第十五話 足掻きⅡ
「さて、私が教える技の説明をしましょうか?」
雪は腕を組んで仁王立ちをする。
「ああ――」
「あなたも知っている技の――『浮雲』よ」
「『浮雲』ってあの?」
氷雨は頷いた。
「ええ。じゃあ、まずは実践ね。体で覚えましょうか。マント、貸しなさい」
雪は装備していた剣と盾を地面に置くと、氷雨の着ていた灰色のコートを受け取って、身を包んだ。
首から下を、マントで隠す。
その姿はさながら灰色のコウモリだ。
「行くわよ?」
「ああ」
氷雨が返事をすると、すぐに行きは氷雨に向かって駆ける。
敵は、素手。
氷雨は右足を引いて、腰を低くした。
見る。
雪の動きを。
右のコートが少し膨らんだ。
右足だ。
彼女の右足が動いたのだ。
氷雨は右足の蹴りが来ると思った。
だが――
「甘いわよ」
来たのは、左足の上段蹴りだった。
それは頭部を狙っていた。
氷雨は肩を上げて防いだ。
すぐに雪は足を引き戻し、灰色に紛れるように隠した。
「そういうことか」
距離を取った雪に対して、『浮雲』の“仕組み”が分かった氷雨。
「答えを述べなさい。答え合わせをしてあげるわ」
雪は挑発的に笑った。
「要するに、間合いと技を誤魔化すんだろ。マントで」
氷雨は簡潔に述べた。
武技に置いて、足の動きは非常に重要だ。
すり足。踏み込み。引き足。など、その動きは様々に分かれる。
その用途としては、間合い管理。技の初動。複雑な足捌きから繰り出される投げ。また足だけで関節技をかける者もいる。それはある意味、腕の動きよりか重要視される。またある武術においては、門下生に腕の動きは簡単に教えるが、足の動きは教えない流派まである。
それは、戦いに置いても非常に重要だった。
たった半歩の間合いの差で、敗れることなど武術家には日常茶飯事だ。
だから、袴などのゆったりとした服で、足の動きを隠したりする武道家も多い。
袴の見えない部分で、相手に悟らせぬように足を半歩だけ先に進ませる。その差が技に重みを生んで、敵への攻撃がより深くなる。また、それによって、敵の予想よりも早く攻撃を仕掛けられる場合もあるだろう。
足の運びは、上に登れば登るほど重視される。
「半分ね」
だが、そんな氷雨の答えも、雪は嘲笑った。
「そうか。で、答えは?」
氷雨は、否定されても落ち込みもしない。
その程度の“小細工”なら、今の実力でも十分できるからだ。
「これはね、元々、羽織でする技なんだけど……手でマントを動かすの。こんな風に――」
雪は直立した状態から、一気に体勢を低くした。
マントが揺らいで、まるでボールのように重力によって膨らんだ。
そのまま、氷雨に距離を詰める。
蹴り。
それは氷雨の首元で止まる。
脛があたろうとしていた。
「なるほどな――」
氷雨は自分が思ったよりも、距離を詰めていたことに驚いた。
氷雨の考えでは、蹴りは足の指先だったのである。
つまり、『浮雲』は本来なら袴の中でするような微細な動きを、マントの中で大きくやるのだろう。また、足だけでなく、手でマントを操って間合いを操る。空間と時間を支配して、相手に異次元から攻撃するのだ。
「ね? 騙されるでしょ?」
「ああ」
「マントってね、意外と空間があるから相手の目を騙せるのよ」
「で、それを俺に、と?」
「ええ。苦手でしょ? こういう技――」
「ああ――」
「でも、盾相手には、やはり、間合いを上手く使うしか無いわね。これまで以上に――」
「間合い、ね――」
氷雨は言葉に含みを持たせていた。
「氷雨、これは、私からのアドバイスだけど――」
「何だよ?」
「氷雨は、これから先はどこを目指すの?」
「……」
氷雨は答えられなかった。
「考えたほうがいいわよ。どこを目指すにしても、この技を身につけられないとしても、ね。その上で、戦いをこれからも続けるつもりなら、間合いはこの辺りで熟知していたほうが、いい経験になると思うわよ」
「分かった――」
氷雨はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、早速はじめましょうか?」
「ああ」
氷雨はまた頷いた。
◆◆◆
次の日、今度はまた同じ広場に氷雨達が集まっていた。
いるのは、氷雨と雪に、あとはクリス達三人だ。
クリス達は見学だった。
本来ならここへと氷雨と雪の二人で来る予定だったが、宿で氷雨が出て行く時にユウがごねたのである。
曰く、外に出たい。宿屋にいるのは飽きた、とのことだ。
氷雨はそれに溜息をつきながらも、付いて来るのに反対はしなかった。
「……おねえちゃん、ひなたごっこ、きもちいいねえー」
ユウは、木陰の下で、クリスの膝に座っていた。
「そうですね」
クリスは、微笑んだ。
そんな二人の視線には、氷雨がいる。
彼は日光の下で長いマントに包まって、コウモリのように身体を動かしている。
