第十三話 弟VS姉
氷雨と雪はそれぞれの心境で、とある空き地に集まった。
そこは雑草が生い茂り、近くにゴミ溜めがあるのかほんの少しだけ異臭がする場所だった。
戦う場所には丁度いい。草以外にそこは何も無いし、正方形に上手く区切られた広さも一般的なボクシングのリングよりも少し広い程度だ。
氷雨は姉と戦う準備として、上着としてきていたマントを脱ぎ広場の隅に雑に置く。さらには上半身に着ていた服も脱ぎ、様々な傷がついた体を外気に晒す。
雪は腰の剣を抜くだけで、他には何もしなかった。右手には円楯をつけているが、盾と剣は自身の護衛のためにここ『エータル』では常に持っているのである。
「姉ちゃん、何なら宿に防具を取りに行くか?」
氷雨は真顔で雪に言った。
彼女は武器である剣と盾は持っていようと、いつも迷宮で使うような防具は着込んでいない。あんな重い物を日常生活でも用いるのは、面倒だと思っている。
「いらないわよ――」
「へえ――」
「盾もある。剣もある。それ以上はあんたには必要ない。いや、逆ね。動きが遅くなって、逆にやりづらいわ――」
雪は氷雨をしかと見定める。
体は自然体だった。
どこにも無駄な力を入れていない。
右足を前に出し、半身になって、円楯で体を隠す。
「相変わらず――」
それだけなのに、氷雨には雪の体が一段と大きく見えた。
彼女の身体の大部分は鋼鉄の盾で隠れている。
剣すら見えない。
足はかろうじて見えるが、右足だけだ。左足は上手く右足に隠れている。
やりづらい、氷雨は雪とひと月ぶりぐらいに対峙して、改めてこう思った。
――隙がない、のだ。
右から、左から、下から、上から、あらゆる方向から攻めると仮定する。
おそらく、その攻撃はあの盾で防がれるのだと予想し、すぐに信じられない方向から今は見えない剣が飛んでくるのだと予想した。
それは、一朝一夕ではできない構えだった。
なるほど、と氷雨は思う。
この世界に来て、一年以上伊達に剣を振っていないわけではないらしい。
「氷雨、いつでもいいわよ。何なら私から行きましょうか?」
雪は挑発するように言った。
「いや――」
そう言って、氷雨は右手を軽く握り、開く。
身体の調子は良好だった。
確かにダンジョンで傷ついており、絶好調までとは行かないが、最悪でもない。
先手必勝、との思いを胸に、氷雨は身体を深く沈めた。
盾の無い下から攻めようとの魂胆なのだろうと、雪は思い、それを見ても、焦らず、氷雨を待つ。
体勢がとても低くなった状態で雪へと駆け寄る氷雨は、突如、身体を跳ね上げる。
右足を天高く上げる。
そのまま落とす。
踵落としだった。
「やるわね――」
雪は冷静に氷雨の攻撃を盾で防ぎ、そのまま押し返す。
氷雨は右足が浮かんでいることにより、左足がぐらつく。
雪はそこを狙い、剣で喉元を突こうとするが、氷雨は転がるように後ろへと下げた。
「へっ――」
「氷雨、まさかそれが本気?」
悠然と見下ろす雪と、ダメージは無いものの地面へと転がる氷雨。
「なわけねえだろ!」
氷雨はすぐに立ち上がり、真正面から雪の腹部への攻撃を決める。
単なる正拳突き。
だが、そこは雪の盾で既に防がれている。
氷雨は、盾に当たる直前で右手を止める。
流石の氷雨も鋼鉄の盾を殴ると痛くなるが、盾を押すならそれ程の衝撃も無いだろう、と考えた。
踏み込んだ足で、貯め。
捻る腰で、増幅し。
伸縮する背筋で、集め。
太い肩で、支え。
強い手首で、押し出し。
固い拳骨で、盾を――
そこで雪の盾に氷雨の拳が押された。
『烈風』をするのに必要なコンマ数秒の“溜め”を雪に狙われたのだ。
氷雨の右手が弾かれ、雪の剣が氷雨の胸元を突く直前で止まる。
氷雨に、冷や汗が流れる。
「まさか、氷雨が『烈風』をできるとは思わなかったわ。でも、そのタイミングの間が無防備なことぐらい知っていたでしょ?」
『烈風』は全身全霊で行うために、少しの隙が生じる。
いや、強烈な一撃を放つために隙を無くすのも犠牲にしているのだ。
「ああ――」
「強くなったことは認めるわ。ほら、また来なさいよ――」
雪は剣を引き、氷雨から一歩距離を取ってから、艶やかに誘う。
氷雨は直ぐ様雪へと距離を詰めようとするが、一歩、雪から距離を取った。
どう攻めればいいかが分からなかった。
相変わらず、雪は半身のまま盾で身体を隠している。
氷雨はあの盾を、どう攻略すればいいかが分からなかった。
剣だけなら、躱すだけで良かった。
そして懐に潜り込み、拳か脚で、相手を攻撃するだけで良かった。
だが、盾があるとどう攻撃すればいいかが分からない。
雪からは、攻めてこない。
氷雨は、雪をまた観察する。
関節か、投げの方がいいのだろうか。
いや、通じないだろう、と氷雨は思った。
返されるだろう、と予測する。
「来ないなら、私から行くわよ――」
攻め戸惑う氷雨に代わって、雪が駆ける。
剣を横に雑に振った。
狙いは氷雨の首元だった。
氷雨はそれをくぐるように躱し、雪の懐へと入る。
体が起き上がる勢いとともに、右の拳で剣を持っている側の脇腹をフックの要領で狙うが――
「っ――!!」
