第五話 リアルとバーチャル
夢から覚める。
氷雨の現在の感覚だった。少し前までの程よい殺気と適度な戦闘の後だったので目など開けず、ずっと、ずっと、その感覚に包まれていたかった。
「おいおい、これ……なんだよ……っ!」
「お、俺、ログアウト……したよな? おかしいだろ、これっ!?」
「お前ら、何者なんだよっ!? 管理者か?」
だが、そんなわけにはいかない。
傍らから聞こえるのはしょぼくれた祖父の声ではなく、凛とした姉の声でもなかったからだ。声質は上がり、次々と湧き出る情けない言葉。
(チッ、黙れよ)
氷雨はまだ目を開けず、言葉の主をそう思った。“今”の自分がどんな体勢でどんな場所にいるかなど、些細な事だと考えていたからで、悲鳴を雑音のコーラスだと判断したのである。
彼は興が削がれたような煩わしい気持ちで、視界に光を受け入れた。
(……あれ?)
彼は首をかしげた。
そこにはざっと見て、五十人は存在するだろう。
氷雨を中心とした手を縄で縛られた数十人の人間に、剣を持って囲う数人の戦士。戦士の眼は鋭くギラついており、常人の目じゃない。幾戦の死闘を渡ってきた“武芸者”の、眼であった。
その様子を見て人一倍察しの悪い氷雨は、欠伸を一つ。
彼の思考は表面的には機能しているが、実際は寝ぼけが半分ほど混じっており殆ど働いていない。阿鼻叫喚を響かせるこの領域で、ただ一人彼だけが慟哭せずに、楽観していたのだ。
――慌ててるなあ、と。
(ふう、腹減ったな)
と、お腹がぐーと鳴った時、氷雨はとある違和感に引っかかった。
お腹が空いたのだ。否、それだけではない。
もし、ゲームの世界ならここまでお腹の動きを再現率が低いはずなのに、今は腹の全てが“完璧”に動く。腹筋や背筋も、だ。ゲームの世界では無かった筈の稼動率である。それは、現実と体全ての動きがなんの遜色もなかった事を意味する。
「聞いてんのかよ? 俺達のロープを解いてくれよ!」
「そうだそうだ。ここはどこなんだよ?」
氷雨同様、縄で後ろに固定された人間が、周りの剣士達に声をかけた。その剣士以外の誰もが、初心者用の装備である同じ型の布の服である。氷雨だけはその布の服の上に、安っぽいマントを一枚着ていたが、それはお世辞にも防具とはいえない薄いものだ。
初心者の服は同じで、その上から防具や武器を身に付けたり、お金に余裕が出来たら布の服もより高価な物に買い替えられるというシステムが“ダンジョン・セルボニス”というゲームだ。
その説明を氷雨は覚えていた。
とすると、ここはゲームの世界で、周りの人間は自分と同じゲームの世界の人間――つまり、ゲームプレイヤーと考えた。
しかし、氷雨はこの推測に自信を持って答えられない。なぜなら、ここがゲームの世界ならば、この腹の動きが感じられないからである。
――ゆえに、現実と仮想現実という二つの概念が、氷雨の中で激突した。どちらとしてもおかしくはない。どちらとしても納得は出来る。
でも、どちらと納得をしても、違和感だけが残った。
現実ならば、自分がいるのは家のはずだ。今頃、実の姉と実の祖父と一緒に住んでいる家の畳の上にいる。こんな丸裸の土の上で座っているなど有り得ない。
ならば仮想現実とすると、自分はあの危険な怪物が多く出現する
“北の森”にいるだろう。怪物ではなく、人が何十人もいるなど考えられない。
それにHPの値も視界に無かったし、メニュー画面も現れなかった。
氷雨は少ない脳を絞って思い出す。
自分は確かにログアウトした、と。その時、ログアウト以外のボタンは触らなかった、と
他に情報はないかと探すが見つからない。手詰まりであった。
そんな風に、無言で思考を巡らせていると、――突如、声が鳴った。
「皆さん、聞こえますか? 君達は我々の“奴隷”となったのです!」
ゲームプレイヤーであろう人の、質問に答えるかのように、遠くの壇上に立っていた煌びやかな貴族風の豪華な衣装の男が高らかに言う。
残酷な内容を、あっさりと。
これに全員が声を失った。
皆が、誰もが、理解したくないのだ。
その単語の意味も分かる。その言葉も通じてる。ゆっくりと、頭の中で何度も何度も何度も確認をする。
