第八話 修行
その日の夜のことだった。
隣のベッドでは、クリスたち三人が寝ていた。
氷雨はやはり、この日も、ムクリと起き上がる。近くにあったマントを取った。用意していた手拭いも取った。
――修行のためだ。それが他の三人も分かっているため、彼には全く声をかけなかった。今日は先日とは違い、尾行するつもりなど毛頭ない。だから他の三人は、同じベッドで川の字になりながら、ぐっすりと寝息を立てているのだった。
氷雨は穏やかな寝顔を、無防備に見せる三人を少しだけ見てから、部屋を出た。
まず、彼が外に出て始めたのは、柔軟だ。四肢を全て柔らかくするために行い、終わると、カイトが追いかけてきた時と同様、走り出した。
町中を、メインストリート、裏道関係なく、彼は走りまわった。
これはスタミナ作りのためだ。
数日後に控えたミノタウロスとの決戦。
体力が、いる。ミノタウロスと一戦交えるだけの体力が、自分にはあるかと氷雨は問う。すぐに無い、との答えが返ってきた。
ミノタウロスは、そこ等にいる雑魚ではない。
戦い、生き残った氷雨だからこそ分かることだ。奴との対戦は、おそらく激戦になるだろうと悟っていた。
となれば、激戦を耐え、勝ち抜く体力が、スタミナが、必要になる。
修行にかけれる期間は、残り五日だ。一日は名無しの迷宮の攻略に費やし、ミノタウロスと戦う予定だ。それを過ぎたら、ほかの冒険者に獲物を横取りされる恐れがあるからだ。
スタミナもそれまでに、どれだけつけれるかは分からない。
今日までの期間も、数日後のミノタウロスとの決戦のためにスタミナをつけてきた。今の肉体には、自分の全盛期だと思う肉がついている。それぐらい、肉を作り、体に付けた。
これぐらいで十分かと、氷雨は自分に問う。返答は、無かった。
当然だ。
戦いは、これぐらいあれば勝てる、このぐらいあったら勝てる、といった単純なものではない。
だから人は試合の前には、まず、体作りから始める。不安なのだ。勝てるかどうか分からない、どれだけ修行しても、練習しても、これで相手に届くかどうかは、試合が始まるまで分からない。その過程には、体を潰す者もいる。
体作りは始めたら最後、体が壊れるか、それとも体が作れるかの二択なのだ。もしくは途中で諦め、中途半端な体つきになるか。その天秤を上手に操ってこそ、いい肉体が作れる。
そんなプレッシャーと、氷雨は走りながら戦っていた。すぐに、負けそうにもなる。心が挫けそうにもなった。
「はっ……はっ……」
息が漏れる。
全力で走っているので、肺が酸素を求めている証拠だ。
不安だった。勝てるかどうか分からないから、まだ走らなければ、と氷雨は考えていた。どこで走るのを止めていいか、何日走っても、未だにそのタイミングが分からないのだ。
やがて、休憩なしに走っていると、足が止まりそうになる。
そこをもう一踏ん張りする。
足がもつれそうになるまで、氷雨は走るのだ。
そしてそこまで来ると、今度は、氷雨はいつもの広場へと移動した。
「氷雨くん、今日は何をするの? また、昨日と同じメニュー?」
そこにはハルがいた。
今日も、氷雨の修行の見守りに来たのだ。
これもいつものことだった。ハルは氷雨とミノタウロスのことでとある契約を交わして以来、氷雨がどんな手段を経て、強くなるかをとても楽しみにしているのだ。
「一応な、ちょっとだけ変えるつもりだ」
「へえ~。楽しみだなぁ。君は、この世界に現存する他のどの冒険者とも一風違うからね! 楽しみだよっ!」
「それはどうも――」
ハルがこれまで会ってきた冒険者の、強くなる方法は簡単だ。
迷宮に行き、強い怪物を数多く狩れば、それだけで力量が高くなり、強くなれる。この世界ならではの手段だ。
だが、氷雨は違う。彼は、修行というあの世界の技術で、己を高める。しかも、それが、また異質だ。
体力をつけ、筋力をつけ、技術をつけ、その上で戦うなど、そんな技術はこの世界には存在しない。消え去ったかのように、誰もそんな方法知らなかった。
(氷雨くんは……何者? もしかして……)
もしかして、とハルは思う。
だが、ハルは何も聞かなかった。
そして、ハルは氷雨を見た。集中していた。目を瞑り、腰を低くしている。手は軽く握り、腰の位置だ。まるで波が立たない水面だった。
ハルはそれに水を差さないよう、近くの地面に腰を下ろしていた。
「ふう……」
氷雨は深呼吸を一回し、ランニングで乱れた息を整えた。
体が、止まる。思考をまわす余裕が、生まれた。
すると、雑念が浮かぶ。この複雑な世界で、力量を上げずして、本当に上手くなるのかという疑問だ。素直に他の人間と同じように、力量を上げた方がいいのではないか、という選択肢も彼の心の中に浮かんだ。
雑念が、心を乱す。
こんな修行をして何になる? もっと効率のいい伸ばし方があるのではないか?
