第十三話 ディアブロⅡ
「おにいちゃん、どうしてきたの!」
ユウは開口一番に、氷雨へと怒鳴った。
顔は泣きそうだった。
いや、既に泣いた後とも言えよう。涙は枯れたかのごとく、目尻にそれの痕がある。きっと一晩奴らに捕まっている間に、多くのそれを流したのだ。
「どうしてって、どういう意味だ?」
ディアブロのメンバーに後ろの手を掴まれているユウを、氷雨はしかと見た。
「どうしてって、わたし……くびわされてるんだよ!」
「オシャレだな」
「これはね、『スレーブ』なんだよ! しってるでしょ?」
「ああ」
氷雨にも、その知識が無いわけではない。
クリスを買う時にワルツから色々教えられたし、買った後も詳しいことを彼女やカイトなどから多くのことを聞いた。
「だからね、わたしはここからにげても……このひとたちのしはいはつづくんだよ!」
「どのように?」
「えっと……えっと……わたしのこれにとうろくされているこえをきくだけで、からだがじゆうにうごかなくなっちゃうの!」
「へえ、そりゃあ厄介だな」
氷雨は軽々と言いのけた。
「そうやっかいなの!」
「鍵があればいいんだけどなあ」
「だすわけない!」
ユウは涙を耐えながら、言いきった。
「じゃあどうやって、それを外したらいいんだろうな?」
「はずれないよ、きっと!」
「へえ――」
「だから、だからね……ここからにげてよ、おにいちゃん!」
ユウは、もう泣いていた。
大粒の涙が、目から溢れ出ている。
彼女の感情が詰まった涙だった。
本当は、怖くて助けてほしい。でも、氷雨たちが自分を助けようとすれば、彼らが傷つくのは分かっている。だから、逃げてほしい。背中をさらけ出して、無様に自分の前から立ち去ってほしかった。
それが、ユウのたった一つの願いだった。
「おい、ベル。俺がここから逃げたら、ユウはどうなるんだ?」
氷雨は視線を下から、上にした。
「どうなると思う?」
ベルは下俗な笑みを浮かべる。
「そりゃあ、死ぬだろうな」
「それだけだと思うか?」
ベルは分かり切った答えを聞き返す。
「痛めつけてから、殺すとか?」
「ふん、そんな生易しいものんじゃねえ。女にとって大事な物を、失ってもらおうと思ってな」
「じゃあ幼女趣味がその中にいるとでも?」
「正解だ。さらに一人では無い。そんな幼女趣味は」
ベルは氷雨がどんな態度を取るのか、実に愉しみにしていた。
「へえ、何人だ?」
「三人だ。良かったな。慰め者にされるぞ、ユウは――」
氷雨は一旦、ディアブロのメンバーを全て見渡した。
自分を見ながら戦う男の顔をしている者もいれば、ユウに釘付けな者も何人か、いた。その者たちが、ユウのことを狙っているのだろう。
氷雨はロリコンではないので、ユウをそんな対象に見たことが無かったが、いい者にはいいのだろうと納得した。
「まあ、娼婦にもユウのような者はいないから、余計に珍しいだろうな」
「お前も実はその口で、ユウを引き取ったのか?」
そのベルの言葉に反応したハルの視線が、氷雨には背中に突き刺さったような気がした。
「そう思うか?」
「――ねえな。お前には確か、あの銀髪の美人がいたし」
どうやらディアブロは、クリスの情報も手に入れているらしい。
氷雨はそこまで自分に固執していたのかと思うと、ベルの執着心が身に染みた。
これまで氷雨は、因縁の相手などいたことがなかった。誰かと、親族以外と戦うという経験自体が少ないため、勝って恨まれることもなかったのだ。
だが、この世界では違う。
戦って、勝てば、相手からこうやって憎まれることがある。自分に災いを振りかけることがある。
それが氷雨には、とても嬉しかったのである。
