第零話 プロローグ
時は遡る。
氷雨が路地裏の界隈でベルを倒した晩のことだ。
その晩、巨漢の男は、自分が所属する“コミュニティ”の前に来ていた。“コミュニティ”とは、簡略に説明すればパーティーよりも多い人数のグループのことである。生活を共に考え、迷宮を共に攻略する仲間のことであった。
――ベルである。
分厚い鎧の上から黒色のマントで覆っている。
隙間から見える筋肉はゴムのような弾力があって、大木のように大きい。片方の耳は無くて、鼻は潰れており、顔には傷が沢山あった。
そして、氷雨との戦闘の結果、右手には包帯がぐるぐる巻きされていた。
「――邪魔するぜ」
ベルはぼろい長屋のような建物に、挨拶をしながら入っていく。
建物の中は汚く、大声の談話も聞こえた。それは、一つある長テーブルに冒険者たちがこぞるように座って、酒を浴びるように飲んでいたからである。
「がっはっ……えっ!?」
本来なら、彼等の声はコミュニティの“長”しか止められないのだが、ベルがそれを止めた。包帯でぐるぐる巻きにした右腕を見て、自然と口から言葉が出なくなり、むせたのであった。
ベルはこの十数人居るコミュニティの中の、精鋭の一人。力量は低いが、“名”を持っているので、コミュニティの誰からも一目を置かれているほど――ベルは強かった。
「ベル~誰に負けたんだよ?」
だが、そんな中、一人の男が、馴れ馴れしく木でできたグラスを片手に、ベルに喋りかけた。顔が赤く、口からは酒の匂いがする。どうやらこの男は、酔っているようだ。
ベルは忌々しげにその男を見る。心地よく酒に溺れているのが、鬱陶しかったらしい。
「誰だっていいだろうが」
「お前が負けるんだ。ここでもとびっきりの上級者だろうが~!」
へらへらと男は上機嫌にしていた。
「酔っ払いはさっさと寝てろ。で、“長”はどこにいる?」
ベルが酔っ払いを左手で振り払うと、一番近くにいた冒険者に話すのであった。
「お、奥の部屋に……いると思うぞ!」
「そうか、礼を言う」
そんな兵士は、戸惑いながらも答える。
――ベルが負けた。それだけがその冒険者の心に引っかかっていたのである。もっとも、もう一杯酒を啜るときには、そんな考え消えていたが。
ベルは、仲間たちのそんな色眼鏡に負けず、静寂の漂う中、奥へと続く部屋の扉を開けた。
「ちっ、つれない奴だな~。皆ぁ! あいつなんか気にせず、酒を飲むぞぉ!」
「お~~う!!」
ベルが去った後、軽くあしらわれた酔っ払いはコップを持ち上げ、高らかと音頭を取った。
他の冒険者たちもそれに続く。ほろ酔い気分に浸っていた誰もが、ベルの負けた理由よりも目の前の酒のほうが大切だ。
「てめぇ~! それは俺の酒……だぞぉ~~!!」
「ヒック! 俺は……俺は……どうしてこんなにも弱いんだぁあああ!!」
「アヒャヒャヒャ! 聞けよ。今日のなぁ、客はなぁ、とっても面白かったんだぜぇ~~~~!」
冒険者たちは、また、ぐいぐいと安い酒を胃に入れたのであった。
(ちっ、相変わらず喧しい奴等だ)
そんな夜通し騒ぐつもりの冒険者たちを他所に、ベルは暗い部屋の中にいた。明かりは一本の花。
中にいたのは隻眼の男だ。白い髭と髪で、妙齢の男性だと一目で分かる。
そんな男は黒い眼帯で、右目を隠していた。ベルの知識では、眼はドラゴンとの戦いで失ったらしいが、真偽のほどはコミュニティの誰も知らなかった。
「そんな格好でどうしたんだ? ベル坊、もしかしてまだおめぇ、おしめが取れてなかったか?」
老人が開口一番に発したのは、嫌味だった。
固い木でできた幅広の椅子に座りながら、老人は目の前の木製のテーブルの前に置かれた一人でワインを啜っている。形としては、ベルと対面しながら。
