閑話 とある怪物の物語
それは、同じ夜だ。
氷雨が修行に苦労し、ベルが情報を集めに裏へと赴く日と、同じ夜であった。空に月は輝いているが、地下にあるそこに、それは輝いていなかった。
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
名無しの迷宮に、悲痛な叫び声が響く。
まるで空腹でお腹が鳴っているような音だった。
“それ”以外の怪物は、身の毛を逆立たせた。反射だ。生来の記憶である逃走本能が、その音によって刺激されたのである。
それは、そこの、最奥から聞こえる。
いつまでも、いつまでも消えることは無く、むしろ大きくなるばかりであった。
出どころは、やはり、ミノタウロス。この迷宮で唯一の異常とされる怪物で、氷雨が負けた敵であった。
そんなミノタウロスが叫んでいる理由は、簡単だ。
敵がいないのだ。
あれっきり、氷雨を助けた冒険者を殺して以来、この場所には人っ子一人現れなくなった。戦闘を貪る怪物であるミノタウロスは、戦いがないこの時を、酷く億劫だと感じている。
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
また、それを考えると、ミノタウロスは叫んだ。
乾きは、消えない。
肉の火照りは、冷めない。
腹の虫は、収まらない。
ミノタウロスはそれらの鬱憤を払うように、持っていた斧で、地面を叩きつけた。石を並べて作られた地面は、斧の自重とミノタウロスの剛腕により簡単に割れる。
だが、迷宮は、生き物のように壊れた部位を直すという性質がある。ミノタウロスが壊したそれは、数十秒ですぐに直った。
もう一度、地面を叩き割った。
また、自浄作用で、それは直る。
再度、地面を叩き割った。
また、自浄作用で、それは直る。
最後に、地面を叩き割った。
また、自浄作用で、それは直る。
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
ミノタウロスは、また、叫ぶ。
こんなもので、溜まりに溜まった憤りが晴れるわけがなかった。むしろ、増すばかり。
渇きと、飢えと、火照りは、ミノタウロスの中を驚異的なスピードで浸食していった。
血が欲しかった。肉が欲しかった。戦闘のあの興奮が欲しかった。負ける時の、金切り声が聞きたかった。ミノタウロスは血走った眼で、彼にとっての出口を見た。この部屋にある道は、そこだけだった。
あそこを出れば何かいるだろうか?
ミノタウロスは少ない脳で考えた。
ミノタウロスは生まれてからずっと、ここにいた。逆に言えば、ここから出たことが無い。いい遊び相手である“虫”は、わらわらと湧くので、出たいと思ったことが無かったのだ。
だが、今は、あの先に“虫”がいるなら、ここから出たいと思っている。
本当にいるのだろうか?
虫じゃ無くてもいい。生き物であればいい。
ミノタウロスは使いなれた斧を、片手で強く握った。その斧は、乱暴に扱ったせいか血糊がへばり付き、どこの刃も欠けている。
けれども、ミノタウロスはこれさえあれば勝てると思っていた。否、この斧を持って、負けたことが無いのだ。絶対強者として生まれたミノタウロスは、自分が負けるという想像をしなかった。負けたことがないので、出来なかったのである。
いや、とミノタウロスは己を振り返った。
一人だけ、これで戦おうと思わなかった者がいた。
――氷雨だ。
舐めていたのだろう。素手である彼を。
これまでの冒険者は皆一様に弱かった。それと同じく、皆一様に武器を持っていた。だから、ミノタウロスは、二十回目の戦闘で、斃した冒険者の武器である斧を手に取った。
他にも、武器は沢山ある。剣、槍、弓、槌など、ミノタウロスが斃した者の武器が、この部屋には雑に転がっていた。その中で斧を選んだのは、これが自分に一番合っていると、本能で分かったのだ。
それからの戦闘は、楽だった。
“虫”の攻撃を、斧で防げば大したダメージにはならない。が、素手の時はそうとはいかなかった。防げば防ぐほど傷は増え、死ぬ前に冒険者を殺さなければならない。それは今でも、大変だっと思う。
しかし、斧を持ったミノタウロスは違う。
冒険者を一方的に蹂躙できた。
まさしく、鬼に棍棒。もし、このことを誰かが知っていたら、ミノタウロスに斧、という言葉もできるかもしれない。
この武器を使うだけで、一歩、ミノタウロスは強くなったのである。
だが、氷雨を見た時は、どうも武器を使う気にはなれなかったのだ。
彼は素手だった。昔は己も素手だったから分かる。便利な道具である武器を、何故、その“虫”が使わないのか、という疑問が浮かんだのだ。まあ、そんなモノは戦闘本能にすぐ消し飛んだが。
ミノタウロスは武器を使わない相手に、武器を使うのは気が引けた。
獣のプライドが働いたのだ。
素手で戦う者には、素手で戦う。
“虫”と自分との種族の差を、感じ取れ。
そう考えたミノタウロスは、斧を手に取らなかった。
そこからの戦いは、ミノタウロスにとって甘美の時間だった。
拳を、振るう。
“虫”が、避ける。
拳を、振るう。
“虫”が、避ける。
それが最後まで続き、やっぱりミノタウロスが勝ったが、それでも愉しかった。これまでの“虫”とは、毛色が違う“虫”だ。
その“虫”は弱い種族なのに、何も持たなかった。ギラギラと眼が輝いていた。その状態でも、最後まで勝てると信じて迷わない戦い方だった。負ける時も、一切泣き言を言わなかった。それどころか、弱い自分を悔いていた。ミノタウロスは人の言葉が分からないが、あの表情で分かる。あれは、自分と同じ“鬼”の貌だった、と。
誇り高かったのだ。
あの“虫”は。氷雨は。
あれと、もう一度戦いたいとミノタウロスは思った。
あの時、あれを殺さなかったのはミノタウロスにとって後悔していた。他の“虫”に気を取られ、あれを見逃した、と。
だが、今はそれでいいと思っている。
あの貌は負けたままで終わる貌ではない。むしろ、もう一度奮起し、勝てる気満々で目の前に立とうとする貌だ。
ミノタウロスは、もう一度あの戦いが味わえると思うと、嬉しかった。
肉が、歓喜のあまり震えたのだ。
戦いたい、戦いたい、戦いたい。あの“虫”と、もう一度戦いたい。
ミノタウロスは、もう一度出口を見た。
もう、その先への興味は湧かなかった。
いや、薄れたのだ。
“虫”が、来る。冒険者が、来る。氷雨が、来る。
そう思うと、ミノタウロスはその部屋の中心で、どっと胡坐をかいた。
目移りはしない。
ミノタウロスの頭は、もう、氷雨で埋もれている。
恋焦がれていたと言ってもいい。
ミノタウロスはこの時、ある意味で、氷雨に惚れていた。
ミノタウロスに生まれた初めての感情であった。
ミノタウロスに惚れられた氷雨は、不幸なのか、幸福なのか、それは渦中の本人でさえも分からないだろう。
ともかく、ミノタウロスは待っていた。
氷雨を。
それを己の中で再確認すると、
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
ミノタウロスは、今度は喜びの叫びをあげた。
それはまた、迷宮中の怪物を恐怖へと巻き込んだ。