第十四話 足掻き
目が覚めると、氷雨は後頭部には柔らかい感触がする。
見える物は代わり映えのしない青空だ。
降り注ぐ太陽が眩しかった。
それにこちらの顔を覗き込む懐かしい姉の顔。
どうやら、自分は姉に敗れた空き地にいて、彼女に膝枕をされているのだと悟った。
負けた。負けた。
その言葉が氷雨の頭の中で反芻する。
勝てる、と思って戦った。
自分は強くなったと思っていた。
だって、様々な死線をくぐってきたのだ。
この世界に来てから。
奴隷を仕入れていたカナヒトに始まり、ワルツ、ディアブロ、ミノタウロス。どれもが強かった。だがその一つとして、最後には勝ってきた。技も増えた。成長したと思った。数カ月前には負けていた姉にも勝てると思っていた。
だから、自分は姉と戦った。
だが――結果はご覧の有様だった。
負けてしまった。
そのことが大きく伸し掛かる。
言い訳なら、幾らでもできる。
姉は一年ほど前に来たのに自分はまだ一ヶ月と少ししか経っていない。
武器だって自分は持っていない。
レベルだって低い。
だが、そんな御託を並べた所で、虚しいだけだろう。
自分は、この道を選んだのだ。
何も持たない道を選んだのだ。
武器に頼らず、レベルに頼らず、“名”に頼らず、己の体だけにすがったのだ。
だが、負けた。
負けてしまったのだ。
圧倒的に、手も足も出ずに。
一週間後に、今の相手よりも強い人と試合の決まっている状態で。
嗚呼、どうすればいいのだ。
氷雨は分からない。
唇を噛み締めた。
血が出た。
悔しさの味だけが口の中に広がった。
「氷雨、起きたの?」
優しい姉の言葉、だが、それも今は虚しいだけ。
「ああ――」
「怪我は……無いわよね?」
「ああ――」
「痛みは?」
「無い――」
氷雨は淡々と答える。
そんな様子に雪は現実を突きつけるように言った。
「どう? 今の気分は?」
「最低だよ――」
そう言って、氷雨は立ち上がった。
表情は決して良くない。濃い土のような色をしていた。
「ああ。本当に最低だよ――」
氷雨は起き上がり、胡座をかいて地面の上に座った。
空を見上げるようなこともせず、自分の陰で暗くなった地面を見つめる。
殴った。拳から血が出るが、気にも止めなかった。
「くそっ――」
氷雨は、弱みが口から漏れでた。
どうすればいいか分からない。
氷雨の本心だった。
この感覚は、と氷雨は思い返す。
味わったことがある。
ミノタウロスだ。ミノタウロスに負けた時も、こんな気分だった。戦うまでこんな気分だった。不安と苦しみ。それが融け合い、心の中で泥となって残る。
そしてあの時は勝った瞬間に、その全てが晴れ渡ったのだ。
もし一週間後の戦いに勝つと、この気持ちが晴れるのだろうか、とまで考えて止めた。
勝った後のことなんかを考えてどうするんだ、むしろ、勝つ方法を考えろ、と自分を叱責したのだ。
だが、いい案は出ない。
今の時点で、姉との彼我の差は明らかだ。
その姉が、あの男は自分よりも上だと言った。
氷雨は姉の判断が間違っているので、自分は勝つことが出来る、と言うこともできる。
だが、しない。
それも心が虚しくなるだけだからだ。
どうすればいい?
氷雨は己に問う。
返事は――強くなればいい。
それだけが帰ってきた。
ああ、それなら勝てる、とまで思った。
笑いたい気分になった。
それが簡単に出来れば、苦労をしない。
むしろ、それが一番難しいのだ。
次にどうすれば強くなる、と考えた。
答えは出ない。
ミノタウロスの時は、『烈風』があった。
あれに頼ればよかった。
それで勝てると思っていた。
だが、今はそんな支えも無い。
登るにどうしたら勝てるか、いい案が出ない。
いや、一つだけあった。
だが、この方法に頼るのも、確証が無いし、何より氷雨は嫌だった。
ただ、負けることとこの方法に賭けること、どちらがより嫌か、と思った。
負けるほうが――嫌だった。
行動は決まった。
「姉ちゃん、頼みがある――」
氷雨は姉へと顔を合わせた。
「何?」
「俺を勝てるようにしてくれ――」
そして頭を下げた。
「……そう来ると思ったけど、残念ね。――無理よ」
姉は、淡々と告げた。
それから言葉を続ける。
「まず、昇君の実力を述べましょうか?」
「ああ――」
氷雨は頷いた。
「昇君のレベルは47。この時点で私よりも高いわね。それに“名”を持っている。》。ただの“名”じゃないわ。剣闘士。“名”中でも上位種ね。まあ、これだけなら、氷雨でも戦えるかもしれない。でも、氷雨が最も負ける要素として大きいのが――戦闘スタイル的に不利なのよ、あなた――」
「……例えば?」
氷雨は俯きながら聞いていた。
「盾ね。あれはあなたにとって天敵ね。特に昇君が持っているのは、金属製の盾よ。他の人ならまだしも、あなた、盾を殴るだけで拳が壊れるでしょ? 足が折れるでしょ? 昇君はスキルでね、自動防御を持っているの。グラディエーター特有のスキルね。これは相手の攻撃に対して、体が勝手に盾で防いでくれるらしいわ。それに抗受も持っているの。ああ、これ? これはね、私がやったあの“烈風”を発動前に崩す技。ああいうのが、スキルで擬似的に出来るらしいわ。昇くんが言うには攻撃が完全に“ノる”前に、盾で弾くらしいの」
