第十八話 悪鬼VS牛人
「ここを一歩踏み出すと、ミノタウロスがいる部屋だよ」
ハルが気を引き締めてから、言う。
「やった、着いたぜ!」
「やった、やったー!」
カイトとユウはその発言に大きく喜んだ。
氷雨たちは、どうやら奴が――ミノタウロスがいる部屋まで辿り着いたようだ。
これは彼にとって、二度目の挑戦だった。
だが、依然とは、氷雨にとってこの戦いに望む心構えが違うだろう。一緒では、今日まで鍛えた身体の意味が無くなる。むしろこんな適度な緊張感を保ったほうが、いい戦いがミノタウロスとできる、とは確信しているだろう。
そんな氷雨の今日のコンディションは、最高だった。
充実感があった。
身長にして、百七十九センチ。
体重にして、八十九キロ。
氷雨が、今日のために備えてきた肉は、全てが今日のために満たされていた。肉はこの世界に来たときより、遥かに増しただろう。しかもスピードも保ったままだ。ディアブロとの戦いや鍛錬で筋肉についたハリ――疲労は、昨日を一日休憩に費やすことで取れた。怪我も前回の戦いとは違い、少しも無い。
戦うにはちょうどいい体に、氷雨は感謝していた。
氷雨が部屋の中央に雑に胡坐を組むミノタウロスに、そっと目を向ける。
ミノタウロスからは、低い呻き声が聞こえてきた。どうやらこのダンジョンに入った時から耳にしていたこの音は、奴が発していたらしい。そんな声はミノタウロスの瞳に氷雨たちが入ったことによって、より一層大きくなった。
氷雨を待っていたのだろうか?
もしそうなら、氷雨も同じ気持ちだった。
言葉は通じない。だから言っても、多分無駄だろう。
だが目で分かった。
通じた。
ミノタウロスの目は、まるで太陽のようにギラギラしている。氷雨を喰い殺そうと、激しく燃え上がっている。興奮している。
そう思えば、氷雨もあいつに聞きたかった。
自分の目も、同じように激しい炎が燃え上がっているのか、と。
氷雨はそんな考えを抱きながら、四角いこの闘技場の入り口から、四人と共に少しだけ中に入る。
部屋の隅には沢山の武器が見えた。どれも血で赤黒く染まっていたり、刃が欠けていたり、折れていたりと、もう武器とは呼べない代物ばかりだ。それ以外には何も無く、まるで戦士たちの墓場のような場所であった。
「えっ、氷雨君!」
ミノタウロスは何もしてこないだろうと氷雨は確信していたので、その場で屈伸を始めた。要するにストレッチを行い、冷えた体をよりよく動かすため、熱を生み出そうと思ったのだ。その行動に周り――特にハルから非難が飛んだが、彼は何も気にしなかった。
その予想通り、ミノタウロスはその場に座って低く唸っているまま、何もしてこなかった。
やはり、ミノタウロスも氷雨と同じらしい。
戦いに生き、戦いを望み、それしか欲望が無い。
だから、不意打ちなどしない。敵が無防備な状態で攻撃などしない。
そんなことをして勝っても、本当の勝利など得られないと、興奮を得られないと、分かっているからだ。
氷雨はしっかりと時間をかけてストレッチを行い、軽く突きや蹴りなどのシャドーをして、準備を終わらせた。
そこからは服を脱ぐ。邪魔だからである。どうでもいい敵や急な戦いならまだしも、満足に、しかもそれを望んでいる相手にこの格好では凄く失礼だな、と氷雨は思ったのだ。やはりいい好敵手とは、最良の状態で戦いたかったのだ。
そして氷雨はまず、マントを脱ぎクリスへと渡した。
「えっ、ヒサメさん?」
「持ってろ」
「……分かりました」
その下に着ていたシャツもクリスへと渡した。
彼の背中には、数々の傷が刻まれていた。どれも彼の未熟だった証、それに彼が成長した証だ。
そして履いていた皮の丈夫なブーツも脱ぎ、その下の靴下もクリスに渡した。
動きやすいズボンだけを履いたままの状態になり、再度ミノタウロスと向き合い、軽く両足で全身を跳ねさせた。
軽かった。体を動かす妨げとなる服の類を最小限まで取ると、ここまで身軽になるのかと氷雨は驚く。次から本気で戦うときは服を脱ごうとも、氷雨は思った。
そこからの氷雨の行動は、酷く安直だった。
仕方ないと言えば、仕方が無い。
氷雨は持っている全てを捨ててでも、ミノタウロスと戦いたかったのだ。そして勝ちたかったのだ。
