死んでくれよ、参號さん
小川のせせらぎ。風が葉を揺らす音。
ひとかけらの雲も浮かばない空は、その果てまで蒼く広がる。
こんな平和な光景に意識が向いたのは、いったい何十年ぶりだろうか……。
みずみずしく青臭い匂いが肺を満たし――徐に上体を起こした。
「…………ふうう、なんだ。終わったかと思えば……しぶといじゃないか我ながら」
既に冥府に立った身としては、あの部屋で今回こそは人生の幕切れと覚悟したものだが……。
…………む?
「――なるほど、“人生”は正しく幕を閉じたというわけか」
得心がいったと視線を美しい景観から己の――半透明の身体に向ける。
馴れ親しんだ我が身は、全身がスライムに酷似した粘液で作り替えられていた。服を着ていないので胴体も中を見通せるが……綺麗なものではない。泥水のように薄く濁った粘液の塊が二つ、ずるずると這いずり回っていた。
「……悪魔とは、本当に理から外れたものなのだな」
現実逃避気味にぼやきをあげて、現状を整理しようと試みる。
「ふ、む……」
冥府の城にて、かつての俺は終わり新しく悪魔としての生を得た。
魔王が語った話からすると、俺は悪魔に必要な欲得を持ち得なかったらしいが……。
とりあえず儀式の成否はさておき、晴れて人外の仲間入りをしてしまったのは間違いない。
「外道だ悪魔だと、散々に罵られてきたものだが……フッフッフ。まさか誇張抜きで実物になるとは童話じみた結末だな」
もっとも俺の人生は血生臭くて、子供に見せられたものではないだろう。
それに、肝心の物語の方も終わっていない。
「何はともあれ生きているうちは――いくらか足掻いてみせようか」
まずはここがどこなのかを突き止めよう。
俺は太陽の方角――南に広がる森へと歩みを向けた。
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数十分ほど歩いて気づいたが、ここが地球でないのは間違いない。
というのも悪魔になってから新たに開かれた知覚による成果である。端的に言うと、科学的に捉えられない物質を対象にした感知能力のようだ。
魔力……というよりは魂に近い。それが大気中に散らばっているのを感じる。
目に意識を集中させると、薄紫の粒子が漂っているようにも見えた。
それだけでは確実な証明にはならないが、俺には世界を飛び回ってきた過去がある。
あの場所には生き返りも、悪魔も、魔力も奇跡もないのを、知り過ぎたほどには知り尽くしているのだ。
……ああ、しかし俺がこうして生き返ったり転生したりしているのは奇跡と言えなくもないのか。
だが……専門ではないから断定できないが、この俺をしてこうも初見の生態系ばかりというのは妙だ。過去にスキルの一環として、主要な草木や樹木などの主要な知識は学んだという自信がある。
そうなればここは冥府だと考えるのが道理であるが、参ったことにそれも違うような気がするのだ。
こちらは推測のようなもので確かではないが、まず死者の国というのが『生きた命の存在しない場所』と定義する。
俺がいることについては例外として扱うにしても――ここは、あまりに生き物の気配がありすぎる。
虫を含めた小動物は、土を掘り返せばたやすく顔を覗かせる。鈍足になったため逃げられてしまったが、気配から小動物も多数生息しているようだ。
というよりも、さすがに小鳥がさえずる穏やかな場所を冥府とは言わないだろう。
「それならまだ、平行世界なり異世界なりと言われた方がしっくりくる……」
まあ、それもありえない話だがな。
“もしも”などという可能性によって分岐するのが平行世界らしいが、馬鹿げているにも程がある。あの金髪魔王の「余は傲慢の魔王である」という発言の方が、失笑できる余地があるだけマシなものだ。
まして異世界など……。
そもそも俺があの城を冥府にあるものだと思い至ったのは、魔王と言葉が通じた事情に由来する。
