さんは目を丸くしながらも温かく私を家に入れた。


 叔母さんは名古屋で生まれ名古屋で育ったが、それが何故見も知らぬ九州の地へ、それはお袋が呼び寄せたから。親父とお袋が仲立ちとなり、叔母さんを炭鉱で働く男と結婚させ、二人の間には3人子供が。


 最初に生まれた女の子は私と同年、2歳下の女の子は小学校入学前亡くなり、3人目は待望の男の子、家に向かい入れて呉れた時、その小学校6年生の子が炬燵に包まって漫画を読んでいた。


 同年の従姉妹は中学卒業後福井県へ集団就職していたので、叔母さん夫婦は3人で社宅に暮らしていた。叔父さんは温厚な人柄で、遠い所から来た私を労って呉れた。叔母さんが早速鶏肉の入った雑煮を、幼い頃あの嫌な思い出がある鶏肉だが、寒空の中ひたすら自転車を漕いで空腹の私に何よりのご馳走だった。


 暖かい布団に包まり、7泊8日の旅も一息ついたが、只到着するだけが今回の旅の目的ではない。先ずは、高校1年の時長距離運搬の途中わざわざ立ち寄って呉れた兄に会わなくては。


 今思うと、その事情を察していた親父とお袋は事前に叔父さん、叔母さんに連絡して呉れていたので、兄とは難なく再会することが出来た。親とは本当に有り難いとつくづく思う、血を分けていなくても親子は親子だ。最高裁判所もDNA鑑定より、実際に暮らしている事実関係を重視しているが、実に人間らしい温かみのある判決だ。


 坂下の祖母の家で再会となった兄、何を話したのか何も覚えていない。ただ兄の白い顔だけ覚えている。しかし、それも一時、2泊叔母さんの家にお世話になり、今度は叔父さんが電車賃を都合して呉れたので帰りは電車で、自転車は後日送って貰うことにして、生まれ故郷飯塚の地を後にした。


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