第十二話 ディアブロ
空は黄昏。
大気は冷たく、地は乾いている。
ここは大通りと違い、暗かった。周りに建物が多いためだろう。日の光が遮られ、ここまで明かりが届かない。
鼻につくのは悪臭。肉が腐ったような、歪な臭いだった。
音は、無かった。不気味なほど静謐に、風の流れる音がする。
普通の人なら、決して寄り付かない場所だろう。
いるだけで気分が悪くなり、本能がそこを避ける。
氷雨とハルはそんな場所に来ていた。
ユウを助けるためだ。
目の前にあるのは、ディアブロの本拠地。最悪な立地条件にそびえたつ木製の建物を前に、二人は立っていた。
ハルは鼻を片手で押えていた。臭いからだろう。
一方の氷雨は、ただありのままにそこにいる。顔をしかめず、鼻も押えず、ただ前を見ていた。
ここに案内してくれたのは、もちろんカイトだ。
数メートル近くまで案内してくれた時に、氷雨はこれ以上は危険だから来るな、と告げ、現在は宿に帰って行っているだろう。
「さあ、入るぜ――」
氷雨が高揚したまま、言った。
ハルが無言で、それに頷いた。
二人はそれから示し合わせる様に扉の前まで歩き、氷雨が足で扉を開けて、中へと入る。扉は蹴られた勢いで壁にぶつかり、大きな音を奏でた。
中にいた者の眼が、鋭くこちらを射貫いた。
だが氷雨は相変わらずの無表情で中に入り、ハルは少しだけ怯えながら中へと入った。
中は、広い。無駄に空間がある。
机は四つ。椅子は沢山。どれも長く、木製。荒くれ者が使っているのが見て分かるように、机は所々が欠け、穴が空き、さらには腐っている場所さえあった。
だがその椅子に座っている者は一人もおらず、皆一様にして、氷雨たちが入った反対の壁に勢ぞろいしていた。その人数――ざっと二十人。誰もが冒険者にして、鋼鉄の身体を持っていた。身体に傷も多く見られる。服装も無骨な鎧と武器という、どれもこれも立派な兵だった。
「お前が――ヒサメかぁ?」
その内の一人から、彼へと質問が飛ぶ。
フォルカーだった。
このコミュニティ――ディアブロの長にして、現役の冒険者。
退けた怪物は数知れず、殺した同業者は数多く。幾戦の死線を越え、未だ生きている者だ。冒険者は力量が高いのも強さの計る術だが、生きているだけで実は凄い。未熟な冒険者はレベルより上の迷宮に行ったしまって、死ぬことがある。だから自分の実力を見極め、行ける階数を見極められる冒険者の証拠は、生き残っている年数で表わされる。
――従って、この世界では、長く生きれば生きているだけで、一目置かれるのだ。
「ああ――」
氷雨は口角を少しだけ、上げた。
祖父と似ていて、それより薄い雰囲気を、フォルカーから感じ取ったからだ。
彼の嗅覚は、どうやらフォルカーの強さが分かったようだ。
「ベル坊から話は聞いている」
「何てだ?」
「何でもベル坊より、少しだけ強いらしいなぁ?」
歯の抜けた口を、ねたぁ、っとフォルカーは開いた。
「さあな――」
彼は相手の問いを、はぐらかした。
「フン! ベル坊の言うとおり、本当に何も持ってないようだな!」
氷雨の余裕そうな態度が腹にきたフォルカーは、彼が何も持っていないのに見つけた。
どうやらベルの言っていたことを信じたが、まだ疑っている。暗器を持っているのではないか、それで素手で戦っているように見せ、ベルを斃したのではないか、と。
「それが、どうかしたか?」
「何か隠し持っているんじゃねぇのかぁ?」
フォルカーは、隻眼で彼を射抜く。
「例えば?」
「細い針みたいな武器、という可能性もあるなぁ――」
「じゃあそう思ってろよ。俺は何も使わない」
「そうかぁ――」