まだ、一人で虚空に向かって、距離を詰めて、蹴りをしたり、一旦、後ろに下がったり、とそれはボクシングで言うシャドーボクシングであろう。
「氷雨、それじゃあ、ただの蹴りよ! もっと、身体の動きを意識しなさい!」
そんな氷雨へ、雪の怒号が飛んだ。
少し離れた位置で、雪は仁王立ちをしている。
その姿は貫禄があった。
「おねえちゃん……」
ユウが、クリスを見上げた。
「どうかしましたか?」
クリスはユウの大きなつぶらな瞳を覗く。
「カイにい、何しているの?」
「……私も聞きたいです」
クリスは苦笑いをした。
二人の視線の先には、氷雨と雪から一歩離れた所で、彼の修行風景を真剣に見つめていたカイトがいた。
そんなカイトの身体は、ゆらゆらと動く。
右へ、左へ。
体重移動を微かにしているが、それは誰も気づかない。
傍から見れば、足元が定まっていないように見えるのだ。
そして、氷雨が修行をはじめてから数時間が経った。
既に日は真上に昇り、お腹が空いてきた頃だ。
五人は休憩も兼ねて食堂に向かった。
それから各自、好きな物を注文する。
カイトは魚だった。
大きな魚を蒸したものだ。
それは白身魚で、ふかふかと身が柔らかい。箸を通すだけで骨から簡単に取れる。それを口に運ぶと、簡単に口の中で身が崩れて、独特の甘みが魚醤の絶妙な塩加減と混ざり合う。優しい味がした。決して胃に重たくなく、ゆっくりと味わえる蒸し魚にカイトの箸が止まることは無い。
美味い。
カイトは静かに言った。
最近、カイトが好んで食しているのが蒸し料理だった。
一時期は肉料理をよく食べていたが、最近は蒸し料理をよく食べている。
「おねえちゃん、これ、たべやすくして!」
「はい。切れましたよ」
「やった!」
ユウとクリスが仲良く食べているのは、こちらはカイトとは打って変わって肉料理であった。
リブだ。
その肉は厚みがあって柔らかく、“さし”が多く入っていて、濃い味わいがする。またそれには太い骨が付いており、食べにくいがその旨さは折り紙つきだ。骨周りの独特の濃厚な脂身が、口から弾けて脳まで伝わるのである。
二人が食べているのは、そんな肉を、バターでよく焼いて、砂糖がたっぷりと入った甘いタレがよく絡みあった料理だ。それはタレを何度も付けて焼いたのか、肉の中まで旨味が染み渡っていて、噛めば噛むほど美味しい肉汁が溢れ出す。
ユウはクリスに切り分けられたそのステーキを、両頬いっぱいに入れて、笑顔で何度も噛む。クリスはそんなユウに「ゆっくりと食べましょうね」と微笑みながら小分けしたステーキを一つずつ口に入れていた。
また、その料理には、じゃがいもを揚げたものと、コールスローサラダが付け合せに付いていた。重たい料理なので、箸休めにはちょうどいい。
「おねえちゃん、パン!」
またユウはロールパンの一つを手にとって、クリスへと付きつける。
「バターですね、ちょっと待って下さい」
クリスはそのパンに薄くバターを塗って、ユウへと渡した。もちろん「そんなに慌てないでください」と、窘めるのを忘れない。
雪は、そんな二人を優しい顔で眺めていた。
食べているのは、サラダとパエリアである。
パエリアは沢山の魚介類と野菜を、米と一緒に煮込んだ料理だ。この店の看板メニューなのか、それには特に気合が入っている。
両側に取ってのある平たい鍋――パエジェーラと呼ばれる特製の鍋の上には、既に出来上がったパエリアがある。そこにはムール貝を始めとして、イカ、白身魚、などの具材が入っている。またお米はサフランで黄色く着色されていた。
雪が一口スプーンで掬って食べると、魚介類の旨味が様々に溶け込んだお米が口の中を暴れる。それはアンダンテと呼ばれる硬さで、米の一つ一つの中に芯が薄っすらと固く残っている。その硬さが、ちょうどいい歯ごたえで、食事がぐんぐんと進む。もちろん貝やイカなどの具を食べるのも忘れない。
だが、その中で一番美味しいのは、おこげだ。鍋にへばり付いて焦げた部分が特に美味い。そこには染みだした魚介類の甘みが濃縮しており、スプーンが次々と進む。
雪はそんな料理を「美味しい」と小声で感想を言うと、また次々と口の中へ運んだ。
氷雨が食べているのは、そんな四人の料理全てと、また新たに注文したソーセージやスープ、もちろん野菜の虫料理も忘れない。
生の野菜も好きなのだが、蒸した野菜も甘みが増して美味しい。
氷雨は次々と食べた。
そんな風に、食事が進むと、カイトがふと箸を止めた。
氷雨を見る。
そして、重たい口を開いた。
「――ねえ、アニキ」
「何だよ?」
氷雨は食べながら顔を止めた。
「……オレね、強くなりたいんだ」
「なればいいんじゃねえの」
氷雨は軽く言った。
「それでね、アニキ、オレに、修行を付けてくれない?」