「あいつはクリスって言うんだ。ユウより、そっちのほうが人質に向いているんじゃねえか?」
その瞬間、ユウにそういう感情を抱いている者と、ベルとフォルカー以外は歓声を上げた。
「――だろうな」
ベルはそんな仲間の声が鬱陶しかったのか、氷雨に頷いてから、怒鳴り、周りの声を無理矢理抑え込んだ。
「今でも遅くはねえぞ、クリスとそいつを交換したらどうだ?」
「おにいちゃん、それはだめだよ!」
氷雨の意見に、ユウが大声で反対した。
「いいかもな」
ベルもその意見には、大きく同意した。
ユウも少しだけ、シュンと顔を下に向ける。
「だろう?」
「――だが、俺はそんなことよりも、お前に惚れているんだよ」
ベルの欲望を内に秘めた瞳が、氷雨を誘った。
「へえ」
「どうやら俺は、お前をめちゃくちゃにしたくてたまらないようだ」
それは、ベルの本心なのだろう。
「それは嬉しいな」
「だろう?」
「ああ。嬉しくて嬉しくて、俺も興奮したよ」
「そりゃあ良かったぜ」
氷雨とベルが、まるでそれを行う二人のように甘ったるいセリフを交わしあう。
異様だ。
場はとてもじゃないが、普通とは言えなかった。
――既に、狂っていた。
「お……にい……ちゃん……」
ユウは、ハルの前にいた灰色の男を、誰かと思った。
氷雨だろうか?
そうだろう。あれは間違いなく氷雨だ。顔を見ても、体を見てもそう判断できる。
だが、何かが違う。どこかが違う。
氷雨だが、氷雨ではない。
彼女の中の氷雨のイメージは、自分たちを雇う、って言ってくれた時の穏やかな彼であった。そこに狂気は無く、そこに恐さは無い。
そんな氷雨であった。
けれども、今の彼は、そんな彼とは、どこか違うように見えたのだ。
そして、“それ”が見えると、ユウは止めなかった。自分などでは“あれ”は止められないと、気づいたからであろう。
「じゃあ、始めようか?」
ベルが、情事の始まりを氷雨へと告げた。
「何を?」
「分かっているだろう? これからそういう感情を、相手にぶつけるんだ」
ベルはゆっくりと甘言を囁くようであった。
「それは、俺もぶつけられるのか?」
「残念だが、それはない」
「そりゃあ残念だな」
氷雨はいかにも残念そうに手を振るが、顔は全くそうではなかった。
むしろ、荒く息を吐く。
「おい、てめえら――」
ベルは仲間の冒険者を、一歩前へと出した。
誰もが武器を持っていた。レイピアやナイフのような、スピードを生かす武器ではない。
もっと単純で、無骨な武器だ。
上品さなんて必要ない。体力の消耗なんて考えない。数多くなんて戦えない。そんな、大きな武器を彼らは持っていた。それを扱う腕力も、当然ながら彼らは持っているのだろう。
彼らはベルと比べても、強さに遜色は無いように見える。あくまで見た目だけは。だが実際は、彼らはベルよりも下なのだろう。“名”を持っていないのだろう。
一人は、大剣だった。
分厚く、太く、重そうな剣だった。
刃は欠けていた。血で錆びついているような箇所もあった。刃が曇っているかのような部位もあった。
しかしながらそれは、大剣の威力――それ自体には何の影響も無いだろう。
大剣は、重さと腕力とだけで、些細な切れ味なんて関係なく、相手を剛断する武器だ。それを持っている使い手も、それに相応しい肉体を持っていた。
一人は、大槍だった。
氷雨はその武器を見たことがあり、名前を知っていた。
青龍偃月刀だ。
片刃で湾曲した片手刀で、日本刀などに比べ、刃の幅が非常に広いことが特徴だ。柄は長く、形状は薙刀に近い。
こちらも大剣と一緒で、スピードの代わりにパワーを求めた武器であった。
