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ある女の詩そして遣らずの雨

 雨上がりの夜更け、ママの怒りの声をあとにしてスナックを出た。

 いつもの うにスーパーで買った心ばかりの土産を渡して、店に入ったのもいつもの夕方8時頃。それから2、3時間経ったころかもしれない。酔っていた私にその声は、遣らずの声というより恨みの声だ。


 定期健康診断の待合室でみかけた顔を見た、私が気に掛けている女性だ。スナックでは男や仲間の女性達と来る、何度も顔を合わせるうちに、自然と隣のボックス席で少し話を交わす仲となった。もう50過ぎと思われるが、私も60を過ぎ、特に話をする訳でもないが、何となく気を引く女性だ。


 そして、少し会話をして、それとなく気があることを告げると、思いがけなく、ママに怒られるわ、と言う。えっ、ママに、勿論それはスナックのママのことを指す。 


 妻と別居状態の私はホテルの駐車場で係員として働いている。2日働いて、2日休み、勿論深夜勤務、夜8時から勤務そして朝8時に終える。朝帰りは歩いて3キロ程あるディスカウントショップに寄って、手頃の値段が付いた品物を買って帰る日々だ。手取りで12万は、5万を送金すれば7万、贅沢は出来ない。それでも自宅は持ち家だから家賃を払うことはない。


 その私も60歳になって年金を貰うことになった、少し送金を増額したが、それでも幾分余裕が出来た。それ故のスナック通いだ。


 川沿いのスナック、こんな所に。一度通り過ぎて中の様子を探ってみる。店のドアー付近に男二人が飲んでいる。思い切って扉を押す、中にママの白い顔、いらっしゃいませ、奨められるままにカウンターに座る、目の前にママの顔、40前後か。


 美人だ、綺麗だ、こんな鄙びたスナックに、店は7席ばかりのカウンター席と奥にソファ席が。ビールを頼み、飲む、暫くしていつもの常連だろう、4、5人の女性たちが、座が一度に賑やかになる。皆それぞれに歌を、そうここは歌うスナックだ。少し落ち着いて、私にも勧める。皆が引けたところを身計らかって1曲歌う、ママはじっと聞いている。その日はボトルを入れて店を出た。


 その日からそこに通うのが私の楽しみとなった。一度あるスナックに4、5度行ったが1回あたりの料金が高く、とても長続きはしない、でも一度覚えた遊びはやめられない。老いらくの恋ならず、老いらくのスナックだ。


 手頃な値段と、思いがけずの美人のママ、気楽な常連、もう遊びは止められない。


 1週に1回は行くようになった。歩いて15分程度のスナックには道すがら大手スーパーがある。そこでママへの手土産を買う、勿論そんな高額のものは買えない、主に果物とかパンとかケーキとか。それを渡すとママはいつもニコッとする、その笑顔見たさに。


 常連とも顔馴染になった。新聞配達をする人、30歳前後の独身男性、自宅の花を持参する老人、歌の教室に通う女性グループ、曰くあり気な私と同じ頃の男性、いつも歌を準備してくるソロバン教室の先生、ビリーバンバンの“また君に恋してる”が得意な50歳前後の男性、昔、美空ひばりの子供の頃をよく知っている気前の良い太った男性、と座はますます賑やかさを増す。


 ホテル駐車場で深夜勤務に明け暮れる毎日、そして妻に去られた侘しい初老の男にとって、スナックでのひと時は何もかも世の憂さを忘れるひと時だ。


 そしてある時気がついた、雨の降る夜は人が少ないことを。来ても直ぐ帰る、そしてママと二人きりになることを。半年ほど足繁く通って分かったことだ、その頃には常連さんとも顔馴染み、気軽に他愛もない世間話に盛り上がって、そしてママが歌を披露する。ママは、歌好きが集まってそれぞれが競う集まりに司会を頼まれる美声の持ち主でもある。


