第十話 告白
カイトは宿に帰る途中、足が重かった。
氷雨の忠告を無視し、ユウを危険に晒したことが、カイトの心に重くのしかかる。逃げ出したかった。死にたかった。
でも、氷雨にこのことを伝えなければいけない。
ユウが殺されるからだ。
可愛い妹のことを考えると、カイトは歩みを止めれなかった。
――空が、灰色に染まる。
少しすると、雨が降ってきた。大きな雨粒が、カイトに容赦なく振りかかった。カイトはどこかに雨宿りもせず、雨を大人しくその身に受けていた。
冷たい雨水が、カイトの小さな体を冷やす。
だが、心は依然として変わらない。
気が重く、たどたどしい足取りで、宿まで向かう。普通なら十分程度で帰れる道のりだが、それがカイトにはやけに遠く感じた。
――やがて、宿に着く。
心臓の鼓動が高まった。
宿屋の主人に全身が濡れている声をかけたが、カイトは聞こえてすらいなかった。
想像するは、氷雨の対応。
これがカイトには分からなかった。氷雨は元々、自分を晒さない人間だ。いつも物思いにふけっているような顔で、宿にいる。
積極的に行動するのは、戦いの場面ぐらいだろう。
罵倒されるのか?
それとも、殴られるのか?
どんな行動を彼が取るのか予測できないカイトは、より、体が動きにくくなった。
――そして、扉の前に立った。
中からは声が聞こえた。ヒサメと、クリスと、ハルの声だった。内容までは分からない。理解するほどの思考回路も、今のカイトには存在しない。
この時カイトが思い出すは、ゲーム以前の生活で母に怒られたことだ。
屋敷内でユウと走り回っていて、高そうな花瓶をカイトは倒して割った。最初顔面を蒼白にしてそれを隠そうとし、まだ幼かったカイトは母にそれをすぐ見つかった。母には割った破片で怪我が無いかと心配された後、「屋敷の中では走ってはいけない」と声を大にして怒られた。
カイトは今の気持ちを、あの時の母に怒られて花瓶の欠片を隠している時に似ている、と思った。
でも、その時と違う状況が一つ。あの時は隠せたが、今は隠せないということ。
カイトはいつもより自分の身に降りかかる重力が重いと感じた所で、目の前の――扉を開けた。
「カイトさん……どうしたんです! そんなに濡れて!」
まず、彼の出ていた様子にベッドの上に座っていたクリスが驚き、
「あれ、ユウちゃんは?」
その対面にいたハルがユウのいないことに気づいた。
しかしカイトはそれらの質問を全て無視し、最早宿の中で定位置となっている椅子に座っていた氷雨の元にカイトは行った。
「――アニキ、ゴメン!!」
そして、膝をつき、カイトは舌が渇いたまま、小さい頭を懸命に下げた。
目からは、これまで耐えていた涙が溢れ出る。
「どういうこと?」
ハルはそれに反応してくれたが、氷雨は何も言わなかった。ただ、黙るのみ。
カイトは頭を地面にこすりつけるように土下座したまま、先ほどあったことを話し始めた。
「実は……ユウが攫われたんだ!」
「誰にです?」
クリスが相槌を打った。
「ベルだよ。アニキなら知ってるよな? アニキが斃した、戦士の名を持っている斧使い。あのベルが、ユウを攫ったんだよ! 本当にゴメン! オレがアニキの警告を無視して、簡単に町へと出て! 本当にごめんなさい!」
カイトは嗚咽の混じった声で、氷雨へと訴えた。
だが、彼はずっと黙っていた。
彼の代わりに、聞きたいことをハルがカイト尋ねる。
「……僕は氷雨君とそのベルって人の関係は知らないけどさ、誘拐って、憎いだけじゃしないよね? だって、復讐するなら殺すだけでいいんだから。誘拐には、必ず要求がつきものだよ。カイト君もそのベルって人から、何かを要求されたんでしょ?」
「うん」
「それってさ、なに?」
カイトは顔を上げて、両手で強引に涙を拭ってから、告げた。
「アニキを……アニキを明日の夕方までに連れて来いって言ってた」
「どこに?」