そこには既に盾があった。
拳骨が少し裂け、血が滲んだ。
狙われたのだ。
誘われたのだ。
圧倒的な力量の差を知らしめるために雪はわざと隙のある大きな横振りをし、氷雨の攻撃を読んだ上で盾を置く。十分過ぎる勝算を持った上の彼女の作戦だった。
そして氷雨が続けて左の拳で、今度は逆の脇腹を殴ろうとした時、雪の膝が潜り込んでいた氷雨の顔面にあたる。
頭が、揺れる。
だが、雪の攻撃はそれだけでは終わらなかった。
そこに雪の中段蹴りが、浮いた氷雨の顔へ直撃した。
氷雨も拳を雪へ伸ばそうとしていて当たったのだが、腰も入れず、体重も乗っていない攻撃は雪に取って何の痛みにもならなかった。
氷雨はダメージはあまり無かったが、蹴りの衝撃で地面へと無様に倒れながら、悔しさか、痛みか、口がへの字に曲がった。
「ほら、私に圧倒されるような実力しか無い。氷雨、あんた弱いわね――」
雪は平然と氷雨を見下ろした。
「氷雨、実はね、私はあんたが低レベルの癖にそこまで強い理由をほぼ知っているのよ」
「そうかよ――」
氷雨は切れた唇の血を手で拭いながら、膝を立てる。
「教えてほしい?」
「ああ」
「ゲームプレイヤーは、ゲームを始めた時にレベル1になる。でも、この世界の元々の住民は生まれた時にレベル1になる。つまりね、現実世界で鍛えた分はレベルに入らないのよ。ゲームの時代は筋力に差があろうと、幾らかはリミッターをつけることが出来たけど、この世界はそうじゃないらしいわ。よってね、この世界の何も知らないゲームプレイヤーにとって、現実世界でレベルがあったら換算されていたであろうレベルが、唯一のアドバンテージとなるのよ」
だからこの世界でゲームプレイヤーは冒険者としては注目される。
この世界の基準では低レベルなのに、幾らかのアドバンテージがあるから、そのレベルの割りには強いことになるのだ。
「へえ――」
「でも、大概の人は剣や槍を使ったことが無い。剣道などはあるけれど、スポーツと殺し合いはやはり勝手が違うわ。その点だけで言えば、ゲームプレイヤーにとっての利点を最大限にあんたは受けていることになる」
例えば、現実世界で何かのスポーツをしていたとする。
その者は確かに筋肉があるが、それは剣を振るための筋肉ではない。
戦うための筋肉ではない。
だからそれらに必要な筋肉をつけ、いらない筋肉を落とすと、その分レベルは上がる。
それが一切必要ない氷雨は、元からレベルが20も30ももしくはそれ以上もあることになるので、低レベルなのに強くなるだろう。
「なるほどな。ある程度の疑問は解けた」
「私だって、そうよ。拳を振るうよりも剣と盾を選んだから、やっぱり筋肉を付けなくちゃいけなかったし、不必要な筋肉は必然的に落ちた。技術だってそう。でも、あんたは素手を鍛えて、今も素手を使っているから、それらが一切ない――」
「ああ。俺は不器用だからな――」
「――でもね、あんたは素手だから負けるのよ」
氷雨と雪は同時に近づく。
雪は盾を構えて、体当たりをするように。
氷雨も身を固めて、体当たりをするように。
お互いがぶつかるが、互角だった。
質量的に言えば武器を持っている雪が勝っているのだろうが、氷雨もその身軽さからのスピードでその差を埋める。
そこから動いたのは、氷雨が早かった。
相手の首を取る。
氷雨は首を前方に押した。そのまま左太ももで、相手の右内ももを跳ね上げ――
「だから通じないってば……」
雪は呆れるような声とともに、いつの間にか逆手に持っていた剣が氷雨の首を後ろから刈り取るように存在していた。
首の後ろ側に冷たい鉄の感触によって、氷雨は、『驟雨変形内股』を止めた。
それと同時に、雪は剣を下ろし、氷雨はまた距離を開けた。
「ふう。あんたがこれまでどんな戦いをしてきたのか、よく分かったわ。おそらく、懐に入ってからの大技といったところでしょうね」
氷雨は頷かない。
唇を血が出るまで噛むだけだ。
「あんたの戦いぶりは幾らかは聞いた。コミュニティのリーダーを潰したのも凄いと思うし、ミノタウロスを一人で屠った、というのも凄いと思う。でもね、どちらも弱いわよ。コミュニティのリーダーは大きな武器で大雑把らしいし、ミノタウロスだって武器を持っているから強いのよ。素手のミノタウロスなんて、私でも斃せるわ」
雪は現実を知らしめるためにわざと氷雨へと厳しい口調で喋る。
氷雨は雪に負けていても、大きなダメージなどほぼ無い。
剣は寸止め。
蹴りは鋭いが、重たくは無い。
優しいからだ。
彼女は優しいから、現実を教えてくれる。
弱いという現実を。
氷雨はそれを身で知りながらも、立ち上がった。
「だからと言って、姉ちゃん、俺はあいつとの戦いを止めるつもりは無いぜ?」
わざと挑発するように、氷雨は言った。
「あんたはっ! 昇君は私と同じ武器を使うのよ、それでも……」
「それでも、だ。姉ちゃんも知っているはずだ。もし俺を止めたいのなら――殺して止めろ」
次の瞬間、氷雨は雪に近づいた。
雪が先に振るった剣は避けるが、膝による攻撃は盾によって阻まれる。
直後、剣の柄が氷雨の意識を摘み取った。