氷雨の変わらない態度に、フォルカーは少しだけ感心する。
「おめぇ、凄いな」
「どういうことだ?」
「おめぇは大切な仲間を人質に取られている。その状況で、平常心を保てるのが、な」
フォルカーの考えは、実は間違っていた。
氷雨は平常心などではない。
普通に見えるが、心の中では炎が燃えていた。
怪しい炎だ。黒い炎だ。欲望の炎だ。
戦いたかった。彼の中に生まれた鬼は、酷く戦いたかった。
何よりも、誰よりも、何処でなどではなく、明日などではなく、今、誰かミノタウロスの代わりに、捻り潰したかった。殺したかった。
「どうだろうな? 実際は、内心でビクビクしているのかもしらねえぜ――」
氷雨は彼に嗤いかけながら、言った。
「そう見える奴は、よっぽど頭がおめでたいんだろぉな」
「けっ――」
挑発が通じないフォルカーに、氷雨は悪態づいた。
そんな風に彼が敵の長と話していると、ハルが氷雨の裾を引っ張る。
氷雨が振り返ると、異様なコミュニティの空気に呑みこまれたハルは怯えていた。
どれだけハルは強いと言っても、日本に住んでいた平和な一般庶民だ。そんな者が、この圧倒的不利な状況に、心が勝てなかったのである。
「氷雨君……」
「何だ?」
「いや、何でもないよ」
だがハルは発狂しそうな危うい状況であっても、彼に助けは求めなかった。むしろ無理して、笑顔を作った。
ここに来たことを選んだのは、自分。
だから彼の足手まといにはならないことだけを願って、必死にその場に留まっていた。
「ヒサメぇ! 俺を覚えているか!!」
奥の部屋から、ベルが出て来た。
氷雨が見た時とほぼ同じの、巨漢な男である。
その者は、両腕ともゴムのような筋肉をしていた。
斧を持っていた。
服装は、鎧。使い込んだのだろう。金属は細かく細い傷が沢山ついていて、輝くも鈍い。そんあ金属からはみ出して見える布も、破れたりほつれたりしていた。
戦う気力は、十分。
殺気は、満々としていた。
「俺に敗れた負け犬のことだろ? よく覚えている――」
氷雨は喋りかけられるとすぐに、ベルへ喧嘩を売った。
「この野郎っ!!」
ベルは単純だった。短気だった。
氷雨に売られたそれをすぐ買うと、斧を強く握りしめ、彼を真っ二つにしてやろうと動く。
だが、すぐに同じコミュニティの者によって止められた。
フォルカーはベルの前に腕を出し、他の者は数人で羽交い絞めにして。
「そう言えば、お前は俺の情報を広めたのか?」
氷雨の静かな言葉で、ベルは身の毛もよだつ寒気を感じた。
そのおかげか、肉体が一回震え、ベルは大人しくなった。それを見た仲間も、ベルを解放する。
どうやら最初に染み込ませた恐怖はまだ残っているようで、氷雨の脅しは少しだけなら、まだ効力は残っていた。
「――広めた」
少ししてから、ベルは口を開く。
「へえ、良かったな。その件で、お前を殺すことはないようだ」
舐めたような口ぶり。
人質を取られているのにも関わらず、この強気はどこから出てくるのかは、この場にいた氷雨以外の誰も分からなかった。
ハルもそんな彼を、「そんなことを言っていると、ユウの命が危ないよ」などと忠告したいものだが、体が動かないので出来ないでいた。
「ちっ、おい! あいつを連れて来い!」
やっと氷雨の恐怖から立ち直ったベルが、近くにいた仲間に命令する。
「で、でも、『スレーブ』をつけたばかりで、まだ寝ていますよ?」
「連れて来い――」
「そんな状況のあいつをどうやって……」
中々ベルの命令を聞こうとしない仲間に、
「いいから連れて来い! じゃねえと! お前の首が吹き飛ぶぞ!」
彼は怒鳴った。
堪忍袋の緒が、切れたのである。
