第十九話 悪鬼VS牛人Ⅱ
「かつの?」
戦いを見守っていた四人。
その中の一人であるユウが、ポツリと呟いた。
その問いには、誰も答えてくれない。
カイトも、クリスも、ハルも、誰も答えられなかった。
今の目の前の氷雨の劣勢を見て、そう易々と、勝てる、なんて口には出せなかったのだ。
「かてるの?」
ユウはもう一度、皆へと聞く。
だが、又しても誰も答えられない。
戦力は歴然。
現在の状況も、素人が見て一目で分かるだろう。
もちろん、氷雨が負けている。
技巧が足りないではなく、相性が悪い、なんてことでもなく、明らかに地力の差が低かった。特に筋肉、体格と言う時点で負けている。体重がほんの十キロ変わるだけで、拳の威力はまるで違う。そしてそれだけではなく、攻撃の重さが全て違う。
何故、ボクシングや柔道に階級制があるのか?
その言葉の意味を、氷雨は感じ取っているだろう。そしてこの場にいる四人も、そんな知識は持っていなくても感じ取っているだろう。
「もしかして、おにいちゃんが……まけるの?」
ユウは再三にして、皆に聞く。
信じられなかったのだ。
あのベルだろうと、クリスを取り返しに来た兵士が現れたときだろうと、自分が誘拐されたときだろうと、氷雨は一度たりとも負けたことが無かった。負けそうになったことはあっても、ここまでボロボロになったこともない。あくまで、接戦な状況での劣勢だ。
だが、今は違う、とユウにも分かる。
ミノタウロスの実力があくまで上で、氷雨の実力が遥かに下だ。
人と、獣の差が、そこには見える。
この世界で冒険者が武器を持つ最大の理由が、目の前の戦闘にはあった。
無論、その差をどうにかして素手で埋めようとしたものもいる。
しかし、彼らは気づいたのだ。
そんな地道な努力をして体に磨きをかけるより、拳に鉄のグローブを嵌めたほうが早い。もっと言えば、鋭い刃を持つ剣を持ったほうが早い、と。
それらは自然の摂理だろう。
やはり貧弱な人が野生で育った獣と戦うには、やはり大なり小なり武器は必要不可欠なのだ。己の五体だけでは、鋭い牙や鋼のような肉体を持つ彼らには敵わない。敵うはずがないのである。
「……分かんないよ。氷雨君だし……万に一つだけど、ここから勝つ可能性があるかもしれない」
「ほんとっ!」
ハルの言葉に、ユウは驚愕した。
「……うん。可能性は低いけどね」
ハルの言葉には、力が無かった。
ただのその場しのぎなのだろう。
だが、それをユウは信じた。
単純だったのだ。それとも、幼さゆえの純粋さか。
「でも、アニキが勝つには、このままの状況では駄目だよね?」
カイトもユウと同じようにハルの言葉を信じていたが、何故か顎をさすっていた。
「それ、どういう意味かな?」
「だってアニキ、ミノタウロスにほぼボロ負けでしょ? 何一つ、攻撃が通じているような感じがしないんだ」
「へえ――」
ハルは感心するように、相槌を打った。
「このままじゃあ駄目だ。アニキは勝てない。勝てるはずが無い」
そんなハルの期待を含んだ眼差しに気づかず、カイトは真剣な目で氷雨の戦いを見ていた。
瞬き一つしない。
きっと一瞬の動向も見逃さないよう、気をつけているのだろう。
ハルはそんなカイトの様子を、静かに見守っていた。
◆◆◆
嗚呼、熱い。
ミノタウロスに微傷を与え、即座に距離を取った俺の体は燃える様に熱かった。
まるで内に秘める燃料が、次々に炉へと回されているようだ。
いや、実際そうなのだろう。
俺の中でミノタウロスと殴り合いながら、何かが無くなっているのが分かる。
体力だった。
しっかりと蓄えたそれが、確実に減っているのだ。
俺は体力が無くなっている事に危機を感じながらも、決して攻めることを止めなかった。
さらに避けを前提とした技では威力が足りないので、決死の大技だ。
一か八か。
デッドオアアライブか。
俺は自分の運に賭けることを決めて、覚悟を決めた。
ミノタウロスの頭には、攻めることしか無かったのだろう。俺が距離を取った時も、奴へと足を伸ばした今でも、こちらを八つ裂きにする気で、向かってくる。
