第二十一話 エピローグ
氷雨はひとしきり叫び、満足すると、ミノタウロスに背を向けた。
そしてハルを見た。
お礼を言いたかったのだ。
元来、ミノタウロスと戦うべきはハルだった。
因縁や宿命などではなく、ハルがこのダンジョンを攻略する権利を買ったからだ。
氷雨はその戦う権利を譲ってくれたハルに対し、少なからず恩を感じていた。
「ハル、ミノタウロスと戦えてよかったよ」
そんな彼から出た言葉は、正直しかなかった。
「そう? それはよかった。満足した?」
ハルも照れくさそうに、はにかみながら氷雨へと答えた。
「した」
「でも、その様子じゃあ、次のダンジョン行きは、当分先になりそうだね」
氷雨は自分の傷ついた体をひとしきり見た。
全身に広がり、まるで鞭で叩かれたような薄いピンクの痣。折れ、肺を撫でるように突き刺す肋骨。ぐちゃぐちゃに砕け、治るかどうか見込みのない左肩。そして皮膚が避け、骨が見えるほど皮膚が剥がれた右の拳骨。
「――そのようだな」
彼は、顔をくしゃくしゃにした。
それは嫌そうな顔だった。
おそらく自分の体の状況を見て、当分戦えないことに気がついたのだろう。
氷雨の体は、もはや再起不能なまでに傷ついていた。
今でも気を抜けば、倒れそうな体である。
この状態の怪我なら、完治しなくてもおかしくはない。
「まあ、その怪我は回復薬を使えば、また同じように戦えると思うけど、それでも、その怪我は時間がかかるだろうね」
ハルは不安そうな顔をする氷雨に、そっとアドバイスをした。
「ああ――」
もう氷雨には、満足にハルへと言葉を返すことさえできなかった。
余裕が無いのだ。
体力は、気力は、思考力は、先の戦いですべて使い果たした。
今彼が起きているのは、まだ、ミノタウロスとの戦いの興奮が体に残っているからだ。
つまり、ほぼ、惰性であった。
と、そんな時、迷宮に異変があった。
轟音を奏でたのだ。
そこは、五人がこの部屋に入ったのと逆の方角にある壁だ。
そこは、煉瓦でできていた。
どれも同じような石だ。決して不規則ではではなく、拳大ほどのそれが隙間なくきれいに並べられているのだ。
そこが、音と共に崩れ落ちる。
奥があったのだ。
小部屋だった。
そこには、光もあった。
白く輝く、大輪の花が天井にあったのだ。
新しい小部屋が現れて、一番最初に走り出したのはハルだった。
そしてそれに続くが、ユウ、カイトだ。
クリスは氷雨に肩を貸しながら、三人が先に行った部屋に向かっていた。
「あった! あった! あった! やっと見つけた!!」
そこには少しの財宝と、一本の精巧な槍があった。
これがおそらく、このミノタウロスのダンジョンの攻略をした証拠となる宝なのだろう。
だが、ハルが反応したのは、手に持ったのは、その財宝たちとは違った。
――欠けた石板だった。
鈍く光り、存在を表している。
大きさは、小さかった。
ユウの手にも収まるほど小さかった。
それをハルは手に持ち、熟れた果実のような笑みを浮かべていた。
「ねえ、ハルにい、それなんなの?」
これまでのハルの姿と違うのに戸惑ったカイトは、思わず聞いてみた。
ハルは口の端を釣りあげながら――告げた。
「これはね、“僕たち”の希望だよ」
ここで、氷雨の意識が途切れた。
◆◆◆
氷雨が次目覚めたのは、それから三日後のことだった。
そこは宿のベッドの上だった。
氷雨は激痛に悩まされながらも、上体を起こす。
部屋を見渡した。
いつもの宿屋だ。
何ら変わりはなかった。
そうか、あの場所から帰ってきたのか、と氷雨は小さく呟いた。
それから彼は、自分の体を見た。
包帯だらけだった。右拳はもちろん包帯が厳重に巻かれていたし、左肩は動かせないように硬いもので固定され、頭にも巻かれ、腹にも巻かれていた。逆に重症では無いところ存在しないぐらい傷ついていた。
彼はまだ起きたばかりなので、意識はぼんやりとしていたが、記憶だけはしっかりと焼き付いていた。
やはりいのは、やはりミノタウロスとの戦いだ。
氷雨はあの時の感覚だけは、全て覚えている。
残っている。
ミノタウロスの立派な鋭い角。人ではありえない、巨大な肉体。部屋に充満していた獣臭。迸る殺気。拳に響いた大木のような感触。まるで鈍器で殴られたような痛み。そして、初めて感じた、勝った、という底から湧きあがる達成感。
どれも、氷雨が満足するには十分だった。
いや、それ以上の“モノ”を手に入れられた。
それが――強さだ。
確かに、この世界独特のシステムであるレベルアップはしていない。“名”も手に入れていない。新たな技も開眼していない。
だが、確かに、二度目の『烈風』をミノタウロスに行い、彼が倒れた時、氷雨は確信していた。
あの時、自分の皮は一枚剥けた、と。