その願いがもうすぐ叶うと思うと、足が自然にゆっくりとミノタウロスへと伸びたのだ。考えなど無い。本能が彼をそうさせた。そしてミノタウロスも時が満ちたのを感じたのか、ゆっくりと立ち上がった。
「アニキ、勝ってくれよ……!」
氷雨の背後から、カイトの声が飛んだ。
任せろとの意味を込めて、氷雨は振り返らず親指をそっと横から立てる。
「おにいちゃん……頑張ってね!」
「ヒサメさん、ファイトです!」
その直後、後ろからユウやクリスの声も飛んだ。
氷雨は軽く手を振って答える。
「氷雨君、もしかしたら君はここでミノタウロスと戦って、負けて、死ぬかもしれない。だから聞いておくね――」
氷雨は前を向いたまま、何も言わない。
「――君さ、実はゲームプレイヤーでしょ?」
カイトと、ユウと、クリスからは驚きの声が出た。
実は、これはハルの確信だった。
自分がゲームプレイヤーだと伝えたとき、氷雨は何も言わなかった。驚く様子も、無かった。そこを疑問に思った。そこで考えたのは、どうして自分たちが異世界の話をしているのに、その存在を容認できているか、ということだった。それに氷雨はこの世界の人間ならば知っているはずの常識に、凄く乏しい。ならば、と結論を出すと、もしかして最近こちらに来たゲームプレイヤーなのではないか、とハルは突飛な想像をしたのだ。
そして最後だから、と氷雨へと尋ねた。
そんな氷雨のハルに対する答えは、首だけ振り返って、口だけで「そうだ」と表すだけだった。
その答えが分かったハルは「やっぱり……」と頷き、他の三人は酷く驚いたのであった。
◆◆◆
俺はミノタウロスと目を合わせる。
そこは距離にして、僅か二十センチ。俺とミノタウロスはそんな至近距離で睨み合ったまま、どちらもまだ手を出さなかった。
ミノタウロスは大きかった。俺は身長が百七十九センチもあり、人の中では大きいほうだと自負している。
だがミノタウロスはそんな俺の身長を、軽々と超えていた。
二メートルはあるだろう。それに体格も、人と比べてやはり違う。あの巨大な武器を持つディアブロの者たちも体は太かったが、ミノタウロスはそれ以上に太い。それは前回見たときとは変わらず、今でも著しかった。
それと最後に、ミノタウロスもプライドがあるのを俺は感じ取った。
部屋の隅の置いている武器を使えばいいのに、今のミノタウロスは素手だ。しかも身を守る防具も付けておらず、薄い布切れが下半身に一つだけだ。他の冒険者と戦うときは武器を使うのに、俺との戦いで使わないのはきっと丸腰の人相手に、人が作った武器を使うなど、獣の誇り高いプライドが赦さないのだろう。
そんなミノタウロスからは、張り付くような殺意が感じられる。
俺はやっとそれがこの身に振っていると分かると、心が躍動した。
恐怖などは無い。
あるのは歓喜だけ。
心の中に巣くう“鬼”も、同じ感情だろう。
戦う前は負けたらどうしようや、逃げてしまおうか、などと色々な考えを抱いていたが、実際にミノタウロスを前にするとそんな思考など、ちっぽけなように今は感じる。
そんな無駄なことに気を使っていては、相手に失礼なのだ。
今はただ、ミノタウロスを斃す方法だけ考えればいい。
そのほかの思考など、この戦いにとっては邪魔な不純物なのだ。
そこから俺とミノタウロスが殴り合うのに、時間など必要なかった。
初撃は、ミノタウロスだった。
どうやら待ちきれないように、鼻を低く鳴らし、右腕を後ろに引いた。
大振りの巨大な拳が、俺に襲い掛かる。
テレフォンパンチだ。
俺はモーションが大きく、避けやすかったので、後ろへと一歩。ミノタウロスの拳が届かないところへ避難した。
ミノタウロスの攻撃はそれだけでは収まらず、次は左腕を後ろへ引く。先ほどの攻撃と同じのをもう一度、繰り返した。
今度は下がるのを止め、俺は拳をかい潜り、ミノタウロスの懐へと入る。
「かあっっ!!」
まずは奴の腹に、俺も拳を一撃。
腰を入れ、気合の入れた渾身の一発だ。
だが、分厚いゴムのような筋肉によって跳ね返される。
どうやらこの程度の攻撃では、ミノタウロスにとって軽いらしい。奴の目は、俺を冷たく見下ろしていた。
ブモォオオ!