その足は、遅い。
速くは、無かった。
速くできるのかもしれないが、しないだけなのかも知れない。
俺はそこまでしか分からなかったが、奴の動きはしっかりと見切れた。
予備動作が見える。
タメだった。
ミノタウロスは俺に近づき、いい距離を取ると、後ろにある右足に体重をかけたのだ。
おそらくあの蹄がある硬い足で、俺を蹴るのだろう。
ミノタウロスの蹴りの種類としては、単純な前蹴りしか見た事が無い。
今回も、それだろう。
ほら、来た。
太い足の瞬発力を発揮し、体重の乗った前蹴りが走っている俺の腹へと真っすぐ来た。
事前に攻撃が分かっていた俺に、それを避けることは容易かった。
右手でその蹴りを左へと逸らし、一歩で距離を詰める。
チャンスだった。
俺の千載一遇の好機だ。
大地を、しっかりと踏み締める。
俺はこれに、全身全霊を込めた。
蹴り、だった。
上段蹴りだった。
右足を全身の瞬発力によって跳ね上げ、脛をミノタウロスの首を狙う。
当たった。
弾けた。
ミノタウロスは俺の攻撃によって、初めて体勢を崩す。
それだけではない。
浮いた。
ミノタウロスの体は俺の蹴りの威力によって、唯一地面についていた足が空に浮き、地面へと倒れた。
低い音が、地面へと鳴り響いた。
やった、と俺は歓喜するが、それは早かった。
甘かったのだ。
ミノタウロスが俺の攻撃で倒れたのは、片足が浮いていて、バランスが不安定だったからだろう。
その通り、ミノタウロスはすぐに起き上がった。
それとも、見かけどおりタフだけなのか、ミノタウロスでは無い俺にそれは分からない。
どちらにしても、やはり、この程度の攻撃でも駄目なのだろう。
俺は舌打ちをした。
ミノタウロスはそれから、さっきの借りを返すように、俺へと反撃してきた。
右の拳、だ。
それが、ぬっ、と伸びる。
俺はそれを避けようとして、後ろへと身体を逃すが、足りなかった。
ミノタウロスの腕は身体のサイズと比例して、長かったのだ。
咄嗟に両手がそれを防ぐように前へと出たが、それごと、俺は後ろへ吹っ飛ばされた。
鈍痛が、腕を起点にして広がる。
裸の足は、焦げる様に地面を滑る。
だが、どちらも気にかけてなどいられない。
ミノタウロスの拳は、それだけでは終わらない。
今度は左だ。
それも、又もやテレフォンパンチだ。
今度も、避けられなかった。
膝が笑ってやがる。
俺もそのピンチに、思わず笑ってしまった。
両腕に、みしっ、と痛みが響いた。
足の裏が、まだ焦げた。
俺はそこまでのダメージを負ってから、やっと足が動くようになった。
急いで距離を取る。
そして、両手の具合を手を開いたり、閉じたりしながら確かめた。
痛む。
おそらく、骨にひびが入っているのだろう。
だが、耐えれば、戦えないほどではない。
麻痺させろ。
痛覚など、この戦いには不必要だ。
危険信号など、意地でも無くせ。
俺は手を閉じたり開いたりさせながら、必死に息を整える。
目線の先は、変わらずミノタウロス。
やはり、デカイ。
そんな巨体がやや駆け足で、こちらへと近付いてくる。
今度の攻撃は何だ?
テレフォンパンチか?
それとも、前蹴りか?
もしくは頭についた立派な角で、俺を串刺しにするのか?
どれでもいい。
受けて立ってやる。
俺の武器は、二つの腕は、半分壊れかけだ。
後何発持つか分からないが、きっと制限はあるだろう。
その前に斃すのだ。
俺は自分の状態を再確認し、後、どれだけ戦えるか計算をしてから、徐々にミノタウロスへと近付く。
不利なのは分かっている。だが、体がどうしても、言う事を聞かない。勝手に動く。俺の意思も半分は含まれているが、残りの半分は本能だ。
ミノタウロスは走りながら、俺が近づいてくるのを分かると、又しても後ろ脚に体重をかけた。
先ほどと同じだ。
あの前蹴りを放つための予備モーションと、何ら変わりが無い。
さっきはあれを躱すことができた。
今度も躱せるだろう。
もしかしてミノタウロスは先ほどあれが通じなかった事に、まだ、懲りてないのだろうか?
