第九話 スライム
――スライム。
迷宮の中では、最弱と云われる怪物である。何故なら、反撃を殆どせず、ある特定の攻撃――斬撃や魔法を喰らうと一撃で死ぬからだ。
そんなスライムの特徴は、半透明なゲル状。常にプヨプヨと震えているだけで、目や鼻などの感覚器官も無い。体長は60センチ。横幅は40センチ。
ただ、その場で少しだけプルプルと振動しているような、どの迷宮の中でも“一般的”に危険度が一番低い怪物だった。
◆◆◆
――2階。
空気が薄く暗い場所で、クリスは氷雨達の無謀とも云える攻略の仕方に、懐疑の声が自然とでていた。
「ヒサメさん……本気ですか?」
それもその筈。
彼が貧乏になった次の日、四人はクリスのギルド登録を済ました後、暗く深い迷宮に訪れていた。
服装だけ見れば、到底冒険するような格好ではない。皆が皆防具をつけず、彼と子供はマント。クリスは簡素なワンピースなのだから。
「ああ、なあ、これが普通だよな?」
「うん……アニキはいつもこうだよ。クリスねえ、諦めたほうがいいよ」
「おにいちゃんはいっつもこうだよね!」
彼らが歩いているのは細い道だ。
そこでは、誰もクリスが感じる異様さに、応じる者はいないのだった。
「いや、これは絶対おかしいです! 貴方達は死ぬ気ですか? 私も一度ここに潜ったことがありますが……その時の彼等は、文句なしの準備で壊滅したんですよ! もっとしっかりと準備をするべきです!!」
無謀だと彼女は思った。だから、大声で彼らに反論した。
万全な状態でも死ぬ恐れがあるこの箱の中で、唯一近所へ遊びに来ているような服装の彼ら。緊張感はそれぞれが十全に持っているようだが、回復薬を一つも持っていない時点で死にに来ているようなものだ。
「準備って、例えばどんなのだ?」
氷雨は思わずクリスに聞き返した。
「死なない為の準備です! だから冒険者は死なないようにより高い武具、より高い回復薬に手を出します! それが氷雨さんには無いのですか!?」
「ああ、お前が言ってるのはそっちなのか」
彼はクリスの口上と、自分の考えとの違いに気づいた。
氷雨もしっかりと、気構えという“心”の準備は常にしていた。いつ誰に襲われようが、敵を返り討ちにするという心構えはもう持っているのだ。
だが、彼は道具に関しては全く用意をしていない。
武具は必要ないから興味も無く鍛冶屋なんてい行かないし、回復薬などの薬物類は現実にそんな便利な物が無かったので、手に入れようとも思わなかった。
「そっちって……他にどのような準備があるのですか?」
「いつでも戦えるという気構えだろ」
「えっ!?」
「いや、なんでもねえよ」
氷雨の考えは、一般の考えとは――ずれていた。
彼は、死なないために戦っているのではない。日々の糧を得る為、明日を過ごす為に戦っているわけでもないのだ。
――彼は、戦いたいから戦っていた。強くなりたいや誰かを守りたいの理由があるのではなく、ただ、心が、血が、本能が、叫ぶから戦っていたのだ。
だが、こんな与太話を人にしても、煙たがられるのは目に見えてる。
狂人か変人か。
三人にばれても問題は無いのだが、何故かそれを氷雨は拒んだ。
もしかしたら、嫌だったのかもしれない。――祖父の言ったとおり、堕ちかけているのを認めることが。
「分かったよ。分かった分かった。次から――な」
「そうですか! 分かっていただけで幸いです。」
「うん。アニキ、そこはオレも賛成する。アニキは準備をもうちょっとした方がいいと思うよ」
氷雨はクリスとカイトの口うるさい意見に反対することも無く、適当に答えていた。クリスは全身全霊で氷雨を説得したので、少しは彼にも思いが届いたようだ。
「そう言えば、まだ運がいいようで敵には会ってないですが――」
クリスが思い出したことだった。
四人はまだ二階にいる。
その間に通常ならどんな冒険者でも特殊な技を使っていない限り、怪物の一匹や二匹に会うのだが、まだ彼等は一匹も会っていない。
異様――ではあったが、
グルルル!
