第十六話 ディアブロⅤ
氷雨には、経験があった。
現実世界では殆ど育まれてなく、この世界に来て、急激に膨らんだ。
それは、祖父や姉との戦いでは得られなかった。得られるはずがないのだ。先の二人との試合は真剣であったとしても、トドメの時には寸止めで終わる。
だから、氷雨は実践の経験が無かった。
だが、今は違う。
数十日前の時とは違う。
氷雨は数多くの殺し場を、その身だけで潜り抜けてきた。時に危機があり、時に鬼が現れ、時に圧勝など、本当に様々な壁を、この固い拳で打ち砕いてきた。
だから、氷雨は動けた。
フォルカーが大剣を遠くで振りおろした直後、すぐに身をそこから退けた。まるでカナヒトの護衛である男と戦った時の経験が、氷雨をそうさせたのだ。ちなみに『飛斬』はそのまままっすぐ進み、ハルの氷が出る魔法によって消滅した。
氷雨はそこから、すぐにフォルカーの迎撃へと移る。遠距離武器を持っていない彼は、すぐにフォルカーとの距離を詰めようと、駈け出したのである。
フォルカーはそんな氷雨に向けて、もう一度、ぶん、と大剣を振った。
どうやら剣が大きいせいか素早く振れないので、連発はできないようだ。
だが、その分、一発が大きく、威力は高かく、飛斬』はテーブルの残骸を破壊し、メンバーの死体も蹴散らすほどだ。
氷雨はハルたちへとは全く情けをかけず、『飛斬』をどれも躱していった。
合計、三発。
それが氷雨がフォルカーとの間合いを詰めるまでで、避けた『飛斬』の数であった。
氷雨とフォルカーの距離――僅か龍殺しの大剣一本分。
刃先が氷雨にぎりぎり届くか、それとも髪の毛一本分外れるか、それぐらいの近さだ。氷雨は正確に間合いを見極め、左手を前に突き出し、右手を腰の位置にして、フォルカーを睨む。
フォルカーもその距離が分かると、最早『飛斬』は無駄だと悟ったのか出さなかった。むしろ持っている大剣を大きく振りかぶって、停止。一撃で氷雨を葬り去ろうと、酷く目を鋭くさせた。
動かない。
その距離から、氷雨も、フォルカーも、そこまで移動すると、時が止まったように全く動かなくなった。
分かっているのだろうか?
気づいているのだろうか?
二人とも、勝負は一撃で決することに。どちらかがタイミングを誤った時点で、それが死に直結することに。
フォルカーの大剣の威力は、紛れもなく絶大だ。
重さ。強度。鋭さ。
それにフォルカーの腕と経験を組み合わせれば、鎧もつけていない人程度の強度なら、人ごと両断するだろう。いや、鎧をつけていたとしても、それごとかち割るかもしれない。氷雨もあくまで、人間だ。この大剣の攻撃には、躱すしか手段が無かった。
だが、そんなフォルカーにも弱点がある。
一撃で氷雨を斃さなければ、逆に殺されるのだ。
それが――間合い。
遠くであれば大剣にとっていい効力を発揮するが、零距離まで詰めれられるとまともな抵抗はできない。まず重たいが故に、大剣は振り回しにくい。従って、そこまで行くと、氷雨の得意な間合いとなり、ほぼ勝てる。
一瞬のタイミング。
それを二人は凌ぎ合っていた。
外してはいけない。遅れてはいけない。戸惑ってはいけない。
失敗すれば、死。
それが戦士の本能で悟っているからこそ、二人は緊張しながら、互いに目線や殺気を牽制し合っていた。
二人の浅い呼吸が、相手に伝わる。
分かった。
まだその時ではない。好機では無い、と。
どちらも一定のリズムで呼吸を刻んでいる。それはどちらもほぼ同じ要領で、吐く速さ、吸う時間もほぼ一緒だった。
だから相手に攻撃を仕掛けるのは、この呼吸が止まった時だと、両者とも勘が教えてくれた。
二人の空気が、徐々に周りを喰らい尽くそうと浸食しだした。
それは暗かった。
決して誰かを救おうなんていう喜劇じみた考えではなく、敵を喰らうという一心だからだ。獣の、それも飢えた獣の思考回路に、二人の心は近かったのだ。
空気が自分の領域を広げると、二人のそれが接触した。
一瞬にして、場の雰囲気が変わる。
緊張感は先ほどより増し、二人の覇気も一層鋭利になった。
まだ動かないのか?
