第二話 折れた剣
唐澤涼は目が覚めると、薄暗い牢屋の中にいた。
見たことのない天井だった。
明り一つなかった。
涼は誰に寝かされたのか分からないが、固いベッドの上に寝かさられていた。
毛布など当然ない。
薄い服しか着ていない涼にとっては、少し肌寒かった。
涼は目を半分だけ開いて、首を動かした。
すると、そこには丸出しの便器と底が固い木でできたベッドしかなかった。ベッドは既に古いものなのか、体を動かす度に軋む音がする。また、三方が石の壁で挟まれて、もう一方は鉄格子で閉じられている。
そこっで、涼は気を失う前に何があったかを思い出す。
拳があった。
自分が剣を振るうと、全てを打ち砕く拳があったのだ。
あの男の拳だ。
観月の拳である。
それが、自分の全てを打ち砕いたのだ。
涼は自分の顔を触った。
痛かった。
右頬が大きく腫れていた。骨折だろうか、とも涼は考えるが、医療の知識がないので分からない。だがじりじりと痺れるように痛い。氷で冷やしたかった。
この痛みは、確かにあの男が殴ったのだ、と涼は思い出す。
正しければいい、そんな自分の正義をあの男は勝手な理由で、この頬とともに打ち砕いたのだ。
憎い、とは思わない。
むしろ――羨ましい、と思った。
あの男は自分とは違う。自分はこの世界で力を授かって、この力をどう使おうかと考えた時、誰かに使おうと思った。決意した。こんな力を持て余すのは世界のためにならない。誰かのために使うのが、自分の使命だと思った。この手で平和を作るのが、自分の使命だと思った。今でもその考えは間違っているとは思わない。また、あの男の考えが正しいとも思わない。
でも、あの男のように生きるのもいいのではないか、と思ってしまう自分がいる。
あの男は、まともな考えを持っていない。
とてもじゃないが、常人とは思えなかった。
悪だろうが、自分の目的のためなら与する。
嫌いなことは嫌いといい、自分に正直に生きている。
あんな生き方は自分にはできない。
あのリアルにいた頃から、嫌いな鎧で身を取り繕って、嘘で自分を塗り固める。
そう生きていたほうが、楽だからだ。
この世界でもそういう道を取った。スキルや武器という新たな鎧を手に入れたから、正義という泥で自分を塗り固めた。自分の内面が、汚いからだ。自己顕示欲に溢れて、誰にも認められたいという気持ちでいっぱいだ。そのくせ、実力がないのに、そういう欲ばかりが募る。リアルにいたころは力を持っていなかったから、小市民の一人として生きていけた。だが、この世界では力を得てしまった。もしあの男のように曝け出すと、自分は一本筋の通った人間ではなく、醜い部分が出るのではないか、と思う。だから自分を偽った。まだ十六歳なのに歪な敬語を使い、いつも冷静さと余裕さに溢れた自分を作り上げた。
そう生きていたほうが、何故か心が安心したからだ。
そこに自分の信念や意思があったかと思うと、そうは思わない。
まるでこれまでは漫画の登場人物の一人のように思っていたのもあるだろう。
自分はその主人公で、だから力を授かった。従って、そういう主人公たちのような行動を取らなくてはいけない、と思った。だから一般的な正義を実行していたのではないか、とあの男の言葉で自分がぶれてくる。
今までの自分に酔っていたのではないか、とも思ってくる。
これまでの自分が起こしてきた行動は間違いだったのか、という疑問に陥りそうになる。
「あの、あなたもここへ?」
涼は思わず胸を押さえつけて、出口のない迷路を彷徨っているような気分になると、ふと話しかけられた。
この牢屋の鉄格子から、通路を挟んだ先にある牢屋に入った人物だった。
「君は――」
「私ですか? 私は……簡単に言えば“エルフ”でしょうね。そう言われました。名前はアンと申します」
それは声からして、女性だと思った。
顔は見えない深いフードで隠れている。全身も見えなかった。黒いロープで隠れている。牢屋の中では正座を崩したように座っており、膝の上で拳を強く握りしめていた。
涼は混沌とした考えから逃げるように、アン、と話そうかと思った。
「僕は涼です。今までは……冒険者をしていましたね。ここに来た理由は、大きな事件を起こしてしまったので目を付けられていたからでしょうか」
「そうなんですか。私は……おそらくエルフという珍しさからここに連れて来られたと思います。ところで、私は外の見えない馬車の中にいたので、ここがどこだかご存知あるませんか?」