雪は無表情で語る。
氷雨はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「そうか――」
「まだあるわよ。昇くんが持っているのは剣。あなたは拳。リーチで負けてるでしょ」
「ああ――」
「相手はおそらく防具もつけるわ。そこに氷雨は攻撃できない。だって、昇君の防具は鋼鉄製だから」
「そうだな――」
「体格も大きいわね。昇君は。まともな技なら通じもしない。つくづく思うけど、素手って不利よね。相手はこっちに一発入れるだけで勝つのに、相手は一撃食らっても負けないことがよくあるんだから」
「そうだな――」
「まだ、聞く?」
「ああ――」
「後はね、昇くんは才能もあるの。相手の攻撃を見て、受けて、それだけで反撃の隙を見つけるわ。後、反撃というスキルもあったわ。敵の攻撃を防ぐに合わせて、こっちが剣で斬りかかるの。ああ、そうそう。残念なお知らせだけど、昇君はどの時にどのスキルをするか、経験で知っているわよ。戦い方も未熟じゃない。他にはね。戦闘スタイルもやっかいね。基本的には、待ち、相手の攻撃を防ぐのを、起点にしているわ。本当、素手で攻めるのに、盾は厄介よね……って、氷雨もさっき実感したでしょ?」
「ああ――」
先程の戦闘で、それは思い知っている。
「最後に、ああ、これは氷雨が勝っているわね。早さよ。これだけは氷雨の勝ちよ。だって剣も防具も無い状態だから、重りがある昇くんより、重りがない氷雨の方が軽い。この状態なら、早さだけは勝てるわね――」
「そうか――」
「それで、本当に氷雨は戦うの?」
雪は不安そうに言った。
負けたら、死ぬ可能性だってあるのだ。
そのことを雪は危惧していた。
だからあえて氷雨にとって辛いこと多く言うことにした。
氷雨が戦いを諦めるように。
「ああ。それで、姉ちゃん、鍛えればあいつに勝てるか?」
あくまで戦う姿勢を止めない氷雨に、雪は溜息を一つ吐いた。
諦めの悪い子。と呟く。
続けて分かっていたけど。とも呟いた。
その顔は可哀想な子を見るように冷たく、また馬鹿な子ほど可愛いのか温かい目であった。
「一言言うわ。それは無理ね――。人はね、“たかが”一週間程度じゃ強くなれない。なれたとしても、それは今までの努力が実った証拠。氷雨は今までの努力が十分に実っている。劇的に強くなるのは、無理ね」
「そうか。じゃあ、可能性として、何をすれば勝つ可能性が増える」
氷雨はどうにも諦めが悪かった。
頭はいい。
回転は早い。考えが足りない者なら、耳で聞いただけでは実力差が分からないのだ。他人の言葉を受け入れない。今の状況すら受け入れられない。ただ戦うまで分からない、とか、勝つ可能性は少しはある、とか、やってみなくちゃ分からない、などと夢に溢れたことを言う。
だが、氷雨は違う。
単細胞ではなかった。
今の状況が圧倒的に不利とわかった上で、負けることが前提な上で、それでも戦うことを選ぶ。
それが理にかなわない行動だと分かっている上で、だ。
それを馬鹿だと呼ぶなら、氷雨は馬鹿なのだろう。
「……筋肉は増えない。盾を壊すような技は無い。とすれば、盾を避けて攻撃すればいい。でも、その技術を……氷雨は知らない」
雪は冷静に氷雨のことを考える。
可愛い弟の願いを叶えるために、少しの可能性を考えた。
その結果――
「一つ、ある技を覚えれば。ただ、それを覚えて、昇くんと五分。いや、四六でこちらの分が悪いわ。それに、一週間という期間は短すぎる。あんたでは、一月でも足りない。覚悟はある? 無駄な時間を費やす覚悟が――」
一つだけ思い浮かんだ。
無謀すぎる賭けだろう。
勝つことは何一つ約束されていない。
これは、足掻きだ、と雪は思った。
彼女が示した道は、負けるのをただ待つ選択ではなく、ハリボテのような糸に縋る道だった。
「それでいい。それでいいよ」
氷雨は頷いた。
例え、足掻きでもよかった。
このまま一週間が過ぎるのを氷雨は勿体無い、と思ったのだ。
どうせなら全てを行った上で負けるほうがいい。
氷雨は前向きに負けることを考えていた。
足掻いてやろう、と勝負の日までも、勝負の日も。
足掻いて、足掻いて、足掻いて、それで負けるのなら負けてもいい。
ただ、何もしないのは嫌だった。
試合から、逃げたくは無かった。
逃げれば、何かが自分の中で壊れるような気がした。
いや、これまで勝ってきた相手に申し訳ない、と思った。
これは意地の問題だった。
「さて、修行は今からはじめましょうか?」
「ああ、時間が無いからな」
「感謝しなさいよ?」
雪はやっと笑った。
それは氷雨の馬鹿に付き合うことを決めた笑みだった。
「ああ。感謝してるよ。最後まで、俺の勝手な悪あがきに付き合ってもらう礼に、な――」
氷雨は立ち上がった――