一人は、大斧だった。
ベルの持っている斧と似たような物だ。
こちらも大剣と大槍と同じような特徴を持つ武器である。
これが、ディアブロというコミュニティの特色なのだろう。
誰もが大きな武器を持ち、小さな武器を持たないことが強さの表れという考え。思想。長であるフォルカーも大剣を持っており、どう考えても、それらは狭い迷宮では不利に働くだろう。
「――戦るぞ」
ベルは、言った。
それと同時に、また、仲間が一歩前へ出た。
ベルは、愉しいのだろう。
氷雨を追い詰めるのは愉しいのだろう。
自分を痛めつけて、無様な目に会わした氷雨を、逆に同じような目に会わせる。酷く興奮していた。例えそれが人の論理に大きく外れていても、ベルはそれを気づく頭も持っていなければ、常識も備わっていなかった。
ハルは開戦の兆しを見て、絶望していた。氷雨は助からない。ユウも助からない、と。やはりあの場で、強引に魔法を使ってでも彼を止めれば良かった、と。
ユウもそんな兆候を感じ、あの自分の叫びは無駄だったと焦燥していた。どれだけ自分が訴えても、彼は応じない、とこの時初めて知ったのである。
そんな現在で、闘争の渦中にいる本人は――
「まあ、待て」
今にも爆発しそうな場を宥めた。
「何だ?」
待ちきれないベルが、相手の言葉を待つ。
「一つだけ、提案があるんだ」
「提案?」
「ああ。俺をそいつらに切らせる前に、ユウを切らせればいい」
とんでもない発言を、氷雨はする。
「おにいちゃん!?」
それにユウは信じられないような顔をし、
「氷雨君!?」
ハルでさえも、驚くがあまり絶望していた感情が一気に消し飛んだ。
「へえ――」
だがベルは少しだけ、顔をニヤつかせる。
「単なる余興だ。トドメはお前らが刺したらいいが、ユウに俺を痛めつかせたらどうだ? 余興にはピッタリだろう?」
「だな――」
だがベルは納得しながらも、顎を摩りながら逡巡する。
もし氷雨が言っていることに裏があったとして、最悪の光景がベルの頭に浮かんだ。すなわち、ユウの殺害だ。可能性は低いと思うが、無い、とは考え難い。だからこの決断をするのにベルは迷うが、周りにいた仲間を信頼して、決めた。
例え氷雨が裏切ったとしても、これだけの人数が入れば、負けることがない、と。
「いいだろう。おい、誰か小さな剣を持ってこい」
ベルは仲間の一人に、体がまだ出来上がっていないユウでも持てそうな刃物を要求する。その者は「はい」と大きな声で返事してから、奥の部屋へと消えた。
「おにいちゃん……わたしにどうして……」
だがユウ一人は、何故氷雨がそんなことを言ったのか、ディアブロのメンバーを楽しませるような余興をしようと思ったのか、全然分からない。理解不能だった。
ユウは自分を殺されることは覚悟していたが、氷雨を切ることまでは覚悟していなかった。
ゆえに、手が震える。足が震える。心も、震えた。
「氷雨君! どうしてそんな酷いことをっ!」
その残虐な行為に牙を向いたのは、ハルもであった。
ハルも、どうして彼がそんな提案をしたのか分からない。経験は無いが、慕っている者を殴るのは心が痛む。なのに、それを命じた氷雨の意図が分からず、ハルは氷雨を振り向かせて、胸倉を掴んだ。
けれども、すぐに氷雨が手でハルを押したおかげで、その拘束はすぐに解かれる。ハルは入口の扉へ、背中をぶつけた。
幾らハルが強いと言っても、それは魔法を使った話。使わない肉体での勝負では、二人の間に赤ん坊と大人ほどの差があるのだ。
そんな仲間割れの姿を見て、ベルは溶けたような嗤い方をする。
幸せだった。
あの氷雨の、こんな姿が見れて。
そして、ベルが命じた冒険者が戻ってくる。