アンは焦った様子もなく、冷静に自分の状況を考えていた。
「ここは……クリカラですよ」
涼は答える。
「クリカラ、ですか。懐かしいですね」
「そうなんですか?」
「ええ。私もこの町で荷物を整えて、初めての旅に出たのです。知り合いもいませんが、目を閉じるだけでこの町の様子が思い浮かびます」
「僕もそうです。この町に住んでまだ半年も立ちませんが、いいところはたくさんあると思うのです」
涼は自分の顔を触った。痛かった。右頬が大きく腫れていた。骨折だろうか、とも涼は考えるが、医療の知識がないので分からない。そこを労るようになぞった。
「私もです。色々な町を見てきましたが、本当にここはいい場所でした。この国は生活が不便な所が多々ありますが、それを覆すような魅力があります」
アンは懐かしそうに目を細めた。だがそれは既に遠い過去なのか、酷く哀愁を感じさせる。その姿は涼の目には、とても小さく見えた。疲れきっているみたいでもあった。
「……あなたはどうしてここへ?」
そんなアンへ、涼は以前から気になっていた質問をした。
だが、アンから答えは返ってこず、フードの隙間から見える薄く赤い唇を固く結んで膝の上で握った手をぐつぐつと震わした。
涼は先に語りだした。
「僕はこの牢屋の主人に憎まれているからです。とある娼館を一件潰したことが原因でした。それは僕の正義から行った行動でしたが、ここに入る直前に刺客が送られたのです。それに僕の武器ごと壊されて意識も無くなったらしいです。それから、ここで目を覚ましました。まだ、自分の身に起こったこと自体をよく分かっていないのです」
涼は自分に言い聞かせるように語った。
まだ頭の中が混乱しているのは事実だったが、自分のことを冷静に鑑みると現在の状況を受け入れられるような気がした。
その口調は、まるで他人事のように淡々としていた。
「そうですか」
アンは涼の言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷いた。
涼は神父へ懺悔するようにぽつぽつとまた口を開いた。
「僕はその男に倒される際に剣を壊されました。一本の宝剣です。中々高価なもので、ダンジョンの中で見つけた物です。あれは僕の中で心の支えでした。全てを失った僕には、剣しか無かったように思えます」
「そんな大切な剣を……」
アンはまた頷きながら親身になって聞いてくれる。
「はい。でも、今ではそれでよかったかも知れません。あの剣は僕にとって行動基準の象徴でもあったのだと思います。また、あの時、その男に僕の生き方を否定されました。確かに、と頷いてしまう自分が嫌いです。ですが、心の支えを失うと同時に、重みも下ろしてしまった気がするのです。あの剣は僕にとって、もしかしたら大きな荷物だったのかもしれません。今は心が軽いですが、その分、風船のようにどこかへ飛んでいってしまうような気がします」
目の前の相手はたった数分前に知り合った名前しか知らないただの知人だが、だからこそ、こんな大切なことを話す気になったのかもしれない。もしこれが見知った者なら、自分の今までの評価を覆すかもしれない。いや、果たして自分の話を真剣に聞いているのだろうか、という不安にかられる。またこの話が原因でこれからの関係が崩れたらどうしよう、いいアドバイスが貰えるだろうか、などと思い悩むだろう。
けれども、初対面の相手だと、そういった遠慮をしなくていい。また良い助言も期待しているから話しているわけではない。ただ誰かに今の自分を聞いてもらいたくて話しているだけなのだ。
黙っていれば、この膿が増えるように感じたのだ。頭の中から生まれたそれが、身体の中をべったりと伝わり、足の中に溜まっていくようだった。
だから、吐き出したかった。
実際、他人に心の中を吐露すると、すごく楽になるように感じた。
まるで身体の中に溜まったヘドロを吐き出しているような気分だった。
「そうですか。剣が壊されて……」
「ただ、ここにいてこういう穏やかな時間が続けばいいと思いますが、そんなことはあり得ない、というのが今の率直な感想でしょうか。何故か自分のことなのに……」
「受け入れられないのですか?」
「違うのです。受け入れてしまっている自分が恐いのです。まるで今の自分が自分ではないくらいに、そして、そんな自分を喜んでしまっている自分が恐いのです」
涼はベッドの上であぐらをかいていて、ゆっくりと足の上で組んだ手を置いた。そしてそれをぼんやりと見つめた。