仮にも異世界なら、日本語がそのまま通じるというのはありえない話だろう。
「……しかしまあ、考えがまとまらんな」
息を吐こうとして、この体には呼吸の機能がないのを思い出す。
「可能性は薄いだろうが川沿いを行けば文明に出会えるかもしれん。今からでも引き返すべきか……」
だが……見渡す限りにそういった痕跡なかったのを加味すると、あまり良策には感じない。
なにせ俺には時間がない。
移動を始めてすぐに体の崩壊が起き始め、今では当初の半分にも満たない体積になってしまった。
最終的にどこが残るかは分からないが……体を這いずっている二つのどれかが欠ければ、死――もしくはそれに近いものが訪れる予感がある。
タイムリミットは見積もりで一時間。
自己崩壊しきる前に、どうにか回復しなければな……。
………………トン……。
…………とん、とん………………。
……とんっ、とん…………とっ。
とんっとんっ………………………………とん。
…………………………。
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんっっ。
『受肉シロ』
「ッ――――」
――不意に。
俺の身を漂う塊の一つが、幽鬼めいた呟きで、世界を呪怨で蝕もうという意志を孕ませ空気を震わせた。
『受肉ダ――任セロ、オ前ハ――……ヲ、用意シロ』
「……何を言ってる」
引きずり出すべきか? 危険性を考慮するべきだ、死ぬかもしれない。
そもそもこの塊は何なんだ。悪魔における心臓のような重要器官だと勝手に思っていたが、放っておいてはまずかったか?
脳内で疑問と答えが、次々と浮かんでは弾けていく。
『マズハ殺セ―――分カル、ナ――何回モ――――――繰リ、繰リ、繰リ――――リ返シタ』
音は粘液の肉体を震わせて思考を物理的に揺さぶり始めた。
それでも決して、この聴覚は些末な音すら拾い損なうことはない。
「何者か……お前が、俺なのかそうじゃないのかは知らんが、殺せといったか」
『ソウダ、ソウダ――必要、求メナキャ』
「一応聞いとくが、何でもいいのか? 受肉……に必要な死体は」
『馬鹿メ――――人ダ、人ヲ、求メヨ』
「…………ハ」
唾を吐き捨てたくなる。
「まるで――フッフッフ」
お前……お前は。
「お前は“参號”を思い出す。――血に飢えてるところなんて、本当に癪に触るな」
獰猛に笑ったつもりで凄み、溶け落ちていく腕で塊を握る。
「さァ、引き抜くぞ。遺言はあるか? 惨めなやつなら最後まで聞いておこう」
『死ヌゾ、死ヌ気カ――オ前モ、死ニタクナイヨナァ――』
「いや構わないな、一向に。お前――もとい参號の消滅というのはここ一年、夢に見るほど焦がれた故な」
『――――』
「死ぬ準備はいいな。さあ、せいぜい最悪の気分を味わって逝けよ――」
俺共々に、な。
「――――……………………はぁ」
塊ごと腕を引き抜く直前、背筋の毛が逆立つような悪寒が体中を駆け巡った。
手を開いて、背後に視線を向ける――流動体になったせいで体を反転させなくても視界を動かせるようになっていたのだ。
……そのせいで耐久性が消し飛んだため、便利と不便が半々の割合というのは難点だが。
木々を隠れ蓑にしているので姿は目視できないが、息遣いからして相手は一体。サイズは中型――。
「――自決の途中に邪魔など……無粋にもほどがあるとは思わないか」
威嚇のつもりで、怒気と覇気をない混ぜにした声を上げる。
勘のいい野生の動物ならば立ち去るであろうし、そうでないなら死力を尽くして蹴散らしてやろう。
あくまで俺は自殺にこだわる腹積もりだった。
空気の震えを表皮で感じ、木陰から現れようとするものに先制の一手に飛礫を投擲しようとして――しかし。
「…………」
しかし、姿を見せたのは。
奇妙な気風を宿す、力強い瞳の少年だった。




