映画館
勝川のアパート
狭い間取りのアパートも、上、下合わせて8部屋あった。玄関直ぐ横の部屋は20歳前後の若夫婦、何と奥さんは私と同年の16歳、しかも赤ちゃんが。次の部屋は、25、6歳前後の夫婦と少女が同居。
少女は奥さんの妹でまたまた私と同じ16歳。2階は30歳前後の夫婦と子供、そして犬と暮らす50歳前後の独身女性。まだ住んで居たかもしれないが、記憶に残っているのは、その人達だけ。 私達が住む部屋は、玄関から三番目。
大家さんはこの辺りの地主で安藤さん、畑を潰してアパートを建てた。息子さんも私と同年齢、春日井の高校に通学していた。安藤さんには、親父が亡くなったとき、大変お世話になったが、充分にお礼もせず今日に至っている、恥ずかしい限りだ。
知多半島半田市亀崎魚港
中学1年の秋、お袋と半田市の亀崎に行った。お袋は5人姉妹の長女、九州から引き揚げてきたとき、暫く雁道の実家で親子3人お世話になったが、当時未婚の妹二人も祖母と暮らしていた。
私から見れば、3番目と4番目の叔母さんになるが、その4番目の叔母さんに女の子が生まれたので、様子を見に行った。
亀崎まで国鉄武豊線で行くが、この線路は乗りなれていた。何故なら、亀崎の先が知多半島突端部に近い河和口で、海水浴場だったから、あの溺れそうになった所だ。
三河湾に面した亀崎は漁港で、叔母さんは海沿いの古びた漁師風の一軒家に乳飲み子と二人ひっそりと暮らしていた。お袋は手土産を渡したあと、なにか話し込んでいた。
帰りの電車の中、古びたホームを眺める私に、お袋がぽつんと一言、また行くからね。叔母さんより二つ下の旦那さんは、法に触れて、生まれたばかりの赤子を暫く見られないことを理解したのは、私が高校生になったときだった。
叔母さんにとって、お袋は母親代り、勝川の狭いアパートに何度も泊まりに来た。その都度、海苔を持参してきた、黒々とした海苔、もう一度食べて見たい。
市電
飯塚から名古屋まで、急行列車で28時間要した。列車の固い座席でお袋の膝を枕に2泊した。途中、京都で停車したことは覚えているが、印象となる景色は何も覚えていない。
名古屋に到着したら、市電が走っているので、それを見た私が怖がって、歩こうとしなかったから苦労したと、お袋が話した。
映画館
当時の最大の娯楽は映画を観ること。お袋も勿論大好き、鯰田炭鉱住宅に住んでいた時も、私を背負って飯塚市内の映画館に行った。名古屋に来てからは、特に東映映画の時代劇が好きで、正月の特別上演は毎年欠かさず観た。
入れ替え制なので、映画終了時は席取りで観客が殺気立つ、お袋も負けてはいない。猛然とダッシュし、席を確保すると、大声で私の名を呼ぶ。少し気恥かしいが、そんなことを言っていたら、ゆっくり観ることは出来ない。
その時の、お袋の雄姿を思い出す。