「恐い……のですか。何が恐いのでしょうか?」
「過去の自分が正しいと思う自分がいて、でも今の自分を気に入っている僕がいる。足元が定まらないのです。だからこのさきの未来を考えられない。まずは過去に決着をつけて、自分をしっかりと確立したいのかもしれません」
「確立は、私も分かる気がします。私も、この国で、自分の居場所があるか悩みましたから」
「僕もそうですね。もしかしたらこの世界に居場所がないのではないか、とおもっているのかもしれないです。その時、あなたはどうしましたか?」
涼は先人の話を聞きたかった。
「私は……考えないことにしましたよ。行きたいように行きました。と言っても、生きることに忙しすぎて、そんなことを考えている余裕がなかったのです。今はこの牢屋の中で何もすることがないので、そんなことを考えているのかもしれませんよ。少なくとも、私はそうでした。今は私も色々なことを考えてしまいます。例えば未来のことですかね。この牢屋の先に何が待っているのかは、私には分かりません。もちろんそれは、あなたの今後も同様です」
「……僕の未来ですか。おそらく、碌な結果にならない。多分、十中八九殺されるしかないですね。ただ、その前にあなたの言うように、生きることに夢中になっていいのでしょうか?」
「いいと思いますよ」
その言葉で、涼は目から鱗が落ちた。
そういう生き方もあるのかも知れない、と。
目が覚めてからずっと自分の正義についてや生き方、また平和について悩んだ。
もう、悩む必要も、ないのだろう。
正義なんて、所詮詭弁なのだ。あの男の言ったとおり。誰にも共感してもらうなんて、所詮は夢のようなことなのだ。人の考えは沢山ある。それこそ、山のように。あの男の考えもあるのだ。あんな考えだったら、どれだけ自分と議論しようが一生平行線のままだろう。いや、それよりも前にまたあの男に全力で殴られるかもしれない。
――だが、例えそうだとしても、涼の考えは変わらなかった。
正義は正義だと今でも思うし、偽善も正義だと思う。
正しいことは正しいのだ。
つまり、それが涼のやりたいことなのだ。
そこに自分の考えや何が大切かなど、必要がない。そんな心構えはあるだけ無駄だ。悩むだけ無駄なのだ。どんな意識を持って、どんな選択を選ぼうとも世間には行動か結果しか見られない。その間にあった葛藤や苦悩など、理解されることなど一度もない。なかった。
要するに、大切なのは行動だ。これから自分がどうするか、だ。
あの男のように。
言葉ではなく、行動で示せばいい。
精一杯、全力で生きて、それから悩めばいいのだ。
何が間違っていて、何が正しいかを。
「ははっ――」
そんな風に考えると、涼は心が軽くなったように感じだ。
「……どうかしたのですか?
エルフの女性は首を傾げた。
「いや、あなたの言葉で心が凄く軽くなったのです。今ならなんでもできそうです」
涼はいたずらに笑った。
もう彼の心はすっかりと晴れていた。
「そうですか。それはよかったです」
アンは嬉しそうに頷いた。
涼はその笑みを受け取ると、木製のベッドをひっくり返し、四足が天井を向いた。涼はその一本を全力で蹴ると轟音を奏でて折れる。そのベッドは既に木が脆いので、簡単に根本からぽっきりと折れた。
それと同時に、遠くから足音が聞こえた。
「……何をしているのですか。すぐに見張りの者が来ますよ」
アンは眉間に皺を寄せた。
「僕も自分の思う通りに行きたいと思ったのです。だから、思った通りにやってみました」
涼はすぐにその足の一本を持つ。
そしてそれをスキルを唱えながら、勢いよく振った。
――『燕斬』
『飛斬』の上位スキルであり、これも斬撃を飛ばすスキルだ。それでよく涼は相手を切り刻んでいた。
他のスキルとは違い、“斬撃”を飛ばす技なので、武器の切れ味も多少影響するが基本的には本人の能力に由来する技だ。また、涼はこれでよく“鉄“を切っていて、それは『飛斬』ではできないことである。
それはベッドの足のような短い棒でも、剣と認識したのか発動する。
ただ、涼の感覚では若干威力とスピードが落ちているように感じた。
だが、鉄格子は簡単に斜めに切れた。
そして何度か振るい、涼は鉄格子を断ち切って、今度は木の棒を離して、切った鉄の棒を左右それぞれの手に持つと、アンに微笑みかけた。
「どうしますか? あなたもここから逃げますか?」
アンはそれにゆっくりと頷いた。