強くなった、と。
彼は右の手首にある、腕時計のようなダンジョン通行証を見つめた。
この思いは、きっとこの機械などでは測れない、とも氷雨は考えていた。
あの時の達成感は、彼だけのモノだった。
ミノタウロスに負け、苦渋を飲み、再度戦い、負けそうになり、諦めかけ、挫け、それでも戦おうと、勝とうと、自分の弱さに打ち勝ったあの“本当の強さ”だけは。
レベルアップなどという、仮初めの強さでは絶対に得られない“モノ”であった。
「やる気が起きねえ――」
だが、そのせいか、あの壁を超えた感覚を味わったからか、今の氷雨には欲望が全くなかった。
あのミノタウロスと戦う前に感じていた、クリスを抱きたいという欲望もない。
数日前まで感じていた、誰かと戦いという欲望もない。
すっからかんだった。
簡単にいえば、今の氷雨は空っぽなのだ。
あのミノタウロスとの戦いで全てを使いきった。
それは性欲という、生物の本能でさえも。
だから、現在の彼の顔には、生気が宿っていない。
またその内、あの衝動は、この記憶が薄れた時に起こると氷雨は確信していたが、それまではゆっくり休もうかな、とのんびり考えることができた。
「――おにいちゃん、おきてるの!」
と、そんな時、ユウが扉を開け、大きな声を出した。
氷雨は彼女の高い声に、耳が痛くなった。
「おっ、アニキ、元気なのか!」
カイトもやってきた。
頭痛が酷くなった。
「ヒサメさん、体は大丈夫なんですか?」
それに続いてクリスも現れ、
「氷雨君、体は大丈夫そうだね」
ハルも部屋に入ってきた。
話を聞くに、この四人は外へ買い出しに行っていたらしい。
「みてみて! おにいちゃん! これね、かったんだよ!!」
そんな話をハルとクリスからゆっくりと聞いていると、待ちきれなくなったのか、興奮したユウが氷雨が上体を起こしたベッドへと駆け寄った。
その手に持っていたのは、何やら四角い物だった。
「何なんだ、それ?」
気になった氷雨は聞く。
「せっけんだよ、せっけん!!」
「石鹸?」
「うん! わたしはれでぃーだからね! ハルにいに、からだのよごれをおとすせっけんをかってもらったんだ!」
ユウは花が満開になったような笑顔で、氷雨へと楽しそうに語った。
嬉しい、のだろう。
ユウは表情を隠すことも知らなければ、気持ちを奥に秘めることもしない。
言うなれば、ただ、素直なだけだ。
そんな彼女を見て、氷雨が言ったのは、
「よかったな」
の一言だけであった。
そんな彼の言葉を聞いて、ユウもまた、えへへ、とほおを緩ませるのであった。
だが、ユウは急に顔を引き締めて、すぐさま隣のベッドに腰かけていたクリスへと近づいた。
「はい、これ! おねえちゃんに!」
ユウは照れ臭そうに、クリスへと石鹸を差し出した。
「えっ、私に……ですか?」
「うん!」
ユウは、笑顔で頷くだけだ。
クリスは未だ状況が飲み込めないのか、あたふたとしていた。
カイトはそんなクリスを見かねてか、助け船を出した。
「クリスねえ、受け取ってくれよ」
「何故、ですか?」
「実は、それは、ユウが捕まった原因なんだ――」
彼はそこから、ディアブロにユウが捕まった本当の始まりを告げた。
もちろん、全てであった。
前回、ユウがディアブロに捕まったことを言った時には、簡単に、分かりやすくしか伝えてなかった。
しかし今は、それを詳しく話した。
「……そうなんですか」
クリスはそんなカイトの話を聞くと、目から涙を零していた。
「それは……嬉しいですね……」
彼女の顔は複雑だった。
嬉しいのか、悲しいのか、よく分らなかった。
自分でもわからないのだろう。
この石鹸を貰えたことは嬉しい。自分を気にかけてくれたことも。思えば、氷雨に買われる前の自分は、ずっと一人だった。知り合いはいた。ワルツもいた。だが、全員が敵。心を許せるような相手もいなかった。それを考えれば、自分を気遣ってくれる人がいるこの場所は天国なのだろう。
だが、自分のためにたった二人で外に出るという、無理をした二人のことを考えると、クリスは悲しくなった。
「――ですが、二人だけで外に出たという、あの時の判断は間違っていましたね」
「く、クリス……ねえ?」
「おねえ……ちゃん……?」
だからクリスは石鹸をもらったお礼として、そして自分の仲間として、二人を説教することにした。
今のクリスに、奴隷だった時の感覚は、もうなかった。
それよりも、二人の姉のような感覚のほうが強かった。
「実はね、あの石鹸は、ミノタウロスの迷宮をクリアしたおかげで、僕たちの懐は凄く潤ったから買ったんだ」
ハルは説教をするクリスを視界から外し、氷雨のベッドへと座った。
「あの宝のおかげか?」