「その名で呼ぶなよクソ爺」
「はん! ワシから言わせれば敵の力量と己の力量を見極められず、それでノコノコと帰ってきた未熟な奴に、坊やと呼ばずなんて言えばいいかなんて、想像もつかねぇな!!」
「……」
ベルはこのコミュニティの主――フォルカーの言葉にぐうの音も出なかった。フォルカーの言葉に、一理あるからだ。
敵との力量の差を見誤ったのも事実。敵に情けをかけてもらったのも事実で、未熟なのもべルは認めていた。
「足りねぇならまだ言おうか?」
「いや、いい。それより本題に入りたいんだ」
「本題だぁ?」
ベルはフォルカーの申し出を、即座に断る。
長い説教を話してなど、ベルはいられなかったのだ。心に燻るは、氷雨に対する恐怖ではなく復讐心。身を焦がすのは、己の弱さ。あまつさえ敗者を使おうとした彼に、ベルは怖さと怒りが交わった複雑な感情であった。
そんな負に覆われたベルは、氷雨を斃すことしか考えていない。
「ああ、今日の敵に関する話だ――」
そして、ベルは先程あった氷雨との戦いを振り返り、事の始めから顛末を語り出した。
容姿。身長。戦い方。最後の負け方はなんだったか。どんな印象を受けたか。など、ベルは詳細にフォルカーに告げる。
ただフォルカーは聞いていただけだったが、驚いたのはただ一点。敵が徒手空拳で戦うというのに、「ほう」と感慨深そうな声をあげた。
「――ということだ。他に何か聞きたいことはあるか?」
全てを話し終えたベルは、フォルカーに問いかける。
「そいつは……ヒサメ――という野郎は、本当に素手でしか戦わなかったのか?」
「ああ、素手だけだった」
「そうかぁ……」
そうベルが答えると、フォルカーは考え込むように黙った。長い人生を歩んできたフォルカーだが、素手で主に戦う人間を見たことが無いからである。
フォルカーの考えでは、いや、この世界全住人の考えでは、怪物と戦うには、非力な人間にとって、武器を持つことが第一条件だからだ。
怪物は武器として、牙を持ち、爪を持ち、ましてや毒を持つ者までいる。
だが、それと比べて人間は貧弱な体しか持ち得ない。生物として――人間は怪物に負けていた。
それは変わりのない事実で、だから冒険者は牙や爪の“代用品”である剣や槍を持つのであった。
(素手……ありえねぇな。何者だ?)
フォルカーは、氷雨を人外だと思う。低力量で強いことよりか、素手で戦うことのほうが、よっぽど不可思議であった。
武器を持たず、怪物と渡り合うなど無謀に等しいこの世界。そんな世界で、素手で平然と戦う男。
――正気の沙汰ではない。同時に、ある意味化け物だとも思った。
「クソ爺、それで俺はあいつを――殺したいんだ。協力してくれるか?」
「一つ聞くが、――そいつはどれぐらい強い?」
「俺よりちょい上だな。差は殆ど無かった」
嘘はない。
フォルカーの長きに渡って積んだ経験に、ベルは真実を話していたと悟る。もし、言葉の中に偽りが混じっていたのなら、フォルカーはベルの申し出を断る気でいたのである。
なのでフォルカーは数分机に視線を向け、悩んでから――
「――分かった」
――目線をベルへと送り、答えを出す。
そんなフォルカーの目を向けられていたベルは、顔を綻ばせた。願っていた返答が、自分の所属するコミュニティの主から聞けたからだ。
――憎しみによる復讐。
人として許される行為ではないが、人ならば誰もが一度は望むであろう。恋人を取られたから、親を殺されたから、親友に裏切られたから、理由は勿論人それぞれ違う。
ベルは、そんな復讐劇の第一歩を進んだのであった。
「じゃあ……」