「……ベルが所属する闇のコミュニティ――“ディアブロ”のホームだよ」
ハルが絶句した。
「カイト君、もしかしてそれってさ……」
「……うん、間違いなくあいつらはアニキを潰す気だよ。どんなえげつない方法を使ってでも、どんな卑怯な手を使ってでも……」
カイトは、分かっていた。ベルは復讐に刈られていると。
数十分前にカイトはベルと対面したが、あれは普通の目じゃない。憎しみの炎を宿した瞳だ。黒く、鬱々としていて、それでいて高く燃え上がる輝きが、カイトには見えた気がした。
ユウを助けるためには、罠が絶対に仕掛けられている敵の本拠地に乗り込まなければいけない。どんな罠が、何個仕掛けられているかも分からない。敵の数も不明。さらに、ユウという人質も敵に取られているからだ。
カイトも、それは分かっている。子どもながらも、この町のルールぐらいは分かっている
普通に考えるなら不可能。
自分の身を犠牲にしてユウを助け出すことは、もしかしたら可能だが、二人とも無事だという可能性は低い。
だが、カイトはあのコミュニティにどんな卑劣な手が待っていたとしても――
「アニキ、頼む! ユウを助けてくれ!」
――氷雨に頭を下げて頼むしかなかった。
奴らは明日氷雨が来ないと、ユウをきっと殺すだろう。慈悲などない。そんなモノがあったら、この町では生きられない。誰かのために、自分が犠牲になる道を選んでいては、搾取されるだけだ。
だが、だとしても、カイトはユウを助けたかった。
たった一人の妹だ。
兄である自分が守らなければならない。
しかしその手立てが、カイトには無かった。自分と人質を交換することを、先ほどベルに断られたことからそれが分かる。
でも、助けたい。どうしても、助けたい。
その思いが内に積もるカイトは、ただひたすら氷雨に助けを求めるしかなかった。
「氷雨君……どうするの? 行けば、おそらく、死ぬよ。敵の仕掛けた策は、きっとカイト君が言った通り、君を潰すことだけを考えてる」
おそらくそうだ、とカイトも思った。
無理は百も承知だ。
あくまで自分たちは、迷宮探索の従業員として雇われた存在だ。命を賭けて、守りある仲間ではない。
誰でも、普通なら、断る筈だ。
「私も……できるならユウさんを助けたいですけど、私は弱いですから、何の役にも立たないのですよね……」
クリスは悔しそうに、服の裾をぎゅっと握りしめた。
「クリスねえ……オレはその気持ちだけで嬉しいよ……」
カイトはそんな彼女に、そっとお礼を言った。
目からは今度は、別の涙が浮かびあがる。
嬉しかった。そう自分たちを思ってくれてることが。兄妹以外味方のいないこの町で、心からそう言ってくれることが、とても嬉しかった。
「……」
カイトは、未だ一言も発していない氷雨のことが気になり、視線を上げた。
椅子に優雅に座っている氷雨の姿が、カイトの目に入る。
普通だ。いつもと、特に変わりはない。足を広げて椅子に座り、いつもの冷え切った目でカイトを一心に見ている。
そして、氷雨が口を開いた。
「聞くけど……敵はベルなんだな?」
「うん……」
「敵が沢山……罠が山ほどなんだな?」
「うん……」
「それで……そのコミュニティ――ディアブロだっけ? 有名なのか?」
「うん……あくどいって有名だけど……」
それが聞けると、氷雨の顔は緩みきり、すぐ引き締めた。
「分かった。俺が、そこに、行ってやるよ。誰も来なくていい。ユウはちゃんと助け出す」
彼は即答する。
カイトを叱ることも無く、怒ることも無く、淡々と言い放つ。まさかユウを助け出しすことを即決してくれるとは思ってなかったカイトは、花のような笑顔になった。
そして、カイトに諭すように一言。
「カイト、今回は無茶したな。次からは気をつけろよ」
氷雨の表情は、未だして変わらない。
カイトは窓の外を見た。先ほどの雨は通り雨だったのか、もう青い空が見える。カイトは氷雨があんなことを言ったことが嬉しくて、笑顔が絶えなかった。