後編
びっくりして顔をあげると、そこには誰もいなかった。
「お姉さん?」
何度呼んでも、呼んでも。落ち葉が擦れあう音だけが、微かに聞こえるだけだった。
その次の日、タオは新しいお母さんになる人に会った。
淡い黄色のペンダントがとてもよく似合うその人は、とても優しそうな人で、
「タオくん、初めまして。由香里です。ずっとタオ君にあえるのを楽しみにしてたの」
とふうわり微笑んだ。
ふくふくとしたほっぺたは笑うことしかしらないようにずっとピンク色に染まっていた。
将一さん、と父を呼ぶときの顔は相手のことを信じきっているときのそれで、少女のようにも見える。
この人がお酒にものすごく強いのか、と人は見かけによらないことを痛感した若干10歳。
最初の印象を裏切らない彼女と、タオはすぐに打ち解け、父が呆れるほどに仲良くなってしまった。
一緒に遊園地に行ったり、夕ご飯を作りに来たりしてくれて、今までも決して暗くは無かったが、時折鬱々とした無言が訪れていた花田家は、家中の電球が変わったかのように明るくなった。
確かに、あの『お姉さん』が言った通りにタオは強い運に恵まれているのかもしれないと、少し思った。
あれからいくら探しても、お姉さんは見つからなくて、そのあとは一度も公園で会うことがなかった。
もう会うことはできないのかもしれないと、タオはどこかで感じている。
でも、いつか。また逢えたら。
ありがとうと、プール一杯ぶんよりももっと大きなしあわせを伝えようと思った。
そして由香里さんとの結婚を数か月後に控えた父は、今日もお酒を飲みはじめる。
「タオ、あの人はなぁ」
そしてまた、お決まりの、しかし最近めっきり聞くことが無くなった文句が始まった。
「体がものすごく弱かったんだ。お酒もお医者さんに止められてた。なのに、こっそり飲むんだよ。なんて奴だったんだ!自分の体よりお酒が好きだったんだろうなぁ。…ああ、言っとくが、いつも一杯だけしか飲まなかったよ。それがあの人の限界だから。でも、死ぬ間際、それでも飲むのを止めないから、父さんは怒ったんだ。『俺や息子のために一日でも長く生きる努力をしろよ!』って。それから死ぬまで、お前の母さんは、一滴もお酒を飲まなくなったんだ。信じられるか?」
タオを産んだお母さんが亡くなって8年。
いつも文句しか話さない癖に、由香里さんにあうまで再婚話に見向きもしないほど、その人を愛していたらしい父は、最後にこう呟いた。
あの、ビールジョッキの一杯を、死ぬほど愛していた奴がなあ。と。