氷雨で溜まりに溜まった鬱憤。それはあの彼に負けた日から、ずっとベルの心に注ぎ込まれていた。
寝ても覚めても、思うは負けたのに生かされた屈辱。
それを晴らすためだけに、今日までベルは動いた。計画を練った。準備もした。日に日に黒く増した感情を、ついに念願の氷雨に出会ったことによって、制御できなくなったのである。
目の前の彼に、これをぶつける。
そんな目的が無ければ、周りにぶつける心境だった。
「これで……お前は……」
ベルは奥の部屋に、急速に消えていった仲間を見て、満足そうな顔をした。
顔は愉悦に、染まりきっている。
「俺がどうかしたのか?」
氷雨がこちらを見ながら、涎を垂らしているベルに聞く。
「俺の前に平伏すだろうよ!!」
ベルは想像する。
怯えきったユウがここへと来て、氷雨を袋叩きにする姿を。
毎晩思い出したあの寒気が、やっと無くなる日が来るのを。
もう、氷雨に命じられた情報の拡張を、しなくていい事を。
そんなのが脳内を駆け回ると、冷静にいられなくなった。動物のように、氷雨への眼が餌を求める獣のようになる。
「どうしてだ?」
氷雨は質問を追加した。
「決まっているだろうが。人質がいると、お前は手を出せないからだ」
「出したらどうなるんだ?」
氷雨は一つも怯えていなかった。
「ユウが死ぬだけだ――」
「それ以外に、理由はあるのか?」
「はっ! それだけで十分だろうが!」
ベルは、断言する。
どんな人間でも、仲間が大切でない者などいない。平気で身内を裏切るような人間もいるにはいるが、そんなのは少数。いかにあくどい者であっても、身内を裏切るのはタブーとするぐらいの禁忌である。
「まあ、十分だな――」
氷雨が顔を曇らせながら、ベルの意見に頷いた。
「そうだろうが! そうだろうが!」
ベルは目の前の美味い物が食べたくて、待ちきれないような気持ちだった。
「じゃあ俺が抵抗しないとして、俺はどうなるんだ?」
氷雨はあくまで道化を演じて、ベルへと尋ねる。
「死ぬに決まっている――」
「その工程は?」
「ぼろぼろに殴って、切り刻んで、散々謝らした後に、命乞いをさせた後に、殺すだろうが!」
「なるほどなあ――」
氷雨は首を縦に振りながら、ベルの話をよく噛み砕いた。
「氷雨君……策はあるの?」
そんな時、少しだけここに慣れたハルが、小声で氷雨に聞いた。
彼の答えは決まったいた。
「ない――」
「本気なの?」
「ああ――」
「死ぬかも知れないんだよ!」
ハルは頬を膨らませながら、彼を叱った。
ありえないのだ。そんなことは。人質が取られている状態で、ノープランなどとは。
これから起こることは、すぐに予想できる。
相手が人質を盾にして、こちらを一方的に嬲るのだ。
それを打開するためには、やはり一筋縄ではいかない。
なのに、ノープラン。行き当たりばったし。
目の前に死が近いのに、全く変わらない彼をハルは馬鹿だと思っていた。
「さあな?」
氷雨はとぼけたような顔をする。
さあ、解放の時は近い。
鬼は悦んでいた。
戦えることに。血を浴びることに。
そして氷雨も、戦うことを望んでいた。
「さあなって……」
ハルは氷雨に何か打開策を考えるよう言いたかったが、そんな暇はもうない。
奥の部屋から、二人の者が現れたからだ。
一人は、先ほどベルの命令を聞いたディアブロに所属している冒険者だ。
もう一人は――ユウ。幼き少女だった。
そしてその首には、キラリと黒色に光る――『スレーブ』があった。
更新が遅れて申し訳ありません。
やっと、次回で戦闘がはじまると思います。
今回は読者の要望もあって、ルビは一回だけにしております。
感想などありましたら、よろしくお願いします。