遠くからすぐに獣の呻き声が聞こえたことで、特に気にはしなかった。
「――いえ、勘違いでしたね」
その遠吠えが聞こえ、最初に動いたのは氷雨。
風のように速く走り、敵の元へと走る。
三人の前からは、灰色のマントが深い闇に消えた瞬間であった。
「あっ! おにいちゃん!」
それをユウを始めとした三人は、すぐに追いかけた。
直後、鈍い肉がぶつかる音が鳴り、獣の悲痛な声が響く。三人の歩みを速めるのに、それ程適したものは無かった。
「アニキ!」
思わず、カイトが叫んだ。
「なんだよ、一体。ちゃんと拾っとけよ?」
木霊する少年の声に返ってきたのは、青年のいつもどおりの声だった。
敵は――既に葬られており、結晶石へと変化している。ユウは氷雨の指示通り、結晶石を持っていた巾着へ入れていた。
「うん……分かってるよ……」
カイトは、あの時、氷雨が敵の声を聞いた時、口が“にたあ”と嗤っているように見えたのだ。
それが、カイトの背中に鳥肌を立たせた。
仲間だというのに、それがとてつもなく怖かった。ベルよりも、幽霊よりも、だ。
(足りねえ。全然足りねえよ)
一方の氷雨も、つい先日――クリスを連れ帰しにきた兵士の時に出た“鬼”が、また再発したのだ。カイトが感じた恐怖は、“これ”であった。
――肉が欲しい――血が欲しい――興奮が欲しい、と欲望の限りを身体の奥で訴える。
彼も、それを前回同様、止める気が無い。
原因がストレスだからだ。
この数日の間に溜まった戦闘衝動。一昨日の兵士達と行った、満足できなかった戦い。その他としては、強敵と巡り合えないことが。
“鬼”の出現理由となったのだった。
「ヒサメさん、これからどうしますか?」
だが、そんな彼の様子に気づいたのはカイト一人だった。
“鬼”が表に出たのは、敵の声を聞いた刹那。その瞬間だけだった。ゆえにクリスとユウは、彼のその貌を、見ていない。
だから、クリスはなんの畏れもなく氷雨へ話しかけれるのだった。
「先へ――急ぐぞ」
依然として、氷雨は嗤っていない。
だが、着実に“鬼”は彼の心の中で蔓延していた。それが幸か不幸か、まだ誰にも分からないのだった。
そして、四人はまた迷宮を進むのである。
――4階。
シュピンネがいた。
それも一匹ではなく数匹。
氷雨はそれの頭に踵を落とし、左の拳でアッパーのように突き上げた。
決してとどめは刺さず、後ろでナイフをしっかりと握るカイトに手柄も経験値も譲っている。クリスはそんなカイトの援護を魔法でして、ユウは斃した後の結晶石を拾っていた。
――5階。
オーク種であるゴブリンが、狭い道を阻んでいた。
背は80センチにも満たず、四肢は短く太い。尖った大きな耳に、緑色の体色。手には短い棘のついた棍棒を持ち、まさしくメンシュと双璧を成す人型怪物だった。
質で戦うメンシュ種とは違って、量で戦うオーク種。当然のことながら量は多い。
数としては五匹。しかし、獲物を見つけば仲間が仲間を呼び、狭い通路にわらわらと湧くそんな怪物だ。
それに自己防衛しかしないメンシュ種とは違って、彼等は酷く好戦的だ。獲物を見かけたら襲うという獰猛さを持ちえている。
「お、おねえちゃん……」
数匹の奴らを見て、その牙の間から流れ出る涎を見て、ユウはゴブリンに畏怖した。ぎゅっと、近くにいたクリスの腰に抱きつく。カイトもクリスも態度には出さないが、気持ちはユウと一緒だった。
“小鬼”そう呼ばれるのも納得できる形相であった。
ブォオオ……!
唸る小鬼。
だが、ここにもう一匹の“鬼”がいた。
彼もまさしく“鬼”だったのである。
ゴブリンを斃そうとする彼に、戸惑いの二文字は無く、躊躇の二文字は無かった。
「――まあ、待ってろ」
「ひ、ヒサメさん……!?」
大きく足音を鳴らしながら、氷雨はゴブリンへ近づいた。
ゴブリンはその声と足音に気づき、目を輝かせ、より一層激臭のする涎を地面へ垂れ流している。早々とゴブリンは、いい獲物であろう氷雨に、“歓喜”の感情を思ったのだ。
ダンッ!