 ある時一人の男が入ってきた、歳は40の半ばか、久しく来なかったみたいだが、ママは知っている。少し飲んだあと、ある曲をかけた、そしてママとチークダンスを踊りだした、手を取り腰に手をまわして、そしてその右手がママの尻を撫でた。ママはその手を払いのけたが、私はその男の大胆な行動に魂消た。何事もなかったようにママはいつものようにカウンターの内側に戻った。男は間もなくして帰ったが、男の仕草が目から離れない私は、この男はママのなんだろうと。


 私ときたら、カウンター越に話をするだけで手も握ったこともない、これは2年余通って震災で別れることになるまでも。私も女性は好きだ、特に奇麗な女性は。でも、だからと言って何とかしようとは思わない、自然に好きになるに越したことはない。


 私は女性の歌が好きだ、しかしある夜、珍しく男の歌を。平浩二のバスストップを謳ったら、傍らの男が半音下がっているとして、また同じ歌を歌った。これはルール違反だ、ここスナックは歌を競う場所ではない、楽しむ場所だ、歌が上手かろうと下手だろうと皆和気藹々と褒め、ひと時の空間を共有する。少しむっとした私に気づいたママは耳打ちして、直ぐ帰るから、と。


 ソロバンの先生がいつも歌うのは高橋真利子だ、必ず最低4曲は歌う、独特の調子だがそれも良いと思う、どのように歌おうが自由だ。そしてそれを肴にしてまた酒を呑む、ここには世の憂さを忘れるために来る、私もその一人、ここに来ると落ち着く、ママの奇麗な顔を見ているだけで幸せだ。


 いわくありげな初老の品の良い男性は必ず酒を持参してママに渡す、ママはそれを裏の倉庫だか物置だか分からないが一旦そこに置く。この男性と二言三言話したことはあるが、いつも背広を着ている、いったいどんな人なのか、さっぱり見当もつかない。


 最初にドアーの傍で飲んでいた新聞配達の男は、この店に相当入れ上げているようで月に10万使っていると、ある時教えて呉れた。そう聞く私も毎月5万使っているが、決して悔やんではいない、否、金さえあれば、毎日でも通いたいぐらいだ。しかし、いくら遅くとも10時前には帰る、配達があるからだ。


 もう一人の30前後の独身男性は、家は農家のようでママから早く結婚して落ち着くように云われているが、無口のようでいつもニコニコしながら飲んでいる。これも早くに来るが大体新聞配達の男同様帰る時間は早い。


 美空ひばりの幼少の頃の話をしてくれる男は不思議な雰囲気を醸し出している。太っているが、話上手だ、そのひばりの話はいつ聞いても興味深い。隣近所に住んでいたこととか、美空の母のことなどとか。気前も良い、差し入れもいつものこと、時には奢ってくれる。


 その美空ひばりが歌う“ある女の詩”の一節に、雨の夜来て一人来て、私を相手に飲んだ人、がある。冒頭にあるように、私は些か酩酊していて、その時ママに、もう来ない、と言ったらしい。それは、その頃には5年余の別居状態の妻とも寄りを戻していた時で、それもあり、もうこれ以上遊んでいられないことをママに言って、店を出たから。


 その晩も雨が降っていた、雨が降ると常連客も姿を見せない。それが付け目で、私はママを相手に、一人歌を歌いながら酒を呑む、まさにママの貸し切りだ。味を覚えた私は、逆に皆が来ない雨の日は必ず行くようになっていた。


 勿論、この美空ひばりの歌は知らない、否、聞いたことはあるかもしれない。でも、その詩に興味はない。だが改めて聞くと、まさにその情景だ、ポツンと客を待つママにスーパーで買った土産を片手に現れる私に、最上の笑顔で迎えて呉れるママ、これ以上の幸せはない。