まだ攻撃しないのか?
二人はそんな疑問を抱えたまま、未だ微動だにしない。したくても、できない。まるで周りにある相手の空気が粘土質のように固まり、身にこびり付いて離れないのだ。
二人はまるで、重力が増したように思っていた。
そんなわけはない。分かっている。体の重さは、いつもと一緒だ。変わるわけが無い。
だが、空気は別だった。
敵の殺気が混ざったそれは目に見えなくても、確実に相手を刺激する。攻撃する。乗りかかる。体を重くする。
それは、振り払おうと思っても、できなかった。
敵が恐ろしいのだ。
その一瞬の気の迷いが相手に突かれ、一気に絶命する。相手に勝つことと同じくらい大切である生き残ることを分かっている二人は、そんな隙を相手に見せなかった。
それに体力も、消耗した。
体が重くなったので、必然的に体も疲れてきたのだ。
しかし、それだけではない。
脳は、体以上に疲れていた。
極限の集中状態を数分も続けると、まるで体内からエネルギーが無くなったかのように頭が危険信号を出したのだ。休みたい。瞼を閉じたいと訴えてきた。
だが、それを二人は拒絶した。
どれだけこれが体の訴えることでも、それよりも大切なことが目の前に残っているのだ。
それが、敵。
ただの喰い尽くす餌。
これを食べるまでは、殺すまでは、どれだけ脳が指示を出したとしても、二人は死ぬわけにはいかなかった。
そんな考えを抱いている間に、ほぼ同時期、二人の額に汗が生まれた。
小さな雫だった。
まるで欲望と感情を全て含んだような。
それは塩分が多いのか、流れにくい。
額から頬に伝わるまでに時間がかかり、ずるずると滑るようにではなく、のそのそと蛇のように落ちていく。
氷雨もフォルカーもそれを感じ、両者とも落ちるな、と願っていた。
だが二人ともその願いは空しく、徐々に、徐々に、まるで戦いの合図を切るように、汗は頬をゆっくりと進む。
やがて顎まで達し、落ちそうなところでそれは留まった。
――だが、一人だけ、それが床に落ちた。
フォルカーだった。
氷雨の汗はまだ、顎に止まったままであった。
フォルカーは汗が落ちるのを皮切りにして、大剣を全力で氷雨の頭に落とす。
それは技では無かった。
ただの、生身による一撃だ。筋肉アシストも無く、“名”による効力も無く、ただの振り落とすだけの単純な一撃だった。だがそれゆえに、これまでフォルカーが生きてきた全てが注ぎ込まれていた。
全盛期を過ぎたが、それでも著しい筋肉。
着実に積み上げてきた経験。
様々な敵との戦闘で掴み取った、体裁き。
これ以上ないぐらい、フォルカーにとってはいい一撃だった。
氷雨も少し遅れてだが、右足を前へと動かした。
一歩。
フォルカーに近づくための、小さな距離だが、戦闘においては大きな意味を持つ一歩だった。
出だしはまずまず。上からの大剣による圧力に負けないよう、しっかりと地を蹴りながら、足を踏み出しながら、右手をフォルカーの頬へと伸ばした。
その突きも、やはり氷雨にとって、最高の一撃だった。
これまでの軌跡が伺える。
特に、ミノタウロス戦に向けて、鍛えていた技の片鱗が見える突きだった。
踏み込んだ足で、貯め。
捻る腰で、増幅し。
伸縮する背筋で、集め。
太い肩で、支え。
強い手首で、押し出す。
固い拳骨で、敵を狙った。
まだまだ技の完成度自体は不完全のままであったが、二日前の広場での素振りに比べれば、見違えるほどの一撃だ。
やはり氷雨は敵がいたほうが、伸びるらしい。
集中できるらしい。
やはり悪鬼と云う名に相応しい男だった。
氷雨は。
フォルカーの長い年月をかけて鍛え上げた一撃と、氷雨の全霊を込めた一撃が混じり合う。
どちらが強いかは、いい一撃かは、先に到達したほうだ。