「いや、まだ早ぇ。どうせなら、ベル坊の怪我も治して、『スレーブ』を手に入れて、あいつの仲間を人質に取る。お前も一方的に戦りたいだろぉが?」
「だな――」
「それでお前はよぉ、そのヒサメの言うとおり噂を広げとよぉ?」
「何でだ?」
「そりゃあ、そっちの方が、都合がいいからさぁ。強いと噂される奴がワシのコミュニティが斃せば株が上がる。それになぁ。そいつおっかない性格なんだろ? そんな奴の言うことに従わなかったら、ここに今日明日でも来るかも知れんからなぁ」
フォルカーは怪しげな笑みを浮かべた。
口を開くと、何本か歯の抜けた口内が見える。戦闘で失ったか、それとも虫歯で失ったか、は分からない。
ただ、口を閉じている時に比べて、幾歳老けたように見えた。
「そうだな。それにしても今日はよかったざ。願ってもない返事を聞けてよ」
ベルも邪悪に笑った。
今宵、正式には認められていないコミュニティで、夜の住人ならではの悪辣な会話があった。
彼等が、氷雨に宣戦布告を言い渡す数十日前のことである。ベルの反撃の狼煙は、この時既に上がっていたのであった。
◆◆◆
ある日のことだ。
永久の迷宮――ではなく、まだ名前すら付けられていない迷宮の最下層に、一匹の怪物がいた。
その怪物以上の怪物は、この名無しの迷宮には存在せず、ここを踏破しようと思えば必ず勝負しなければいけない存在であった。“王”といっても過言ではない。
そんな“王”と云われる怪物は、全身を人外の筋肉で覆われており、それらは例外なく太かった。
何もかもが、身体に存在する全ての箇所が、太かったのだ。
目も。指も。腕も。脚も。胴体も。
頭蓋に生えた二つの角も太く、涎を垂れこぼす口から見える歯も、太かった。
その怪物の名は――ミノタウロス。
オーク種の一種とされながら、数ではなく個で戦う怪物。ゆえに、異常とされた怪物でもあった。
そんな名無しの迷宮にいたミノタウロスは、ただ広いだけの空間で、雑なあぐらをしながら、餌を待っていた。
餌は――冒険者であった。
ここを攻略しようと次から次へと、虫のようにわらわらと湧く弱い冒険者。それをミノタウロスは、餌と評したのだ。
事実、未だそのミノタウロスに勝てる冒険者はいなかった。
その証拠として、そのフロアの端には死んでいった冒険者が装備したであろう鎧や武器が、数多く転がっている。
「へえ、あいつは、強そうだな」
そして、そんなミノタウロスに、相対する灰色の青年がいた。
――氷雨だ。
今日はたった一人で迷宮に来ており、わざわざミノタウロスと戦うためだけにここまで足を運んだのだ。
ヴォオオ……!! ヴォオオ……!!
そんな氷雨に、ミノタウロスは深く唸る。
(久しぶりだな……! この高揚感……!!)
氷雨も戦いに餓えており、ミノタウロスとの邂逅に、口角を上げた。
ワルツとの戦いから一週間、ユウの願いによって戦闘を行っていない。怪我が回復していないとの理由もあったからだ。
そして、本日。
氷雨は最近“色々な理由”で話題だったミノタウロスと、戦いに来たのであった。ユウやクリスの反対や、怪我の完治なども置いといて。
「――さあ、戦ろうぜ」
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
やがて、二人が相対して数分。
氷雨が開戦を告げ、ミノタウロスがそれに答えるように吠えた。
それは両者の数秒の睨み合いの末、であった。
フゥーッ……!!
まず、動き出したのはミノタウロスだ。
荒く鼻を鳴らしながら、一歩一歩氷雨へと近づく。武器は両腕。防具はなく、裸の状態で。
そして、両腕の射程圏内へ氷雨が入った時、片腕を大きく振り上げ、雑に――落とした。
ダガンッ!