彼の心に、一滴の水が落ちた。それは波紋を生み出し、水面を大きく揺るがした。やがて波は消えるが、余韻は消えない。
氷雨は、挫けそうになる。修行から、強くなるという手段から、ミノタウロスに勝つという目的から、まるでそんな全てから逃げ出したい気持ちに襲われた。
「ふう……」
氷雨はもう一度深呼吸をした。今度は乱れた心を整えるためだ。
雑念を、無くす。心に、荒波を立てない。あくまで静かな水面。それを氷雨はイメージした。今度は、何も――落ちなかった。
彼は、それから、技の確認を開始した。
内容は、いつもと殆ど同じだ。
自分がいつも出す技を、一つずつ丁寧に確認していくのである。
突き、手刀、貫き手、上段蹴り、中段蹴り、下段蹴り、『竜巻』、『驟雨』
など、体が淀みなく動くように、それぞれ10セットずつ行っていく。
どれも綺麗だった。
だが、これはあくまで確認だ。ミノタウロスに負けた前日も、同じメニューを行っていたが、その時も十全に体は動いた。
氷雨は一時間ほどかけて先のメニューを終わらすと、ハルから水筒に入った水を渡された。それを飲むと、また、思考をまわす余裕が生まれる。
雑念が、また生まれた。
これで、本当に勝てるのか? いや、勝てないはずだろう?
ミノタウロスにかなわなかった技の数々。いや、そもそもそれを当てる技量さえ、自分には無かった。
水滴が、また、落ちる。心を掻き乱す。ぐちゃぐちゃに。まるで透明な雫ではなく、汚れた雫が落ちたようだ。
今度は水面ではなく、綺麗な水を汚された。
「ちっ……」
集中できなかった。
氷雨は邪念が生まれてしょうがなかった。
おそらく、それは、初めて戦う敵を、明確に決めた為だろう。
氷雨はこの世界に来てからも、そして来るまでも、敵を定かにして修行したことなどなかった。単に、ただ強く、誰でも勝てる様に、そんな考えで鍛えてきた。
それでもいいと、思っている。その考えは今でも変わらない。現に、その考えで来たからこそ、この高みまで登れたのだ。
だが、今はそれでは足りないと、内側が叫んでいた。
ミノタウロスに負けたからだ。
あれは、衝撃的だった。祖父にも負けていた。姉である雪にも負けていた。しかしあの“負け”は、祖父や姉に負けたこととは、何かが違う。根本的に違う。
確かに、祖父や姉に負けたのも悔しかった。だから氷雨はそのことをバネにして、頑張ってきた。
だけどミノタウロスに負けた時は、“悔しい”のではなく、“惨め”だったと氷雨は思う。
負けただけならいい。だが、殺すのを後回しされる程の強さだった。殺さなくても、脅威にならないと思われた実力だった。
それが、雫となり、心に落ちて仕方がない。
喉を潤す今も、それは変わらなかった。
「どうかしたの? 氷雨くん」
「……」
技の型の確認を終わらせた氷雨が、続きを何もしないことに疑問を持ったハルが声をかける。そんな氷雨は、口角の端を少しだけ上げていた。
だが、そんな言葉は、氷雨の奥底までは響かない。
彼は戦っていた。
何と?
