第十六話 悪鬼VS剣闘士
そして、試合の当日になった。
氷雨はこの一週間、この日のために鍛錬をしてきた。午前中は技の練習に当てて、午後からは実践の勘のためにダンジョンに一人で潜っていた。
そして昨日、全ての疲労を抜くために一日休んだ。
身体を万全の状態にするためだ。
だが、氷雨はこの一週間で、何の達成も得ていなかった。
『浮雲』は、結局、習得しなかった。できなかった。
やはり、一週間という期間は短すぎたのである。
「氷雨……」
雪は両腕の手首に丁寧に白い包帯のような晒を巻く氷雨を見る。
「何だよ?」
「本当に、今日の試合に行くつもりなの?」
「行くさ――」
「止めといたほうがいいわよ」
「分かっているよ」
「なら、どうして……?」
「逃げるわけにはいかないんだよ」
氷雨は手のひらに何度か晒を回して、拳を作る時に飛び出る骨を隠す。それからまた手首へと晒を回した。動きにくくならないように薄くしながら、けれども手首を守るように晒を巻く。
それが終わると、今度は上の服を脱いで、腹に晒を巻きつけた。
何度も、何度も。腹筋の場所を、隙間のないように隠す。
この行動にも意味があった。
腹を斬られた時に、腸が飛び出ないようにするためだ。切り口が浅ければ、戦えるように晒を巻くのである。昔の人はこうやって、大怪我を防いだと祖父から聞いていた。
それから、今度は足首に晒を巻く。決して、捻挫をしないように。
「……氷雨、あなたは、この一週間で何も変わっていないのよ?」
「知っているさ」
それから氷雨は皮製のブーツを履いて、しっかりと八ホールの穴にとされた紐を結ぶ。
絶対に解けないように。
「何を言っても無駄なようね……」
雪は諦めたようだった。
「ああ。そうだよ――」
氷雨は上着を着て、その上からいつものマントを被った。
それから宿内にいた四人を見渡した。
カイトとユウはいつもの顔で期待したように、クリスと雪の心配そうな視線が突き刺さる。
「行こうか――」
その氷雨の声と同時に、五人は動き出した。
◆◆◆
「来ましたか――」
五人が向かった先には、既にアンタレスの他のメンバーがいた。
そこは『エータル』から少し離れたところにある草原だった。ここには、あまり人が来ないことで有名だ。どこかに続く道でもなく、近くにダンジョンがあるわけでもない。こんな広場には時々、新しいダンジョンが突如として生まれるのだが、それも今は無かった。
氷雨は、ここに来たことがある。ミノタウロスの迷宮は、この場所にあったのだ。
「ああ。来たぜ――」
氷雨は軽く言った。
「氷雨君、覚悟はよろしいですか?」
「何の覚悟だよ?」
「斬られる――覚悟ですよ」
「へえ、それは楽しみだな」
氷雨は軽く言いのけた。
「昇君……」
雪は、何か吹っ切れたような昇に声をかけた。
雪が見る昇は、一週間前とは違っているように見えた。
背筋が伸びているように見える。目に迷いが無い。心構えが変わっていたのだろう。
強い――。
一週間前より、確実に。
心の悩みを吹っ切れた者は、技術も、筋力も上がったわけではないのに強くなる、ということはこの世界では多々あった。
「雪さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ。そっちはどう?」
「すこぶるいいです。色々と、重りが無くなったように感じます」
「それは良かったわね」
「はい。また、僕は愛さんと付き合うことになりました」
雪は昇の少し後ろにいた田中愛を見た。
彼女の気持ちは知っていた。この一週間の間に気持ちを伝えたのか、もしくは以前から昇に気持ちを伝えていて、それに彼が答えたのかは分からない。
ただ、今の彼女は幸せそうな顔をしている。
綺麗に見えた。
ただ、雪は昇を振ったことを後悔はしていなかった。
雪は最初から昇を、男としては、好きではなかったのだ。
「そう。おめでとう」
雪ははにかんだ。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
昇は嬉しそうに言った。
「で、そろそろいいか?」
「いいですよ。氷雨君――」
氷雨と昇の周りから、全ての人間が一歩引く。
それは合図であった。
――開戦の。
「昇さん、本当にあの男と戦うのですか……?」
一歩前に進んで氷雨を睨んだ昇を、意味があるのか、というような表情で田中愛が見つめた。
田中愛が数日前に焦燥した昇に告白をして、彼を立ち直らせた時、今回の試合に反対した。それは他の仲間も同じだ。
同じゲームプレイヤー同士で、木刀などを用いた試合ならまだしも、真剣勝負なんてするものじゃない。“たかが”試合で命を捨てるような戦いをするなんてふざけている、と誰もが昇を説得しようとした。