馬鹿なのか?
それとも、余裕の表れか?
俺の攻撃は通用しない。
この肉体の前には、綿と存在が同じだ。
そう思っているのか?
舐められた感じがして、胸の奥がチクリと痛んだが、これは俺にとって、いい話だ。
この隙に、相手へと勝てばいいのだ。
勝負に助言など無用だ。
そんなのは甘い戯言だ。
勝った方が、正義なのだ。
俺は即座に勝とうと、腰をずっしりと低く構えて、ミノタウロスの蹴りを待つ。
ミノタウロスの体重の乗せた右足が、床を離れる。
来た、と俺は思う。
すぐに右手で先ほどと同じように、と思うが――来なかった。
――右足はそこには無い。
風切り音が、別の場所で聞こえたのだ。
左だ。
まるで弧を描くように、ミノタウロスの右足は俺の頭を狙ってきたのだ。
クソ、そういうことか。
これは、上段蹴りだ。
先ほど俺がミノタウロスにやった、あの上段蹴りだ。
ミノタウロスは自分にこの攻撃が効いたのだから、俺にも効くだろうと思ったのだろう。
どうやらこいつは、馬鹿な獣では無いらしい。
むしろ狡猾な猛獣だ。
俺の技を遠慮なしに、使ってきた。
無論、俺も技を真似されてどうこう言うつもりはない。
しかしまだあいつの強さのレベルに届いていない状態で、あいつだけが強くなるとすれば――。
俺はギリギリでその攻撃を反応できたので、左肩を上げて、両足で奴の右足と逆方向に飛びながら、今できる最低限の回避をする。
だが、そこまでしても、ミノタウロスの太い足は、俺の肩を容赦なく叩く。
さっきの、両手で防いだ時以上の攻撃だ。
今度はひびでは無く、折れただろう。
左の肩だ。
鈍い音が、この部屋中に鳴り響いた。
俺は地面へと横になると、すぐさま起き上り、ミノタウロスへ勇猛果敢に突っ込んだ。
だが、又しても無駄だった。
俺がローキックをしようとすれば、それよりか上のリーチで、ミノタウロスがローキックをする。
俺がジャブをしようとすれば、それよりか上の重さで、ジャブをしてくる。
どれも必死に身体の縁を当たりながら避けるが、どれもダメージを喰らっていた。
一方で、俺の攻撃は無駄のように、空をからぶる。
俺はそれから殆どの技をミノタウロスにしても、奪われるのを悟ると、そっと距離を取る。
これ以上、奴に技を与えたく無かったのだ。
これ以上、奴を強くさせたく無かったのだ。
状況はさっきより、最悪になった。
ミノタウロスの戦闘センスは、俺よりか上のようだ。
俺が年月をかけて吸収した物を、見ただけで奪ってくる。
そして少しの振りだけで、その“コツ”を学ぶ。
まるで才能に満ち溢れた姉のようだ。
才能の無い俺は、それらを地道な反復練習で手に入れたというのに。
全く、嫌な限りだ。
俺にとっては憎いだけの存在だったが、ミノタウロスは嬉しそうに鼻を鳴らしていた。
そうだろう。
自分が強くなるのを感じるのは、きっと嬉しいのだろう。
しかも、技を覚えた最初の時期。何かを学んだ時で最初だけの、やればやるだけ成長する時期だ。俺も武術を始めた頃はそんな達成感に、身を震わせたものだ。すぐに習得できない技が出来て、壁が現れ、挫折しかけたが。
どうやらこの戦いで、ミノタウロスに勝っていた唯一の俺の長所も無くなるらしい。
悔しかったが、どうしようも無かった。
俺は膝を地面に付きながら、必死に肩で呼吸し、身体を休ませていた。
ミノタウロスは右腕を回しながら、こちらへと近付く。
今度は何をやってくるのだろうか?
ああ、そうか。
分かった。
まだ予備動作を隠す事の知らないミノタウロスが、右の拳を後ろへと引いたから、俺はその技を予測できた。
正拳突きだ。
その腕は、まっすぐこちらへと伸びて来るのだろう。
俺はその攻撃が来るよりも一歩速く立ち上がり、後ろへと飛ぶ。