欲望と、だ。この修行を無茶苦茶にして、あの自分より高見にいるミノタウロスから逃げる。そんな恐怖から逃げる欲望から、氷雨は真っ向から戦っていた。
確かに、氷雨はミノタウロスと戦いたい。だが、それと同じくらい戦いたくなかった。
次は、勝てるかもしれない。だが、次も、負けるかもしれない。
彼はもう、負けたくなかった。だからミノタウロスと戦いたくない。このまま地の果てまで、自分を知る者がいない地平線まで逃げたい、という思いも、少なからずだが心の中にある。
「氷雨……くん?」
ハルは獰猛な獣の眼になっている氷雨を、不安そうに見つめる。
またも、氷雨からは返事は無い。
代わりに彼は飲み終わった水筒を、ハルに投げる様に渡す。そのまま。心の波紋と、淀みを、強引に精神力だけで、押さえつける。
「かっっ!!」
さらに、気合いで制した。
そのまま氷雨は次の行動へ、移動する。
体制は低く、手を虚空へと置くように付けた。まるで幽霊を斃すような、そんな感じだ。
そして――拳を空に浮かせたまま――突き出す。
踏み込んだ足で、貯める。
捻る腰で、増幅し。
伸縮する背筋で、集め。
太い肩で、支え。
強い手首で、押し出し。
固い拳骨で、敵を狙った。
激しい音を挙げて、空気を切り裂きながら氷雨の拳は空中を突き進む。
「ヒュウッ!」
ハルはこの素晴らしい技に、感動の息を漏らす。
だが、氷雨は拳をやがて開き、体の近くに戻しても、釈然としない顔をしていた。やっぱり納得していないようだ。
今のは、いい一撃だろう。それは氷雨も、感じ取っている。
だが、どこか足りない。不完全だ。氷雨はこの技を一度も成功させたことがない。だからどこが間違っているか、は分からない。しかし完全な技とは、どこか、明らかに違った。いくら彼でも、それだけは本能で感じ取れた。
また、水滴が、心に落ちる。
こんな成功したことがない技を練習して、本当に習得できるのか? 時間の無駄ではないのか? そもそもそれがあいつに通じるのか? 効かないのではないか?
水滴は、氷雨の集中を騒がせる。
先ほどの新技を行おうとした集中力は、もう、ない。あの強い精神力で押さえつける荒技をする余裕も、氷雨には無かった。
「俺……今日は帰るよ」
「そう? 今日はいつもと違って凄く短いんだね!」
「ああ……なんか、集中できなくてな……」
「分かった! じゃあまた明日! 時間も場所も、昨日と同じでいいよね?」
「ああ――」
氷雨はそのまま、宿へと帰って行った。それが小さくなるまで、ハルは彼を見ていた。どこか彼の背中が猛々しく、大きくなっているような気がしたが、ハルは次の日には元に戻っているだろうと考えている。
一方の氷雨は、ランニングをしながら宿へと戻っている。
最低でも体を動かしておけば、余計な考えをせずに済むと思ったのだ。それは正解だった。氷雨は足が棒になるまで、走り続けた。
クールダウンとは言い難い。明らかなオーバーワークだった。けれどもそれを止める勇気は、彼には無かった。
今日の修行――何一つ上手くいっていないからだ。
無駄な思考に邪魔をされ、貴重な時間を減らした。集中力が欠け、修行の質も落ちていた。さらには、ハルに心配される程の墜ちようだった。
最悪だった。
それを取り戻すため、氷雨はいつも以上に走っていたのだ。
そして、足がフラフラになりながら宿に戻ったころ、氷雨は井戸に向かう。近くに脱いだマントと服を置いた。カランカランと、縄を引っ張り、水を木で出来た桶ですくいあげた。
彼の体には、熱が宿っている。あれだけ、走ったからだ。
氷雨はそれらを冷ますため、桶を両手で持ち、全身にぶちあてたのだ。
冷たい水は、心地よく全身を冷ましてくれる。
氷雨はそんな気持ちいい水を浴びてから、持ってきた手拭いで全身を拭いてから、服を着る。それから、宿の部屋へと戻る。
そこでは、やはり、三人が川の字で寝ていた。
穏やかそうな寝息を、三人とも浮かべていた。
ふと、氷雨はその中の一人であるクリスが、目に入った。精巧な西洋人形のように整った容姿と、銀糸のような髪が目につく。
また、心に、雫が落ちた。
ドス黒い雫であった。冷ました体に、熱がもう一度宿る。――欲望だ。溜まり募った鬱憤が、色欲へと代わり、その矛先がクリスへと向いたのだ。絶世の美女だからであろう。
カチカチと、氷雨は歯を鳴らした。
このまま寝ている彼女を、力づくで抱くのは簡単だ。寝ているし、力も自分の方が強い。それに買った奴隷なので、言い訳も容易に付く。
「クソっ!!」
近くの壁に、氷雨は軽く拳を打ちつけた。
鈍い音が、壁を伝い宿中に響く。
その音で氷雨は正気を取り戻せた。
何を考えているのだ、と。
修行が上手くいかないことに、女へと逃げそうになるのを、氷雨は恥じたのだ。決して、武人だから女を抱かない、そんな理由ではない。
何かが予定通りに行かず、それを晴らすために女を抱こうとした自分が、とても嫌になったのだ。
ちなみに、クリスはその音で実は起きていた。氷雨の欲望に駆られた雄の顔を、少しだけ開いた眼で見ていたのである。
その視線に気づかぬまま、布団を頭から氷雨は被り、そのまま眠りについた。
ミノタウロスとの決戦五日前。
――彼の心は、グチャグチャだった。