「持ってきました」
その者が持ってきた剣は、ベルの注文通り小振りだった。
短い。軽そうだ。長さは四十センチほど。柄も細く、刃も薄い。ディアブロのメンバーが持っている武器とは、真逆のそれだった。
「ユウ、――『その剣を持て』」
ユウはそれを持ちたくは無い。心は拒否を貫いていた。
だが、持つ。
震える手で、恐る恐る。意思とは関係なく。
『スレーブ』の拘束力は強力だ。絶対に逆らうことができない。
「――さあ、来い」
手を広げた氷雨が一歩前に出た。
ユウはまた泣き、泣きながら氷雨を見つめる。剣を持って、戦いを挑む者にはありえない表情だった。
そんなユウへと、ベルは興奮が頂点へと達しそうに――
「ユウ、『あいつを斬れ。遠慮なく、ぶった切れ』」
命令した。
ユウの身体が、ゆらりと動く。剣の扱いに慣れている動きではない。子どもの軟腕なので、剣の重さに負けている情けない歩みだ。
一歩、二歩、と氷雨へとユウは近づいた。
泣きながら、盛大に涙を撒き散らしながら。
ベルやフォルカーなどのディアブロのメンバーは、それを娯楽とばかりに観戦している。
ハルは壁を背に尻もちをつきながら、顔を青ざめていた。
「おにいちゃん……」
ユウは剣の射程圏内まで、氷雨へと近づく。
彼女が剣に腕を取られながら、それを振り上げた。
剣が、落ちて、弧を描く。
遅かった、それは。
一流の技とは言い難く、冒険者のそれとも言い難く、ただの素人の剣さばきだった。
――普通なら、ここで氷雨は剣を受けるのだろう。
だが、彼は受けない。不敵な笑みを浮かべた。
斜め一歩に、ユウの右半身へと入る。
瞬間、彼による手刀が煌めいた。コンマ零秒。迷いは無く、戸惑いも無く、勝算が十二分にあるかのような打撃。
それは手加減されていて、ユウは剣を地面へと落とす。
「ユウ! ――『舌を噛み切れ』」
やはり反抗した氷雨に対して、冷酷なるベルの命令が飛ぶ。
けれど、無駄だった。
ベルが全てを言いきる前に、氷雨が右手をユウの口の中へ突っ込んだのである。鮮血が舞う。ユウの歯が氷雨の指に突き刺さったからだ。そのおかげで、ユウは死ななかった。
次に氷雨が行ったのは、左手による手刀。
それはユウに付けられた『スレーブ』の上から、首を狙うように放たれた。
氷雨の左手に、鉄の痛みが奔る。
ユウも遠慮が無かった氷雨の攻撃によって、首を強打された。首輪が延髄に突き刺さり、昏倒。一瞬にして、ユウの意識が無くなった。
「ユウ! ――『舌を噛み切れ』」
ベルは、もう一度ユウへと命令した。
しかし、それは届かない。
「ユウ! ――『舌を噛み切れ』」
ベルは、再度ユウへと命令した。
だけど、それは届かない。
『スレーブ』も、万能では無いのだ。意識がある者には際限なく効くが、意識が無い者には一切効かないのである。だから、ユウは意識が失っている間は、『スレーブ』によって死ぬことは無い。それが、氷雨がユウを助けるタイムリミットだ。
ベルは大事な駒を彼に取られたことによって、怒髪天を突かれたかのように氷雨へと大きく叫んだ。
「ハル、ちょっとユウを持っていろ」
「えっ!? えっ!?」
ハルは急激な状況を呑みこめないまま、意識が無いハルを投げ渡された。
「さあ、お互いのそういう感情をぶつけようか?」
氷雨が指をポキポキと鳴らしながら、ディアブロのメンバーへと告げる。
「ヒサメぇえええええええええええええええええええええええええ!!」
ベルは予想外の展開に、すぐに斧を握りしめ氷雨へと走る。
氷雨とディアブロ。
悪鬼と悪魔。
この戦いは――こうして始まった。
補足ですが、ベルと氷雨はホモではありません。