「うん。あれらを殆ど売ったお金だよ。どうせ氷雨君は、道具なんていらないでしょ?」
分り切った答えを、ハルは聞いた。
それに氷雨は微かに笑うだけだ。
否定も反論もしない。
きっと、これは肯定なのだろう、とハルは思った。
「そしてこれは、今回のお礼」
ハルはそれから、小さな巾着を氷雨へと渡す。
手からそれを受け取ると、多くの金属が擦り合わさるような音が聞こえた。
中に入っているのは、お金、なのだろう。
「それはダンジョンの賃料を抜いてあまったお金だよ。僕は何もしてないから、それは氷雨君にあげるよ」
「ありがとよ――」
氷雨も当分戦えないことを分かっているので、それまでの糧として、遠慮なくそれを受け取った。
「いいよ。それよりも、僕は貴重な物を手に入れられたし――」
ハルは微笑みながら、天井を見上げた。
氷雨はその発言を気になったが、聞きはしなかった。
誰にだって聞かれたくないことはある。
氷雨だって、それは持っている。
だから話したくないかもしれないので、聞く必要は無いと、自分の知的好奇心を満たすだけの質問などしなくていいと思った。
「まあ、そんなことは置いとくとして、やっと氷雨君が起きたね」
「どういう意味だ?」
「いや、僕もそろそろ――『ヴァイスの町』に戻ろうかなと思ってね」
ハルは、おもむろに言った。
「えっ、かえっちゃうの?」
それに一番反応したのは、やんわりとクリスに怒られているユウだった。
「うん。僕にもあの町にね、大切な仲間がいるんだよ」
「また……会える?」
ユウはすぐさま目に涙をためた。
「ヴァイスに来ればね。と言うよりも、僕のコミュニティ――“アーク”に来ればね」
「わかった! いつかいくね!」
「うん、待ってるよ」
ハルはユウの頭を撫でてから、部屋を出ようとする。
その前にカイトが別れを言う。
「ハルにい、じゃあ、またね」
「うん、また――」
クリスもカイトと同じように、別れを告げた。
「ハルさん、また、会いましょう」
「いいよ、このパーティーは僕にとっても居心地がいいし――」
最後は、氷雨だった。
最後まで氷雨は彼らしかった。
「次は戦おうな――」
「それだけは嫌だね。僕は断固拒否するよ」
ハルは部屋から出る直前、本当に嫌そうな顔をした。
ハルも、氷雨と戦うのだけは避けたいらしい。
その言葉を聞いて、彼は少しだけ寂しそうなのであった。
「いっちゃったね……」
バタン、とゆっくり閉まった扉を見たユウが、悲しげな声を出す。
「きっと、また、会えますよ」
クリスはそんなユウに、優しく励ましを送る。
「そうだぜ。ユウ。きっといつか、ヴァイスにも行けるさ」
カイトはハルと再び会える未来を描いていた。
氷雨はハルを見送ると、部屋に備え付けられた窓から空を見上げた。
青かった。
海のように深く、どこまでも広く、遙かに高い。
雲は、あった。
一つだけ小さいのが、空に浮かんでいる。
そんな空を氷雨は見詰めながら、ゆっくりと雲を流れるのを感じ、時間が過ぎていくのを心に記憶させているのであった。
◆◆◆
ハルは山道を歩いていた。
道は、あった。
一応そこだけは周りに木々ばかりが溢れるところとは違い、砂地が広がっている。
おそらく、馬車が通るために整備されたのだろう。
ハルはそこから、小さくなった『エータルの町』を振り返った。
その手には、“例の石版”が光り輝いていた。
「あーあ、僕も――救世主じゃなければ、“これ”で同郷を救うという野望がなければ、彼のパーティーに入れたのに……」
その眼には、辛く厳しい未来だけが視えているのだろう。
思わずハルは、目を細めた。
だが、それを諦めるつもりは毛頭ないのだろう。
むしろ、決意に満ち溢れていた。
そんなハルは、『エータルの町』から目をそらし、しっかりと前を見る。
ハルが見つめているのは、『ヴァイスの町』なのだろうか。
それとも、己の宿命なのだろうか。
もしくは、異常を感じた彼の存在か。
それは――ハルも分らなかった。
――彼は少しだけ成長した。
旅の道中、山を越えたのだ。
旅はまだまだ、終わりは見えていなかった。
彼の現在の装備、穴の開いた灰色のマント。持ち物、奪ったドラゴンスレイヤー。
所持金、114900ギル。
力量17。
獲得技、『力量読み』。
仲間、カイト。ユウ。クリス。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
エピローグは諸事情から遅れました。
この話の内容としますと、第三章はこれで終わりです。
このストーリーの本筋は水面下では進行していますが、まだ、匂わせる程度でしたね。
では、今後とも、この作品をよろしくお願いします。
ちなみに次章の予告ですが、第四章では、遂に“彼女”が登場します。