氷雨は後ろに跳ぶように避ける。
彼はひびの入った床を見て、敵の威力の程を知った。
岩盤を楽に砕くほどの筋力。そこに、生物としての差を感じたのであった。
だが、それだけで、ミノタウロスの攻撃は終わらなかった。
二度、三度、と氷雨へ腕は襲い掛かる。
上から下へ。右から左へ。
獣並みの頭脳しか持たないミノタウロスの攻撃方法は、両腕を振り回す以外に無いのであった。
(ちっ……!)
氷雨は何度も迫り来る腕を、また下がって躱した。
彼は待っていた。
反撃のチャンスを。敵の攻撃が緩まる瞬間を。その好機までじっと攻撃の手を休め、全神経を躱すことのみに置いていた。
幸いにも、敵の攻撃は全てテレフォンパンチ。
動作が大きく、読みやすい攻撃なので、避けるのは楽であった。ただ、威力がネックで、当たれば負けは変わらないのだった。
ダガンッ!
また、ミノタウロスは腕を地面へと打ちつけた。
フゥーッ……!! フゥーッ……!!
ミノタウロスは目の前で、まるでハエのように華麗に攻撃を避ける氷雨が、煩わしく思えてきた。
怒りが、だんだんと頭を埋め尽くしていく。攻撃を氷雨に躱されながら、徐々に、徐々に。脳内は黒く染まっていく。
ヴモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
そして、激情が一定の割合を超えると、腕も足も一旦止まり――吠えた。
まるでこのフロアを震わせるように喉を震わせ、ミノタウロスは雄叫びをあげたのである。
「けっ……牛ごときが……!!」
氷雨は悪態づく。
パワーを上げる為、筋肉を一段階膨らませたミノタウロス。楽に勝てる相手ではないと、この時、氷雨は知ったのであった。
ダガンッ! ダガンッ! ダガンッ!
そこからのミノタウロスは――まるで嵐であった。
腕は烈風のように次々と氷雨を襲い、彼も紙一重に避け続ける。実力差は僅差で、この構図がいつまでも続く――かと思われた。
ガタンッ!
均衡は、ミノタウロスの体勢が少し崩れたことにより、一方に傾いた。
氷雨が何かしたわけではない。ミノタウロスの暴虐に満ちた力で、地面を叩きつけた結果、一部の床が割れ、それに足を取られたのである。
ミノタウロスは重心が一方にぶれたまま、太い腕を氷雨に――落とす。
「ふう……!!」
氷雨も、この体重の乗っていない攻撃を、右手で受け止めた。体重の乗っていない攻撃といえども、氷雨が受けたことの無いような威力であった。
そして、彼は、そのまま敵まで近づこうとする。
だが――
ガッタンッ!
――上から――無残に――押し潰された。
腕も、脚も、ミノタウロスの豪腕には、逆らえなかったのである。氷雨の目論見どおり、一撃は耐えられた。
だが、追撃が止められなかったのだ。なので、氷雨は仰向けになりながら、胸越しに太い腕を感じながら、徐々に、徐々に床に減り込まれていく。
肉が腫れた。
肋骨がきしんだ。
肺が縮んだ。
「くっそ……! くっそ……!!」
体にかかる圧力に、氷雨は顔を歪ませる。
無様な叫び声は挙げない。ただ、悔しそうに、息だけこぼしている。少しも動かない右腕は折れているだろう、と彼は悟った。
これは氷雨が“武術家”として劣っている結果ではなかった。氷雨はミノタウロスに“人”として劣っている結果だったのだ。
種として、生物として、ミノタウロスのほうが――格が上だったのである。
「うっ……」
やがて、上からの圧力は無くなる。氷雨は、これまで圧迫されていた肺が解放されたので、呻き声だけあげる。
ミノタウロスの腕が引いたのであった。
それは氷雨を生かすためではない。ただ、一撃で彼を葬り去ろうと、蹄を持ち上げたのである。それが、目を開けた氷雨には“よく”見えた。
ヴォオオ……!! ヴォオオ……!!
ミノタウロスはトドメをさせることに感激し、息を漏らす。
「くっそ……! くっそ……!」
氷雨は歯痒そうな吐息を漏らした。
そして、氷雨の声が空しく迷宮内に響く中、蹄は――