氷雨もフォルカーも、それはどちらかが、どちらかに当たるまで分からない。だがきっとどちらも、自分の方が相手に早く到達すると考えているだろう。
そして当たった方が――勝負に勝つ。
氷雨も、それは分かっていた。
フォルカーも、それは分かっていた。
そして、一瞬の攻防を制したのは――
◆◆◆
「おい、死んだか?」
氷雨は吹っ飛ばされて、仰向けになったフォルカーに対して話しかけた。
「誰げが――」
フォルカーは氷雨の一撃によって、顎が折れた。それだけではない。歯も何本か折れた。左頬は赤く染まり、手からは龍殺しの大剣も無かった。
これが、敗者の姿であった。
「まあ、死にかけか――」
「ぞんばばけ――」
フォルカーは氷雨へと言葉を発しようとするが、上手く話せない。
氷雨はそんなフォルカーから目を離し、奥の部屋へと消えた。ユウの鍵を探しに行ったのだ。死に体の老人など、最早氷雨の眼中に無い。あれは、先ほどまでの一流の戦士とは、もう違うのだ。
部屋に入ると、まず壁に光を纏った花に目をついた。
どうやらこれが明かりらしい。
他に光る物は無く、暗い部屋での僅かな道しるべであった。
その部屋に置かれていたのは、机と椅子が一つずつ。机は部屋の中央に置かれ、椅子は座った者が先の扉から入った人物に対面できるように置かれていた。
氷雨は机以外に、鍵を隠せそうな場所を見つからなかったので、早速机を漁った。
何も見つからなかった。
厳密に言えば、空っぽの引き出しと、鍵の付いた引き出しを見つけて鍵のあるほうはまだ中身を覗けてないのである。
氷雨も流石に二度の戦闘のあとで、これを強引に開けるのは面倒なので、一旦、先ほどの無駄な空間へと戻った。
「ばだ、ばげででえ――」
すると、一人の男が立っていた。
血を吐きながら、喋っていた。
フォルカーだ。
あの龍殺しの大剣を杖にしながら、強引に立っていた。
どうやらまだ氷雨への負けは認めていないようで、執念だけでそこに立っていた。
少し前の一流の戦士の姿とは打って変わって、みすぼらしい負け犬の姿だった。氷雨は少しだけだが彼を見て、悲しくなった。
そこからの氷雨の決断は早い。
腰を落とす。
そして、すぐに爆発。
「――かっっ!!」
既に死にかけの老人に引導を引き渡すため、上段蹴りを繰り出した。
首を狙った。
これ以上の手間をかけないため、氷雨は彼に少しの情けも掛けず、フォルカーを殺したのであった。
「氷雨君……」
氷雨はハルの悲しそうな声に耳を傾けず、フォルカーの龍殺しの大剣を手に取る。
フォルカーが本当に龍を殺したかどうかは、もう分からない。だが、きっと殺しただろうな、と氷雨は思っていた。
そして氷雨は興味心だけで、フォルカーの眼帯を取った。
そこには、傷があった。
火傷の跡だ。
やはり歴年の戦士には、傷が付き物なのだろう。氷雨もまだ服の下にしか無いが、数多くの傷跡がある。
これは氷雨はただの勘だったが、その傷は、龍の炎によって爛れたんだな、と思った。
彼はそこから龍殺しの大剣を持ったまま、奥の部屋に行く。
そして机を見るや否や、持っている大剣で剛断。
フォルカーの振りおろしと比べると、ぶれている振りであったが、それでも強力だった。机を真っ二つにする。
そしてその机から鍵を取りだし、氷雨はまだ穏やかに眠っているユウの首輪を取ったのであった。それにハルは喜んでいたが、当然ながらカイトとクリスも喜んだであろう。
――ディアブロは、今日で壊滅した。
『エータル』の裏を担う一角――そんなコミュニティが潰れたのだ。
この話は一気に町を駆け巡り、それどころか、勢いは町の外にも広がった。
その栄光は殆どハルにあるのだが、元々ディアブロが広めていた氷雨の名が一気に上がる。
そしてこの数日後、氷雨は予告通り、しかも回復薬を施し怪我が無い万全な状態で、ミノタウロスの迷宮に赴くことになるのであった。