ある諜報員の最期
外の世界に公開されることはない、国家の暗部がうごめく防衛省の一区画。
ここの人間はほとんどが、要人暗殺、国際テロ組織との繋がりなど、一端でも暴き立てられた日には国家転覆すら起こりうる闇を抱えこみ、それを承知のうえで日本のために身を粉に、滅私奉公する忠義の徒である。
俺はこれまで、主に戦場での諜報活動に派遣されてきた。二十年も昔から活動し、一流と自負するだけの実績と経験を積んだ。
昇任の話も後進の育成に回されかけた時も断り、最前線の戦場に立つことに拘った。それもこれも反逆争乱の火種をこの腕をもって刈り取ることこそが、この上なく愛国心を満たしてくれていたからだ。
愛国心。
そんな空の宝箱を抱いて――あまりに長く、陽の照らさない闇夜に居座り過ぎた。
「参號。貴様もこの仕事を通して、我等のような人間の最期を眺めてきた訳だが……」
高級な革張りのイスに腰掛けた男の名前を俺は知らない。
郵便受けへ投函された封筒によって自分の上司に就いたこと、彼の顔写真と執務室の位置だけを味気なく報された。
それにしても特徴の薄い顔立ちだ。
観察するほどに目を引くパーツが見つからない。日本人として平均的な目の大きさと鼻の高さ。……一般人より僅かに潰れた餃子耳から辛うじて武の気配を感じ取れる程度か。
顔写真を拝見した時から思っていたが、変装に向いた面貌だ。変化に乏しい表情、抑揚のない顔からは性格も読み取りにくい。化粧によっては見分けをつけられないほど変化することだろう。
もっとも、彼の力量を見透かせば俺を騙せるほどではないと分かる。げんに左足が不自由であるように装っているらしいが、入室から一秒とたたず見抜かれてしまっている。
仮に彼が近寄ってきたところで、俺の目には不出来な大根役者のようにしか映るまい。
「貴様が生きるには、国の庇護を欠かせない……私は寛容だ。今すぐにこの紙切れを下げるなら、見なかったことにしても構わん」
机の上には先刻、自分が提出した退職願。
当然だがこうしている以上、思い悩む段階はとうに過ぎ去っている。
「既に決めたことです。退く気はありません」
「……ハァ。貴様の活躍は聞いている。秘匿性ゆえ表に出回る経歴だが、戦時での功績であればあるいは救国に値する名声を得られたのだろうが」
――私の部下は、かくも唾棄すべき腑抜けとは」
嘲りを込めた侮蔑の言葉を受け流し、
ではなく、英雄と
大層な評価を下されたものだ。
これまで積み上げてきたことといえば、血の海に俺には、まるで不相応な栄誉に思う。
バラした人体の数で競うなら、そこらの英雄にも引けを取らんだろうがね。
「もうよい。問答に意味無しとなれば、これを拒否する義理はない」
「……それでは、もう会うこともないでしょうが」
一応の礼をして、踵を返す。
扉に進み、ドアノブを回そうと右手を伸ばしたところで背後より呼び止められた。
「ああ待て」
振り返る。鬼が居た。
「――『零落の王家は無間にて其の魄を望む』」
「――――」
その一瞬。
肌を刺し貫くような濃密な気迫を浴びて、戦場が出現したかのような錯覚に陥る。部屋の空気を喰らい尽くすよう波濤し広がった殺気は、無作為のようでいて実に練り上げられている。
脳幹から熱が引いて神経が澄み渡っていき、五感を駆使して、目前の男の情報を読み取り暴き立てていく。
腰ほどの高さにある木の机を挟んで、男は外敵と見做した存在を無感動な黒瞳が睨め付ける。
能面をしたような無表情は保ったまま、両目に暴力と狂気を渦巻かせた兵の姿だ。
ふん……なるほど。
露出した肌こぎれいな様から腹の探り合いで成り上がった官僚かと推察したが、俺の上司になるだけあって彼は戦地からの成り上がりかもしれない。
「要約して裏切りは許さん、ということだ。貴様のような古参にこの忠告は意味ないものだと心得るが……これも慣例故にな」
「……ご忠告。確と心に留めましょう」
この国の行く末など、もはや知った話かと切り捨てていたが……存外にも新芽は育まれているようだ。
それはそれとして、後輩に脅されたままというのは面白い話ではない。
俺は最後に、この若輩の鉄面皮を崩してやろうと思い立った。
「言い忘れておりました、上司殿」
「……何かね」
「右目の義眼、瞳孔がよろしくない。動作に不備はないようですが、ぬらつきも悪いので買い替えを勧めます」
「――――」
確認はしなかったが、気配で察した。
上官よ。古兵も見くびったものではないだろう?