 その時もそうだった、その情景だ、雨傘を片手に左手には土産を。そしていつものようにママを相手に。でもその日は違っていた、酔って言った別れの言葉はママの琴線に響いたことだろう。

 この人は、この大事なことを酔って言うのね、私がこんなに想っているのに。


 ママの怒りの声を後にして店を出た私に、まだ小雨は残っていたかも知れない、傘も置き去りにしたのだろう。川中美幸の“遣らずの雨”の一節に、元気に暮らせよ、なんて、優しい言葉、とある、そして見送る男に、差し出した傘も受け取らず、そして遣らずの雨と結ぶ。しかし、ママの怒りの声だけが耳に響いて、その歌とは真逆であるには違いない。


 私はハンサムではない、中学生の頃、親父に学校を休むと言ったら、男が顔のことでと拳骨を食らった身だ、それでも、妻と結婚出来た。

しかし、そんな男でも恋はする、女性に恋をする、幾ら身の丈に合わないとしても、男だったら当たって砕けろ、と。


 ある日、スーパーで買い物をしているママに会った、妹と一緒に買い物に来ていたようだが、昼間見るママの顔も美しい、この奇麗なママが、私を想ってくれることが不思議でならない。中肉中背、何の変哲もない初老の男。


 しかし、一点悪い癖かも知れないが、道理に外れたことはどうも我慢が出来ない、そしてそれが直ぐ行動に出る。


 ある日いつものように店を出た途中、家の前で寝てしまった。勿論敷地内に侵入はしていないが、それを見た家人が警察に通報したようだ。間もなく自宅にあと200メートル程の所で警察に呼び止められた、そして職質を受けた。何処へ行くのかと聞くので、家に帰る所だ、と、4人の警察官が私を取り囲んだ。


 そして家に着いた私に、警察官も入り込んで尚も不審そうにしているので、2階で寝ている二男に証明して貰って漸く身の潔白はなった。だが、無性に腹が立った私は、二男に警察に文句に行くのでとタクシーを頼んだ。


 そして、応対の警察官に何にもしていないのに、4人の警察官に取り囲まれて不愉快な思いがしたこと、これは職質の仕方、刑法上、刑事訴訟法上疑義が発生することを、条文あげて抗議した。黙って聞いていた応対者の警察官は、これから若い警察官に指導する、申し訳無かったと非を認め、パトカーで送ると言ったが、それを断りまたタクシーで帰宅した。


 だがこれは褒められたことではない、これの前にも、したたかに酩酊した私は野原で寝込んで、目が覚めて気付いた時には財布が無くなっていたことも有ったから。


 何れにしても、呑んでも吞まれるな、の例えもあるが、若い頃から呑まれることばかり、酒の失敗は数知れず、反省はするが性懲りもなくまた呑む。


 また雨の日、最初に珍しくママが歌った、秋元順子の、マジソン郡の恋、と、山本和恵の、壊れた人形、を。流石に、皆に司会を頼まれるだけあって、そして歌を売り物にするスナックのママだけあって、歌手顔負けの歌唱力、思わず聞きほれてしまった。


 今、そのマジソン郡の恋の歌詞と歌を聴くと、その当時のママの心境が分かるような気がする。それと云うのも、雨の降る夜は必ず来ること、そして様々な話をすること、決して妻の話はしないこと、ママの身の上話を聞かないこと等、只酒を呑んで帰るだけ。


 職場の同僚や時には二男を誘って飲み、陽気に歌を歌って帰る。そんな初老の男は、ママにとって都合の良い存在なのかもしれない。そう思っていたかどうかは今も分からない。


 言えることは、ママが腹を立てたこと、その4月後の3月のあの東北大地震が発生して、物理的に店が維持出来なくなったこと。そして、携帯電話にママの声が録音されて、そこにはそれまでお世話になったことを、真心の言葉で綴られていたことだった。


 間もなく人生を終わる私に、このスナックの2年間の時間は貴重なひと時でいつまでも心に残るだろう。

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