だが、それは勘違いであった。
ゴブリンが棍棒を振るその前に、氷雨は右足を大きく振りかぶった。
上から下へ。踵落しではない。膝を折り曲げ、下へ足の裏を真っ直ぐ落とす。俗に云う踏み付けであった。
ヴゥオオオオ!!
ぐにゃっと、氷雨は柔らかい肉の触感を靴越しに味わった。
三人には暗かったためよくは見えなかったが、想像はできる。一匹のゴブリンが、息絶えた瞬間であった。
ブンッ!
そんな氷雨へ、他の一匹のゴブリンが、棍棒を振るった。
棘のついた棍棒は、氷雨の右腰を薄く切り裂きながら殴打する。おそらくマントの下では青く膨れ上がり、血が滴り出てるだろう。
しかし、氷雨は声一つ漏らさない。
その反撃してきたゴブリンの頭を掴み上げ、大きく腕を回して横の壁へ叩きつけた。
ピコーン、力量が14になりました。
また、一匹、ゴブリンが息絶えた瞬間であった。
「あ、アニキ……」
“鬼”が表へと出ている氷雨に、届く言葉など――ない。
また、別のゴブリンがただちに大きく棍棒を振りかざした。
氷雨は、今度は受け止めずに避ける。そのゴブリンの右側面へと回り込み、足を大きく後ろへ引いた後の足の甲での蹴り。
頭を狙うサッカーボールキックだった。
大の大人でさえ、一発顔面へと喰らえば悶絶し、気絶するような業。
それが――効かないわけがない。
身体の小さなゴブリンは、その業だけで、大きく飛び、遠くの地面へと転がった。
だが、低い声が“まだ”聞こえるので、どうやら死んではいないようだ。
今度は残った全てのゴブリン――三匹が、一斉に攻撃してきた。
ゴンッ!
棍棒の地面を叩く音が、三重となって響いた。
残念ながら氷雨には、当たらなかったようである。
そんな氷雨はといえば、上空にいた。彼の類稀なる危機感知能力が、四方ならぬ三方から囲むように狙うので、逃げ場所が上にしかないと判断したのである。
「……」
下に舞い降りた彼は、無言でゴブリン共を蹂躙していく。
そんな氷雨の貌は、“明らか”に嗤ってる。
ある者は上に持ち上げてからの膝蹴り、ある者は真下への正拳突き、など様々な方法で斃していった。
やがて、また一匹また一匹と数を減らしていき、最後には遠くへ飛ばしたゴブリンも斃した。
グ……グモォオオオオ!!
最後にゴブリンが奏でたのは、仲間を呼ぶ嘆きであった。
「はあ……」
「お、おにいちゃん? どうしたの?」
既に、敵はいない。
故に、彼は嗤っていない。
だが、氷雨は少し物足りなさそうにしていた。
そんな彼に違和感を感じ、ユウは問いを発した。
「いや、なんでもねえよ。それより――先だ。先へ進むぞ」
氷雨はユウの問いになにも返さず、きびすを返し前へと進んだ。
否、言えなかった。
足りないなど、敵が少ないなど、渇きに満ちているなど、到底言えなかったのである。
「……どうして……ですか?」
傷つき、だが決して治療しようともしない氷雨に、クリスは憂いしか出ない。
――悲しんでいた。
彼の物言わぬ後姿に、彼女は悲しみしか出ないのだった。
――6階。
メンシュがいた。
メンシュ・アイゼン。鉄を纏ったメンシュ種である。
氷雨はそれに三体遭遇したが、全て逃げ出さず、真正面から撃破した。
全て、『竜巻』。
彼は相手の腕に絡みつくように飛び、上腕部を自分の両脚で挟み、同時に小手返しのようにその腕を横に捻って、自分の身体を大きく捻る。
彼は飛びついた慣性と自身の体重、それに小手返しによって、敵を頭から落とすように投げ、そのまま腕を逸らせるように腕挫十字固に似たのを極めたのだ。
投げと関節の複合技であった。
前回斃した方法との理由もあるが、最大の理由は『竜巻』の練習の為だ。
成功すれば強力な業だが、失敗すればリスクも多い業だ。その為、どんな敵と出会ってもかけれるように、練習台として彼はメンシュを選んだのだった。
一気に飛んで――12階。
ここに来るまで彼は、ただの一度も逃走は無く、ただの一度の敗北も無く、全部の怪物を討伐していた。
途中で泉で休憩もしてる。干し肉や乾パンも食べ、腹も満たしている。ただし、もう迷宮に潜って10時間超。
