第四話 アーク
雪は足早に『アーク』へと向かった。
大きな建物の前だ。煉瓦を積み上げて作ったそこは強固になっており、まるで一種の監獄のような、それでいて汚れ一つなく聖域のような、それら二つが混合する不思議な場所であった。
『アーク』とは、この町で最も大きいコミュニティである。その権力は大きく、町の役場にも『アーク』に所属する者がちらほらいるぐらいだ。
雪はそんな場所を前にすると、すぐに正門に向かい、中へと入った。
中の前には剣を持った、青い服の者がいた。
警備員である。
それに雪は盾と剣を渡した。
防犯のためだ。
それに彼女は、重い鎧をも脱いで渡して、軽い布の服になった。
警備員も鎧を渡されたときは困り顔をしていたが、「防犯のためよ」と雪が甘く囁くと、簡単に警備員は受け取った。
「ようこそ! アーク本部へお越しくださいました! 今日はどのような用事でいらっしゃいましたのでしょうか?」
中は小綺麗な作りになっており、広くなっているホールの玄関口には赤いブレザーとプリーツスカートをはいた受付嬢らしき人が立っていた。
嫌味のない大人の女性であった。
「――ハルさん、帰ってきているわよね?」
雪はそんな女性へ、半ば睨みながら言った。
「失礼ですが、お名前とご所属はどちらでしょうか?」
「チャムのアンタレスに所属している――南雲雪よ」
チャムとは、雪が所属しているコミュニティだ。
「アポイントメントは取っていますでしょうか?」
どうやらこの中にハルはいるらしい。
だが、簡単には会えないらしい。
それもそうだろう。
ハルは、『アーク』のトップだ。
それにゲームプレイヤーの中でも、“特別な存在”でもある。
「取っていないわ」
「そうですか……では、申し訳ございませんが、事前にハル様とアポイントメントを取ってから、こちらにお越しくださいますでしょうか?」
「残念ながら待てないわよ」
「でも、決まりとなっていますので……」
受付嬢は、困り顔であった。
雪も苦い顔をしていた。
「そう。なら、ハルさんに今すぐ伝えてもらえる。南雲氷雨の血縁の者が現れた、って」
それは雪にとって、ある種の提案だった。
「申し訳ございません。意味がよく理解できないのですが……」
「それぐらい伝えるなら、いいでしょ?」
「と言われましても……」
「ふーん。別に私は武力行使に出てもいいのよ?」
「あなたが……ですか?」
微かに、受付嬢は笑った。
雪が、武力行使になど出られないと思ったのだ。
それも当然だった。
雪は何も持っていなかったのだから。
それに加え、このホールには剣や槍などを持った兵士らしき者が何人かいる。馬鹿な真似をすれば、すぐに切り捨てられるだろう。
そんな場所で、一般人なら、武力行使になど出れるわけがない。
冒険者でも、なかなか手を出そうとは思わないだろう。
だが――
「へえ、そう――」
雪は別だった。
剣など無くても、武器など無くても、身体に“動き”が染み付いている。
雪は意志と合わせて、ぬっ、と体勢が沈むように受付嬢へと近づく。
右肩で受付嬢の首を取る。
雪は相手の身体を廻し、首へと右腕を回した。
相手の首を絞めるように、細い腕で極めた。
裸絞めであった。
スリーパーホールドであった。
このホールにいた兵士は、電光石火の如き雪の動きに誰も反応できなかった。
そして雪は、口元を少しだけ歪めた。
声を高らかにして、言った。
「――伝えなさい。ハルさんに、今すぐ。氷雨の姉が来たって。言えないなら、この子を殺すわよ?」
気温が、少しだけ低くなった。
兵士たちは雪のような細い女の力だと、絞め技は難しいだろうと判断し、足を一歩進めた。
「うっ――」
手足をばたばたと動かす受付嬢の動きが、少しだけ止まり、息苦しそうな声を出した。
「いいの? この子が死んじゃって?」
頚動脈洞を寸分の狂いなく、正確に圧迫できる雪は、人質の抵抗など関係がなかった。
それに絞めは、場所さえ合っていれば、力もそれほど必要ない。
武術に成通している、雪ならではの方法だった。
「嫌なら――さっさと動きなさい。時間を決めようかしら? そうね。私は気が短いから、十秒よ」
雪はホールの真ん中にあるソファーへと移動し、受付嬢の首に手を回しながら座った。
もう受付嬢は雪に抵抗していなかった。
命が、彼女に握られているのが分かったのだ。
だから受付嬢も、兵士も、そして何か用があってここに来た人も、全ての者の顔が青白く下を俯いた。
そして、雪がゆっくりと、時を数え始める。
誰もが、徐々に分かった。
人質を持っている者は、冷酷な“鬼”だと。
「五、あ、そうそう。抵抗なんて、しないことね――」
