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後編


 ベッドが軋む感覚に、りく也は薄く目を開けた。

 遮光カーテンの効果で部屋の中は暗く、夜なのか朝なのかわからないが、ベッドの縁に座る人の姿はわかった。

「さく也?」

 そう呼びかけると、「おはよう」とキスが軽く唇に落ちた。目が慣れて兄の顔が見えた。

「もう戻ったのか。ゆっくりしてくれば良かったのに」

 手を伸ばして、ベッド・サイドのライトをつけた。腕時計を見ると、午前九時を回っている。

「用は済んだから。それにリクが寂しいと思って」

「何、言ってんだ」

 起き上がりながら、笑い含みでりく也は言った。

 急な仕事が入り、さく也が日本に出かけたのは三日前。往復の時間を考えると、とんぼ返りしてきたことになる。

「連絡くれれば、迎えに行ったのに」

「朝に弱いことは知っている」

「予定があれば、ちゃんと起きるぞ」

「次は連絡する。起きるなら、コーヒーくらい入れるけど?」

「朝飯、食いに行こう。支度する」

 さく也が頷いたのを確認すると、ベッドを下りた。

 浴室に向う為、居間を横切ったりく也の視界に真鍮の壺が入った。

 無雑作に部屋の片隅に置かれた壺。その中には白い『砂』が入っている。先日まで、彼ら兄弟の母親だったモノである。りく也は立ち止まらずに冷たい目で一瞥した後、浴室へ足を進めた。

 母・中原可南子は、全身に転移した癌細胞による多臓器不全で逝った。兄弟が彼女の延命処置について話したその日の内、意識を戻さぬままに。

 二人きりで葬儀を済ませた後、遺体は散骨のために荼毘に付された。母方の実家の中原家とは絶縁状態であったし、墓という形にして残すことに拘らなかった――と言うより、残したくなかったのだ。

 散骨の手続きの最中に入った国際電話の内容を受け、さく也は日本に向かった。ほぼ日帰りで太平洋を往復するのは、加納悦嗣絡みの仕事だったからだ。今、さく也は彼に恋をしている。

 りく也も面識のある曽和英介の、同い年の友人だと言うのでおそらく三十二、三だろう。本職は調律師の無名のピアニストだと聞いた。それまでの親子ほどの年齢差、名士の肩書きを持った相手と違い、年相応の恋だ。

 それにセックスもまだだと言う。さく也は恋愛対象として好意を持った相手には、体を与えて引きつけようとするところがある。言葉での意思疎通が苦手な彼の恋愛アプローチなのだ。さく也のその容姿に抗える人間はいないと言って過言ではなく、たいてい彼の恋は成就する。『恋』と言っていいものならだが。さく也がなぜコミュニケーションの取り方が下手なのかを知るりく也には、痛々しくて堪らなかった。

 加納悦嗣は、さく也のその慣例より外れている。

「いったい、どこが良かったんだ?」

 すぐ近くのカフェで朝食を取りながら、りく也が尋ねた。甘やかすほどの地位でも、名誉でも、セックスでもないとすれば、何がこの兄を惹きつけているのか。

「『さっさと位置に着きやがれ』」

 さく也は、およそ不似合な言葉を使った。

「そう怒鳴られた」

「おまえが?」

「うん。ああいう風に怒鳴られたのは、初めてだった」

 大人だった過去の恋人達は、さく也を怒鳴ったりはしなかったろう。

「エースケの為に怒鳴ったんだ。自分のテリトリーに入れた人間は、必ず守るんだなって思った」

 頬に少し赤味が差した。無意識の照れ隠しが口にパンを運ばせる。

「それだけ? もっと完璧な相手が、今までにもいただろう?」

「迂闊なところがあって面白い。優しいけど、甘やかさない。音楽が好きで、ピアノが好きで。普通の人なんだ。一緒に肩を並べて歩いて行きたい、同じ音を追いたい、そう思える人」

 初めての恋を語る少年のように、さく也が加納悦嗣を語る。『普通の人』――だからさく也は、思ったことを言葉にするようになったのだ。彼が話す前に先回りして、理解してくれるほど大人ではない加納悦嗣に、わかってもらいたいために。

「そいつは、さく也のことを、どう思っているんだ?」

「わからない。でも嫌がらずに会ってくれる。嫌われてないなら、それでいい」

 母親に虐げられて育った兄は、自分を望まなかった父親の面影を、他人の中に追いつづけて来た。その呪縛からようやく解かれて、見合った相手を見つけた。たとえそれが同性であっても、そして片想いに終わったとしても、さく也にはいい傾向だ。話を聞く限り、加納悦嗣は友人として、さく也を扱ってくれている。

「一度、会ってみたいな、その加納悦嗣」

「会おうと思えば、リクはいつでも会える。同じ日本に住んでいるし、同じ東京にいるから」

「そうだな。バカ姉妹が置いてったピアノでも調律してもらうか」

 父親の汚い面を見せ付けられて育った弟は、乞い慕い続けた瞼の母が兄の首を絞めたと知り、人間に対して期待を抱くのをやめた。選ばれた友人達に友情は感じない。次代の長としての自分に媚びへつらう重役達、財閥夫人の座を目当てに近づく女達。兄のように、慕う誰かを語る時が来るのだろうか? 兄を守りたいと思う気持ちと同じものを、他の人間に持てる日がくるのだろうか?

「どうかしたのか?」

 口元にカップを寄せたまま、りく也が黙り込んだので、さく也が声をかける。

「兄貴が美人で見とれていた」

 と答えると、「何を言っている」と言う表情がさく也に浮んだ。口元に笑みがある。本当にこの兄は、感情を出すようになった。いつか声を上げて笑う日が来るだろう。その笑顔を想像しながら、りく也はうっとりとさく也を見つめた。

 さく也はもう自立している。経済的にも精神的にも。りく也は守るべき存在を心配する必要もなくなった――中原可南子の死はそれを教えてくれた。そしてりく也を解放する。

 もう後ろを見なくてもいいのだと。




 祖父江家の長男であり、次代のグループ総帥・祖父江りく也が失踪したのは、八月の終わりのことだった。長期休暇をアメリカで過ごした後、帰国はしたらしいのだが、空港からの足跡が消えていた。彼の持っていた株は、自他社すべて自らの手で売却されていて、彼名義の預金は解約されていた。明らかに、計画的な失踪だった。

 後継者の失踪は一大事である。三人いる息子達の中で抜きん出て優秀なりく也は、将来を嘱望されていた。グループ独自の情報網を駆使して、その行方を捜すはずだった。しかし捜すどころではなくなった。

 それ以上の大事が祖父江財閥に勃発したのだ。内部告発と言う名目で、株のインサイダー取引、政治家への贈収賄などと言った裏の部分が文書化され、疑う余地のない証拠とともに検察庁と新聞各社へ送られてきたのである。送り主は偽名で、荷物は忙しい宅配センターを数ヶ所選んで持ち込まれていた。

 祖父江グループでは芋蔓式に逮捕者が出た。連日どこかの社屋に検察が入っては、数個のダンボール箱が押収されて行く様子が、テレビのニュースを賑わせた。


“やっと自由になれたから、中原りく也に戻ることにした。ほとぼりが冷めた頃に連絡するよ。それまで元気で”


 ウィーンのさく也の元に、りく也からハガキが届いたのはその年の終わり。ニューヨークの消印がついていた。

 兄弟が再会するのは、それから三年後のことになる。




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