ミノタウロスは、吠える。
そしてゆっくりと膝を俺の腹へ立てた。
効いた。
例え俺が両手でそれを防いだとしても、奴の強靭な足から繰り出される膝蹴りは重く、そのガードの 上から俺の腹を串刺しにする。
まるで、鉄だ。
俺の腹に、中身が詰まった鉄球が当たったかのような衝撃だ。
だからか、俺は一メートルほど、体が浮いた。自分から後ろへ飛んだのもあるのだが、それ以上にミノタウロスの攻撃は痛烈な俺にダメージを与える。
やはり、俺とミノタウロスの間には差があるらしい。
俺は地面にうまいこと着地しながら、現在の実力をそう分析した。
だが、悲壮感はそこには無かった。
まだ、戦いは始まったばかりだ。
ここから奴を越えていけばいい。
俺はそこから、ダメージを回復するなんていう考えも無く、がむしゃらにミノタウロスへと突っ込んだ。
今度の攻撃は、スピード重視だ。
威力はたぶん、さっきの突きよりか低い。
でも一発相手に攻撃するだけでこんなにもダメージを負っていると、すぐにミノタウロスに負ける。 駄目だ。負けるために俺はここに来たのではない。それに気づいた俺は、まずは奴の攻撃を受けないのを第一条件に攻めだした。幸いにも、これまでの様々な敵との戦闘で、リーチの長い相手にも距離を詰める方法を俺は経験で知っている。ミノタウロスの攻撃は遅いので、俺にはこれを躱すのは朝飯前ぐらいだ。
フッーー!
ミノタウロスは近づいてきた俺に、前蹴りを繰り出した。
やはり、遅い。
雑な空気を切る音は聞こえたので、威力は高いと分かるが、狙いは分かりやすい。俺の顔面だ。やはり相手は、人ではなく獣。どうやら弱点を狙うのは、自然とできるらしい。
俺はそれを右に、ミノタウロスの脚を逸らすように避け、すれ違いざまに右の拳で、ジャブのように奴のレバーを殴った。
効いた様子は無い。
むしろ、蚊に刺されたかのような涼しい表情をミノタウロスはする。
俺はミノタウロスの追撃が怖かったので、ここでは、威力も、二発目も欲張らない。
すぐにミノタウロスと距離を取った。
そこからの俺の攻撃は、地味だった。
ローキック。
ジャブ。
ロー。
ロー。
敵の芯に入っている攻撃など無く、どれも大したダメージにはなってないだろう。
速く、的確な攻撃だったが、ミノタウロスの大木のような足には通じない。
それでも俺は僅かばかりの可能性に賭けて、地道にミノタウロスへとダメージを与えようと努力する。
ロー。
ロー。
ロー。
距離感を正確に測りながら、決して間違えないよう着実に、着実に、ダメージを与えていく。いや、そう信じていた。
ロー。
ジャブ。
ロー。
だが、ミノタウロスにダメージが入っている様子は無く、俺の体力ばかりが削られていく。俺はこの日のためにそれも蓄えていたが、やはり本番は違う。シャドーなら三十分も続く体力や気迫が、ここではミノタウロスの殺気によってどんどんと消費する。
しかしそれよりか、奴の攻撃の方が厄介だった。
テレフォンパンチ。
それに初動が大きい無様な前蹴り。
俺は避けるのを優先していても、やはり一撃で奴の体制が崩れないので、時たま、隙を見せて、攻撃を貰うことになる。
今は、鉄の拳が、まるで槌のように頭の上へと落ちてきた。
今回は前回のときとは違い、片手で防げるなどという慢心はしない。
両手で防ぐ。
押し潰されなかっただけこれはマシだったが、それでもダメージは腕に響く。
例え、どれだけ筋肉を隆起させても、どれだけ威力を逃そうとしても、その上からミノタウロスは渾身の一撃をぶつけてくるのだ。
そして、それが、俺には酷く利く。