雪は笑いながら、後ろを向く。
そこには槍を構えていた兵士がいた。
兵士は、すぐに顔を青白く染める。
「この子が死ぬだけなら、まだマシなほうと思いなさい?」
命、を握られているのが、受付嬢だけではないと他の者が分かった瞬間だった。
「私、これでも気は長くないの。それに、最近は色々とあってね、ストレスが溜まってるの。関係のない人間なら、殺してもいい、って気分なの。もちろん私は殺しなどあまりしないけど、状況によっては、大虐殺というのも一興かも知れないわね?」
雪が囁くように言うと、全ての者達が身を、ぶるっ、と震わした。
「あ、あの……私が行きます……」
そして恐る恐る手を上げたのは、一人の男であった。
「早くしてね」
雪は満面の笑みで、その男に告げた。
男は逃げるように、その場から立ち去った。
雪と受付嬢や兵士たちはその男が帰ってくるまで、微動だにしなかった。
そして、数分後、ハルへと聞きに行った男が帰ってきた。
「あの……ハル様から、来てもいい、との連絡が聞けました」
恐る恐る男は声を出す。
「あらそう。それは――良かったわ」
雪は優しく首に手を回していた女性を離した。
女性は首が苦しかったのか、喉を押さえて咳き込んだ。
すると、兵士たちが受付嬢とハルへと聞きに行った男の前に立ち、円の体形を組んだ。
このフロアにいたものは、固唾を飲んで見守る。
「へえ、私とするの?」
雪は自分の周りを取り囲むように槍を構える兵士たちを、誘うように眺めた。
「ハル様は通していいと仰ったらしいが、得体の知れないお前を、我らの“希望”であるハル様の元へ行かせるわけにはいけない。――投降しろ」
「あっそ――」
雪は興味が無さそうだった。
それも、一流の冒険者である雪には仕方がないのだろう。
彼女が『力量読み』を使うと、取り囲む兵士のレベルは僅か20と少し。一般人と比べると高いが、40を既に超えている雪と比べると、雑魚にも等しい。
武器の差は大きいが、そんなもの、雪には関係が無い。
目の前の敵は――獣ではないのだから。
雪は、一歩、兵士の一人へと近づいた。
その兵士は、ハルへと雪の言付けを伝えた者の前にいた。
つまり、ハルへと会うには、一番の近道であった。
「それ以上動くと、斬るぞ!」
兵士が槍を構え、大声で忠告した。
「斬りたければ、斬ればいいじゃない。所詮、あなたでは力不足よ――」
雪は、足を伸ばした。
全ての兵士の槍が、雪へ伸びる。
一枚の葉が落ちるように、雪は揺らめく。
一本の槍を拭い、一人の兵士ので守られた額へ、人差し指を合わせる。
「貴方、幸運ね。この世界でこれを出来るのは、おそらく私だけよ?」
雪は相手の耳へ口を近づけ、そっと囁いた。
それと同時に、右足を相手の左足へと掛ける。
鎧を着ていて、武器も持っていて、腕が伸びきっていて、体重が完全に前へと乗っている状態の敵は、額を軽く押され、足を弱い力で払われて、重心を後ろへと崩すと、自然に相手は背中からゆっくりと落ちた。
技名は、『驟雨変形落葉』
まるで葉が宙を漂うような動きを、掛けられた相手がするために、このような技が付けられた。
『驟雨』、『驟雨変形内股』との違いは、力づくでは無いこと。
抵抗している敵を無理やり地面に当てるのではなく、相手の身体が自然に落ちることから、他の『驟雨』とは天と地ほどの難易度の差だった。
「えっ――」
背中を地面に当て、兵士は、かしゃん、と音を立てた。
何故天井を見ているのか分からない兵士は、呆気無く口を開けた。
『驟雨変形落葉』は、難しいが、相手にダメージは無い。
男は背中から落ちたが、地面との接点部が少しだけ痛いだけで戦うには十分の体であった。
「道を開けてくれてありがと――」
だが、雪は倒れた相手の横を通り、ハルの伝言を聞かせてくれた男へと近づいた。
「さ、行きましょうか?」
雪が言った。
「は、はい」
男は恐る恐る、怪しげな動きをした雪へと返事をする。
雪に倒された兵士は、まだ戦えただろう。
しかしながら、意味の分からない業を使った雪が恐ろしくなり、もう一度雪と敵対する気にはならなかった。
他の兵士たちも、ホールにいた者も、雪が隣に立った男でさえ、まるで雪を妖術師を見るかのような目で見つめる。
ハルの元へ行く彼女を、静かに見守った。
例えこの世界にスキルがあろうと、雪の動きは誰一人理解できないのであった。
◆◆◆
「ハル様、失礼します。件の彼女を連れてきました」
男はとある扉をノックしてから、声をかけた。
「いいよ。入りなよ」
それは少し幼い声であった。
男はその返事が聞けると、部屋の中へと入った。
中には、一人の者がいる。