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参號。というのは、本名ではない。
諜報員の一人として認められた際、俺に与えられたコードネームだ。
上官から受け取った際は、誇りある栄誉に感じられて至上のものに思えた。
しかし今となっては、囚人に付けられた個別番号という感想が思い浮かぶ。この移り気を成長とするか老いと嘆こうか。
過去の己を忌み嫌う俺は、その辺りの変化の善し悪しをイマイチ正確に測れない。
昔の自分から遠ざかる変化であれば、それがどのような変異であれ良いと感じてしまうからだ。
「全く、な……」
時間とは、なんと複雑怪奇か。
その流れに我が身は翻弄されるしかない。
例えば、美しく生まれた者の老い行く恐怖。
劣化、変化、成長。
時とは本当に、何もかもを無遠慮に変えていく。
「ああ嫌だ。何故あんなことを……俺は、どうして愛国心なんぞに……クソ」
昔の自分が、今の自分と同じ存在であると認識できない。
愛国心を謳って罪を重ねた過去を。
それを成した参號が、今の俺と重なっている事実から目を背けたい。
――拒絶したところで、真実は揺るぎない。
どの時間軸を基準に据えても、俺という人間は連続して俺なのだ。
過去の自分が犯した罪は、今の俺の因果となる。
受け容れよう。
「死ね……死ね、死ね死ねぇ! 死んじまえ人でなし、悪魔がッ!!」
夜道を十ニ人の男女に襲われた。
口々に呪詛を上げていたことから察するに、俺とは浅からぬ因縁を各々が持ち合わせていたらしい。
空気に混ざる仄かな殺気を感じ取れた時には、死角から放たれた銃弾にももを撃ち抜かれていた。
万が一にも気配を匂わせない超長距離からの狙撃。超一流に匹敵する卓越した神技だ。
これをかわすには、俺はいささか気を抜き過ぎていた。
ともあれ機動力を封じられた点に加えて、多勢に無勢。
勝てる確率は無い。
状況を把握するなり早々に無抵抗となった俺。
えてして牙を抜かれた現代人は、無抵抗の者をいたぶれる残虐性を持たないものだが……。
どうも今回のケースは事情が違うらしい。
あっという間に袋叩きにあった後、丁寧に一刺しずつ順番に、彼らは俺の身体に孔を穿っていった。
面影を感じなくなるほど俺という個人を破壊し、怨敵が世界から姿を消したことに満足したのか。十二人は山に俺を埋め棄て、立ち去った。
……俺の死亡確認をしないまま、な。
標的の生死を確認し損ねるなど、拙いにも程がある。
もっとも今の俺の姿を見て『生きているかもしれない』などと思う輩はいないだろう。彼らの非を責めるのは酷というものか。
「……ふぅ…………ふぅ、はぁ」
冷たい土の中から地上に這い出す。
浅い墓穴で助かった。もう半メートルも深ければ生き埋めだったに違いない。
「フッフッフ。せめて清潔な棺桶の中なら眠ってやってもよかったのだがな……」
――生憎と、虫は嫌いなんだ。
戦地で土葬というのを見る機会はあったが、あまりなりたくはない姿だったしな。
改めて、被害の確認といこう。
両目――不能。
頭部――刺傷が三箇所。
腕――軽症。動作確認、問題なし。
脚――重症。刺傷も多いが、ライフルによる一撃が致命的。
胴――不能。傷の具合も把握できない。
呼吸器官、問題なし。
…………ふう。生存は絶望的だな。
よしんば治療を受けようと手遅れか。
「ホラーハウスの主役を張れそうな有様だが……」
残念な話で、両目ともに抉れているので雑用すら難しいだろう。
こうも壊すとは、呆れるほどに容赦のない連中だった。
…………そういえば、この復讐劇。なぜ今なのか。
こちらも素人ではないので痕跡を残すようなマネはしない。過去の悪行の被害者が、今更になって復讐を遂げにきたのは奇妙だ。
神罰といえばそれまでだが、俺の所在地があっさりと割られたことも気になる。
「……考えるまでもない話か」
国による制裁行為。
驚くことはない。上官の言葉を受けた時から予感はしていた。
十二名の集団決起も煽動した者がいたなら頷ける。何より、手練の狙撃犯がいた時点で報復活動の一環であったことは疑う余地のない話だ。
初めから国は、機密に触れた者が去るのを許す心算などなかった。
……フッフッフ、上官よ。
殺そうと思えば、執務室の扉を跨いだ瞬間にでも殺せただろうに……人が悪いな。
あと一日の猶予さえあれば、高飛びの算段もついていたというのに。
「だが……こうなるとは、知っていたさ」
本当に長く、この世界にいたからな。
死にたくないだけなら、そもそも諜報員を続けていればよかった。なのに俺は、この結末を選択した。
それは――。
「愛国心の奴隷だった過去を消したいと……参號の名を捨てれば、それが叶うと考えたのだがなァ――」
いやはや。
ままならぬ。
ままならぬなぁ。
「……か、に――……………………」