体の心まで響き渡るのだ。
剣や斧、それにスキルでは絶対に出せないだろう。
まだ、俺はローやジャブを繰り返しながら、ミノタウロスとの距離を測った。
俺はミノタウロスとの差を感じながら、今度は攻め方を変える。
獣の戦い方では、駄目なのだ。
子供の喧嘩では、駄目なのだ。
そんなことをやったとしても、サイズと言う大きなハンデがある俺は、絶対にミノタウロスには勝てない。
俺もあれだけ体格が大きければ――いや、無い物ねだりをしてもしょうがない。
俺の身体は、これなのだ。
このミノタウロスより小さい体格に、ミノタウロスより薄い筋肉。
だが、これが俺の身体なのだ。
俺が、心が、ミノタウロスにこれでは勝てないと、自分の身体を否定すれば、絶対に勝てるはずなど無い。
これを、信じなければいけないのだ。
これまで生まれて十数年。ずっと俺に付き合い、俺の命令に従ってきたこの肉体を信じなければ、勝てる戦も勝てない。
この身体にはきっと、焼きついているはずだ。
多くの修行で身に着けた技術や、沢山の死線で潜り抜けた経験が。
それしか、俺がミノタウロスに勝てる部分は無い。
肉の量も、骨の太さも負けている。
ならば、長年かけて育んだ技術と思うが、それで本当に勝てるのだろうか?
やはり疑惑が生まれた。
勝てると思わなければ、こんな敵に立ち向かっていけないのも事実だが、疑念は攻めながらも、続いた。
今度は関節を取りに行く。
打撃では奴に通じないのをわかった俺は、粘りつくように相手の関節を狙う。
そのためにまずは、俺は瞬時に駆け足でミノタウロスに近づいた。
その間に、拳を腹に掠らせ、顔を苦痛に歪めたとしても、俺はミノタウロスの右腕を取った。
そして、飛ぶ。
巻きついた。
両足を飛びながら肩に巻きつけ、腕で固定し、一気に背中の筋肉で身体を反り、折ろうとしながら、同時に、奴を慣性の法則で落とそうとする。
『竜巻』だった。
強力な業だった。
だが、通じない。
獣であるミノタウロスに、人への技である『竜巻』は貧弱すぎた。
ミノタウロスと投げようとするには勢いが足りなかったし、折ろうとするには筋力が足りなかった。
それからミノタウロスは腕を払うようにして、邪魔な俺を遠くへ退かした。
俺は、背中から落ちた。
肺が、痺れた。
だがそれでも俺はまだ、ミノタウロスに勝つのを諦めていない。
再度、間接を取ろうと、勇気果敢に突っ込む。
次は『竜巻』なんて、モーションが大きく、繊細な技などしない。
もっと単純な技だ。
俺はまだ、ミノタウロスに満足なダメージなど、一つも与えられていない。
せめて、まずは一つ。痛い思いをさせてやりたい。
そこから俺の反撃は始めるんだ。
そう心に決めながら、足を急ぐ。
ミノタウロスは近づいてきた俺に、叩くように横から顔を狙った。
それを、俺は防ぐ。
左腕でそれを受け、右手で左腕の手首と肘との中間部分を支えるようにして。
左腕には、ミノタウロスの手形がついたが、俺は僅かのチャンスを逃がしはしない。
ミノタウロスの伸びきった指を、一本だけ俺は掴む。
そして両手で、全力で反った。
まるで小枝が折れたような音が聞こえた。
地味であった。
もしかしたらこれは、勝利には、あまり繋がらないかもしれない。
けれども、それでいい。
勝利とは、地道な研鑽の上にあるのだ。
このような、高々指を一本折るにしても、僅かながら自分の攻撃がミノタウロスに通じることを意味する。
その直後、右肩を平手で払われて、手形がもう一個身体に付いたが、俺は危険信号を仕切り無く出す脳内で満足していた。