白いローブを着て、六法全書のような太い本を懐に抱えた背の小さい者だ。
ハル、だと雪はすぐに分かった。
もう一人、ハルの隣に男がいたが、そちらは視界には入らなかった。
「ハル様、彼女が、南雲雪です」
「そう。ありがと。帰っていいよ」
ハルはあっけらかんと言った。
「わかりました」
男はハルの言葉を了承し、素直に部屋から出ていった。
すると。ハルは隣に立っている兵士風の腰に剣をつけた男にも振り返る。
雪はその者のレベルを見たが、48とかなり高かった。
「ねえ、ゲント君、君も出ていっていいよ。僕はこの人と一体一で話したいから」
「し、しかし、ハル様がこの部屋に一人ですと……」
男はあくまで、ハルの身を案じているようであった。
訳の分からぬ賊が一人、部屋に入ったとでも思っているのだろう。
「ねえ、僕と君、どっちが強いと思う?」
「……分かりました」
兵士風の男は、渋々ながら頷き、部屋から出ていった。
「初めまして。受付の方があんまりにも融通がきかないから、今日はこんな形を取らせてもらったわ」
二人きりになると、雪は挨拶をした。
「……流石、氷雨君の姉、と言うべきかな?」
「あら、氷雨も強引だったの?」
「強引……と言うべきか……何というか……」
ハルは氷雨について、口を開けにくいようだ。
それに雪は微かに微笑んだ。
「まあ、言い難いのも分かるわよ。あいつは頭がそこそこに回るのに、どうしてか、戦うことばかり選択するみたいだから。今回のこれもあいつだったら、おそらく、真正面から突入するだろうし――」
「だろうね――」
「まあ、そんな雑談はいいじゃない。ねえ、私に氷雨の場所を教えてよ?」
雪が一歩、ハルへと近づいた。
「いいよ」
「へえ、アークのリーダーであるハルさんは、話が分かる人で良かったわ」
雪は胸を撫で下ろしたが、ハルは睨むように言った。
「――ただ、ね、僕には君が本当に氷雨君の姉かどうかが分からないんだ。もし嘘だったら、僕は氷雨君に申し訳が立たない。例えば君が氷雨君の命を狙っているとかかな? それはそれで彼は喜ぶだろうけど……。だからね、君が姉という証拠を見せてほしんだ」
雪は、そうね、と壁に向かって歩いた。
それから数秒後、アークの建物に――轟音が鳴り響いた。
◆◆◆
「ハル様、本当にあの南雲雪をそのまま帰しても良かったのですか? 捕まえることもできたのですよ?」
そう忠告したのは、先ほどハルの部屋に居て、出て行くようハルから言われた男だった。
どうやら、ハルの護衛らしい。
「いいんだよ」
「何故です? 彼女は、我々の希望であるあなた様の障害になる危険性もあるのですよ?」
男は訝しむように言う。
どうやら雪に対してあまりいい印象が無いらしい。
それもそうだ。
突如として侵入し、瞬く間にハルの部屋へと辿り着いた不届き者だ。
他のものならまだしも――メシアであるハルに危害を加えるようなことがあれば、と考えると、胸が煮えくり返るような思いであった。
「それでも、いいんだよ。泣ける話だと思わないの? 共にゲームをして、生き別れになった姉弟が再び会おうとしている。それで弟の手がかりを見つけた姉は、情報を知っているところまで急いだ――」
「ですが、しかし――」
「それにね、君も見たでしょ。この壁――」
ハルはまるで愉快なおもちゃを見つけたように、“その壁”を見た。
そこは木で遮られた壁で、あった。
過去形だ。
既にその原型は無く、今では人の拳大ほどの穴が開いていた。
「それは、先ほどの音と関係がありますのでしょうか?」
男は、その音を雪がハルに襲いかかった音だと思ったが、どうやら違うらしい。
「うん。彼女が、開けたんだよ」
「何か武器を隠し持っていたのですか?」
「ううん――素手で、だよ」
「まさか、あの細腕でしょうか?」
雪は女性らしく、腕が枝のように細い。
そんな腕で、この木の壁に穴を開けたなど、男は考えられなかった。
「そうだよ。確か、『烈風』と言ったね。その業は――」
「話には聞きましたが、真に信じられません。」
男は下の階で、雪に巻き込まれた者達から話を聞いたが、ゴリラのような人物ならともかくとの考えであった。
「そうだろうね。しかもあれは“スキル”じゃないらしいよ」
「なんと!」
「普通はおかしいと思うだろうけど、彼女の弟は、素手でミノタウロスを殴り倒すような人だからね。その姉がこの程度、できないわけがないよ」
ハルは驚いている男をよそに、懐かしそうに目を細めた。
やっとの更新です。
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