そして、ぐっと――飲み込んだ。
「ふざけんな!」
「私達を家に帰して!」
「開発者はどこにいるんだ!!」
ここにいる原因は不明だが、“弱者”に落ちた、と。それはゲームプレイヤー達は分かっていた。
しかし、それぞれが無駄だと言わず、口々に反論した。
――納得できないのだ。
奴隷という身分に。もし、勇者や英雄としてなら、もっと高貴な立場なら、こんなに反抗はしていなかったかもしれない。
「――黙らせなさい」
けれども、その行動が逆効果だった。
“上”の人間が、“下々”の人間の戯言などに付き合う暇は、どこの世界でも無いものだ。“上”の人間は、常に自分の事を優先させるからである。
「はい、カナヒト様……」
剣士の一人は、貴族風の男の命令に従い、腰にあった剣を――抜いた。
意味は子供でも分かるはずだ。
沈黙を要求するのに、最も簡単でこの上なく早い方法は恐怖で相手を縛る。これが最も早く、ある意味単純な方法だ。
「あ……あ……」
それは誰かの嘆きだった。
剣士は別に誰でもよかったのであろう。
男でも、女でも、老人でも、中年でも、若者でも、子供でも、脅しつけるのは誰でも。
そして――剣を振るった。
それは一番近くに居た男の太ももに当たり、線が走る。血は勢いよく飛び出た。次に出たのは斬られた男の声にならない悲痛。彼が悲鳴を上げなかったのは、今度声を出すと殺されるととっさに思ったのだ。
男の、いい判断であった。
これに、誰もが声を出さず、冷静さを失った。
ゲームの仕様では怪我などせず、怪物の攻撃でも痛み一つ感じない。ただ、HPが減るだけ。
だが、今の状況は違う。
斬られたら傷を負うと、斬られたら痛いという、人間として当たり前の感情が蘇るのだ。
だが、誰もそれを口には出せなかった。
恐怖という針金が、全身を強く縛っているという感覚が、心に染み込んだからだ。獅子が鞭に怯え芸をするように、溺れた人が水を怯えるように、殺されるかもしれないという“最悪”の予測が、脳裏に染みついた。
それが――悲しい現状だった。
「ふふっ、何度見てもこれは飽きませんね。素晴らしいです」
貴族風の男は円になっている自分の静かな“所有物”を見て、嗤う。
これ等を生かすも殺すも自分の自由という愉悦に浸り、また多くの財が手に入ると嗤ったのだ。
やはり、“上”はいいとも男は思った。
一方的に、下から搾取し続ける権利があるからだ。
同時に、“下”にはなりたくないとも思う。
どんな権利も無いからだ。生かさず殺さず働き続け、使い捨てのように死んでいく。ただ、それだけの存在にはなりたくなかった。
「あーはっはっはっは!!!!!!」
男はまた、嗤う。
プレイヤーの中には反乱を起こしたいと思う者も居たが、手が縛られたままでは、無駄死にになるしかない。
ぐっ、と唇を噛み締め、辛い未来に、堪えるしかないのだ。
そう達観していた。諦めた、と云ってもよかった。
(……)
――けれどたった一人――例外がここにいた。
多数の怖さに震える人間が存在する中。仮想現実じゃない現実に、より喜び、より愉悦し、より感動し、震えていた人間がいたのだ。
萎えた感情も蘇り、下を向いた座った状態で、
最初に、ゴキッ、誰にも聞こえぬよう、手首の間接を抜くように無理やり外した。関節が外れて縄が緩むと、両手を拘束から外した。
次に、ゴキッ、と誰にも聞こえぬよう今度は関節を無理矢理入れた。手のひらを地面につき、全体重を片手にかけるような感じで、一個ずつ両手の関節を入れたのだ。
そんな彼には、現実という心地よい激痛が走り、貌に笑みが宿った。
最後に、ポキッ、と誰にも聞こえぬよう座ったままで、全身の骨を満遍なく動かした。
首も。
肩も。
腹も。
足も。
全ての動きは、正常であった。どれも十全に動かせる。
これで、彼はいつでも“衝動”を解き放つことができる。
――戦闘という、衝動を。
自分の状況の見当などさっぱりであったが、一つ分かるのはあの貴族や剣士は悪者なので、殴ってもいいとの事。
初めての人相手という“戦い”が、彼を怪物相手の時よりも興奮させたのだ。
――さあ、と。