「心配しないでくださいよ。――勝ちますから」
昇は氷雨を睨みながら宣言した。
「分かっています! でも、でも、わざわざ命をかけて戦う必要があるのですか? いくら試合とはいえ……この雰囲気はまるで決闘のようですよ!」
田中愛は叫んだ。
「そうですね。決闘のようです。一歩間違えれば、窮鼠に噛まれるかも知れません」
「いくら相手のレベルが22とはいえ、負ける可能性は十分にあるんです! 昇さんが強いのは分かっています! レベルが47に“名”も持っているんですから! でも、それなら、より一層、戦う必要があるとは思えません! 昇さんが勝つに決まってます!」
「そうですね。この戦いに必要性はありませんね――」
昇は田中愛の言葉にゆっくりと頷いた。
切っ掛けが何かなんて、昇はよく覚えていない。
価値観の違いと聞かれたら、おそらくそうだと答えるだろう。
また馬が合わないからと聞かれても、おそらくそうだろうと答えるだろう。
それだけで、試合を望むなんて、という気持ちももちろん昇の中にはある。下手をすると、今後の迷宮探索に支障が出る可能性もあるのだ。この世界には回復薬があるが、万能ではないからだ。
だが、片方が喧嘩を売った。だからもう一方も喧嘩を勝った。
そこに、理性や公明正大なんて、関係がなかった。
「なら!」
「でもね、愛さん、僕は、彼に勝ちたいのですよ。レベルの差などではなく、この手で勝利を掴みたいのです」
――ただ、氷雨に勝ちたい。
昇はそれしか考えていなかった。
その昇の有り様に、田中愛は全く納得出来ないが、もう何も云わなかった。昇るが自分から目線を外して、氷雨しか見ていなかったからだ。
この時、ばかりは、愛は氷雨に嫉妬していた。
「ところで、それは?」
氷雨の目が、昇の持っていた剣に違和感を覚えた。
「いい目をしていますね。これは――模擬刀ですよ」
昇が抜いた剣は、光が鈍かった。
その長さは持ち手を含めても七十センチほどしか無かった。その中でも刃渡りは五十センチほどである。形状が直進的な刀身は肉厚で幅広の両刃で、先端は鋭角になっている。また柄頭は持ち手に比べると丸く膨らんでいた。
グラディウス、と呼ばれる剣だった。
冒険者は長剣を持っている人が多いので、氷雨は物珍しい目で見つめた。
だが、その剣は刃があるように思えるが、それにしては横から見た時に薄くない。ぶしろ分厚い。本来なら鋭く尖っている部分が、普通より厚くなっていた。
「模擬刀?」
「ええ。この剣は何かを斬るようには出来ていません。」
「手加減か?」
氷雨は嗤った。
「いえ、違いますよ――」
「へえ、ならどうしてそんな武器を使うんだ?」
「……本気で戦うためですよ」
「本気で? なら、尚更真剣を使うものじゃないのか?」
「氷雨君ならそうなのでしょうね」
「そうだな」
「でも、僕は、人を剣で切れるほど、人として壊れていません。流石の僕も、モンスターをどれだけ殺したとしても、人殺しはしたくないのです」
「そうか――」
「ええ。だから――これを使うのです。昨日作り上がったので、まだ出来たてほやほやです」
昇は盾を左手で持って、右手でグラディウスを何度も振る。
氷雨の耳に風切り音が聞こえた。
それは昇の手にあっているようだ。
まるで手と剣が一体化しているようにも見える。
「どういう意味だ?」
「これなら、刃が無いので、氷雨くんが切れる心配はないでしょう?」
「そうだな。でも、俺は使うぜ――」
「何をですか?」
「相手が死ぬような技を使うと言っているんだ――」
氷雨は本心からそう言った。
敵がどれだけ手加減をしようが、氷雨はその手を緩めることはない。
寸止め、などしない。拳を握れば当然ながら振りぬくし、関節を極めれば即座に折るだろう。もしかしたら目や股間も狙うかもしれない。
ルール無用の試合を氷雨は望んでいるのだ。
「僕を殺す、と言うのですか?」
「そうなるな」
「どうやって殺すのですか?」
「色々とやりかたはあるさ――」
「そうですか」
「そうだよ」
「でも、氷雨さん、勘違いしないでくださいよ」
「何をだ?」
「――模擬刀でも人は死ぬ、と言いたいのです」
「へえ」
氷雨は口角を不気味に上げた。
「これは切れ味こそ無いものの、鉄の塊です。要するに持ちやすい鉄パイプのようなものです。そんな物が頭に当たったら? 頭ではなくても、胴体でも、何十発か受ければ意識を失うどころか、最悪の場合は死ぬかもしれません」
「要するに、鉄パイプでも人は殺せる、とお前は言いたいのか?」
「そういうことです」
「望むところだ」
「その前に降参をすることを願っていますよ」
氷雨と昇は睨み合った。
二匹の獣は、まだ動かない。
悪鬼と剣闘士は、まだ動かなかった。