習志野 前段
憧れの空挺団での訓練、厳しいが楽しい。その空挺団の使命が国民鎮圧の目的だとは知らずに。
習志野の思い出
僅か3ケ月の空挺団の生活だった、起床から就寝まで厳格な規則に縛られていたが、それに対し何の不満もなかった。宿舎を一歩出れば、挙手の敬礼の連続で、すれ違う人たちが皆英雄に見えた。
俺も、皆さんと一緒になる、ああ早く降下訓練を受けたい。起床と同時に自衛隊体操が始まるが、その厳しさも返って楽しい。
夜は、空の神兵を合唱、時に降下訓練の映像を見る。充実した日々。
そして、待ちに待った降下訓練が始まった、勿論いきなり高さ100メートルの訓練塔からの降下訓練ではなく、10メートルほどの降下台からの飛び降りで、降下準備よし、4、3、2、1、降下の掛け声で飛び降りる。
途端に張り渡された鉄鋼の滑車が動き、瞬間に顎がヘルメットごと吹き飛ばされそうな衝撃を受けた。顎を引く、これは柔道も同じ、そうしないと、重心が不安定となる、訓練前にもそう指示を受け、十分に顎を引いていたが、想像を超える衝撃だった。
これが実戦となれば重装備をして着地するのだから、生半可な身体の鍛え方、訓練では持たない。日々の訓練の厳しさも当然だった。
落下傘部隊の最大の使命は敵の後方攪乱、第二次世界大戦のノルマンジー上陸作戦ではドイツ軍占領下のフランス内部に連合軍が降下した。日本も落下傘部隊は大いに活躍した。
しかし戦後に、何故敵地の後方攪乱が主任務の落下傘部隊、空挺団の必要があったのだろう。20歳の若者に知る由もないが、これには大きな意味があった。
1960年の学生が中心になった安保闘争は、東京の治安に不安を抱かせた。連日の国会議事堂前の激しいデモは、最早警察では手に負えない状況だった。
そう、空挺団は治安維持のためだった。憲法第9条が激しく世間を揺るがしていた時代、首都東京を守る最後の砦、それが空挺団だった。
ま、それはその時の私には何ら関係がない。むしろ、もし命令を受けたら喜んで、東京上空から舞い降りただろう。
夏、部隊は富士演習場で大規模な演習を実施した。我々教育隊も、トラックに揺られながら演習場に到着。