カイトの目が、氷雨を一心に見る。
その言動に他の三人までが集中した。
「何の修行だ?」
「オレは、アニキみたいになりたいんだ――」
「俺みたいって?」
「アニキみたいに、ミノタウロスと殴りあった時のアニキみたいになりたいんだ」
カイトは、氷雨の強さに魅了されていた。
武器を持たず、“名”も持たず、スキルを使わず、またレベルすら低い氷雨の強さに魅了されていた。
決して、氷雨の戦闘は美しいや綺麗などで賞賛されるようなものではなかった。
ミノタウロスの時もそれは同じだ。
相手に苦戦を強いられながら、血塗れになって、腕や足もあらん方向に曲がって、泥臭く、悲惨で、人に見せられるような戦いではない。
でも、カイトは、その強さに憧れていた。
「俺みたいって、素手か?」
氷雨は左手で握り拳を作った。
「うん!」
「これで、モンスターと戦うのか?」
「オレはね、それがいいんだ!」
「これでモンスターを殴るのか?」
「そうだよ。オレはね、その強さが……」
「――止めとけ」
氷雨から出たのは、冷たい言葉だった。
「えっ……」
「カイト、俺はこれで戦っているが、得したと思ったことは一度もないぞ。鉄を殴れば痛いし、殴られれば泣くほど痛い。剣を受ければ身が切れるのも痛いな。だからと言って、獣みたいに牙も爪もないから、勝つのも一苦労だ。はっきり言って、得をしたと思ったことは一度もないぞ」
「それでも、オレは――」
「――十年だ。俺は、ここまで強くなるのに、そこまでかかった。カイト、お前に、そこまでの覚悟はあるのか?」
「あるよ!」
「俺が師匠になれば、十年間は戦う場を設けるつもりはない。十年経つまで、ずっと修行だ」
「……」
カイトは、黙った。
まだ生まれて九年しか立っていないカイトに、その長さはよく分からなかった。
「それに、俺は、こんな場所に十年もいるつもりはねえぞ」
「それ、どういうこと……?」
カイトは、情けない声が出た。
「俺はゲームプレイヤーだろ? こんな陰鬱な世界に、そう何年もいてたまるか、って言いたいんだ」
「それって……」
「それに、カイトは何の為に強くなりたんだ?」
「……」
カイトは、答えられなかった。
何故、強くなりたいかと聞かれれば、すぐには返答が出ない。
モンスターを倒したいのか。
違う。そんなのは、カイトは望まない。
ならば、冒険者として身を立てたいのか。
それも違った。
氷雨のようになりたいのか、そう聞かれても、素直には頷けない。氷雨の強さは素晴らしいと思うが、自分がそんな風になりたいとは、思わない。あんな血塗れになってまで、モンスターを倒す気はない。
ならば、何故、強くなりたいのか、と聞かれると、ああ、その気持ちは氷雨に会う前からずっと心に持っていたことを思い出した。
理由としては――カイトには一つしかなかった。
カイトは、自分の妹であるユウを見た。
こちらを汚れ一つない様子で覗き込む黒い瞳が見えた。
ユウだ。
この世界に来てから、何度も泣いているユウの姿をカイトは思い出した。
カイトにとって、彼女のために強くなりたい、と思ったのだ。
なぜなら、兄だから。
親もいない。
親戚もいない。
庇護する者は誰もいない状況で、自分だけが彼女の永遠の味方でいよう、と思ったから。
「カイト、お前の理由はそれなんだろ?」
氷雨は、一瞬だけユウを見た。
「なに?」
皆の視線を受けるユウは、何も分からずに小首を傾げた。
「……うん」
カイトは、ユウから目が離せなかった。
「カイト――剣を学べ」
「剣?」
「俺の姉ちゃんに頼めばいい。教えてくれるはずだ。手っ取り早く強くなりたいのなら、誰かを守りたいのなら、それが一番早い。お前は、強くなるまで手をこまねいているつもりか? そんな暇はあるのか?」
氷雨は隣に座った姉を見た。
姉は、全てを自分に投げ売る度胸のある氷雨に、溜息しか出なかった。
「無い!」
それだけは、カイトは、言えた。
ユウのためなら、別に命だって惜しくは無い。
そうだ。
カイトは、忘れていたのだ。
氷雨の強さは確かに素晴らしい。
その強さを、自分も欲しいと思った。
何者も寄せ付けぬような強さがあれば、ユウを守れると思ったから。
ただ、そのためにこれから十年も待つなんて、とてもじゃないが、カイトは嫌だった。
今からでも、守れる力が欲しかった。
カイトは、雪を見た。
「雪ねえ!」
「なに?」
「オレに、剣を教えて下さい!」
カイトは頭を勢い良く下げると、机にぶつかった。
それで痛かったのか、当たった部分である額を涙目になりながら両手で押さえる。
それにユウが笑った。
クリスもつられて笑う。
いつもは無愛想な氷雨も、この時ばかりは微かに笑った。
「いいわよ。ただし、私の修行は厳しいわよ?」
そして、雪が笑いながら言った。
カイトは、嬉しそうな顔で頷いたのだった。