だが、その姿は遠征ではないのなら、冒険者としてはまともではない。
出会った数は全て合わせて三十五とこんなに歩いたわりには少ないのもあるが、やはり誰からも逃げないのは普通としては考えられなかった。
それには、三人の内の誰も止められなかった。
彼は、言っても止まらないのだ。
大丈夫、心配ない、など適当な言葉を見繕ってその場をしのぐ。やはり戦っているのがほぼ彼だけなので、三人も強くは彼に言えないのである。
「アニキ、もうこの辺でいいんじゃねえか?」
全く冒険を終わろうとしない氷雨に、カイトは思わず提案してみた。
「そうだな。じゃあ、次を斃したら……な」
「次って……さっきもさっきもそれだっただろ! アニキはさあ……! もうちょっと自分の体の心配しろよ!!」
カイトは、自然と心の声が出てしまった。
ずっと前からのらりくらりと、自分達への言い訳をしている彼への叫びでもあった。
「ヒサメさん! それは私も賛成です! もう……もう限界ではないのですか!?」
クリスが心配しているのは、彼の体のことだった。
灰色のマントは三割を赤で占めており、通常の冒険者なら迷宮の探索を止めているところだ。
「お、お、お、おにいちゃん!! わたしもおねえちゃんたちに……さんせいだよ……もうそれじゃあむりだって……グスンッ!!」
ユウも泣いていた。
クリスの服の端を、片手で強く握りながら。
氷雨が傷つきながらも戦いを止めないことに泣いているのだ。
「はあ、でもな……いや、気が変わった。あいつを斃したら――帰るぞ」
そんな氷雨も“鬼”がやっと落ち着いたのか、戦いに満足――していた。
だが、目の前に、ぷるぷると震えていたスライムを見つけたのだ。
苦節数十日。なかなか見つからなかったり、見つけてもカイトに討伐されたりと、逃げ出して以来戦う機会の無かった敵だ。
“鬼”による衝動は落ち着いたが、個人的な復讐は別だった。
「あ、アニキ、でも……いや、スライムか」
カイトも、他の怪物なら反対しただろうが、スライムに反対はしない。
所詮、最弱怪物と割り切ったのである。
「――さあ、戦ろうぜ」
氷雨は足を地面に滑らしながら、これまでのスライムに対する“思い”を振り返っている。
弱点を様々な方向で探したこと。どうやって“武器”を使わずに斃すか考えたこと。出会うのを様々に願ったこと。
そんなのが、頭の中で何度も巡った。
プルプル。
そんな返事は、震えるだった。
だが、氷雨はそれでも嬉しかった。
こうして、再度巡り会えたことが。
タッ!
氷雨は歓喜に震えてから、一気に距離を詰める。
そして、そこで止まった。
どうせ反撃はしてこない。ここで、一回彼は集中力を高めたのである。
「ふう……」
まず放った正拳突きは――無駄だった。
やっぱり斬撃系の業でないと無理なのは、分かりきったことだ。
だから、大して落ち込みもしない。
「次は……!!」
今度放ったのは手刀。
鋭い手刀の一閃なら斬れると、そう思っていた。
だが、――スライムは震えるだけ。
祖父の云っていた名人は何でも手刀で斬るとのことから、“まだ”自分は未熟なのだと、彼が悟った瞬間であった。
「はあ、最後か……」
彼の策はまだ残っている。
素手で行える最後の方法。
実は使いたくなかった方法でもあった。
それは何故かというと――口を大きく開き、――綺麗に並んだ白い歯で、――敵に齧り付くからだ。
ぐっ、と顎に力を入れた。
噛み、そしてスライムを強引に食い千切る。彼は口の中に残ったどろっとした触感を、ぺっと吐き出すと、その先にはスライムの部分的に噛み千切られた箇所があった。
――スライムはたった一撃で死ぬ。
その謂れの通り、瘴気となって消え、極僅かの小さな結晶石となった。
「やっとだ……さ、帰るぞ」
「おう!」
「うん!」
「はい!」
こうして、彼の因縁は終結した。
三人は疑問符しか浮かばなかったが、彼にとってはこの世界で一番大切なことだったのだ。
スライム、普通の冒険者には最弱だが、彼にとっては異常であるメンシュ・ブロンズよりも、心に残る強敵になったのである。
やっぱり彼は、――冒険者としては異端なのだった。