第八話 無垢
「はあ、疲れた……」
今は黎明時である。
空がオレンジに染まった頃、やっと氷雨は宿へと戻ってこれた。
ユウはもうおぶっていない。何度か隠れている間に仮眠を取ったユウは、宿の前に来た時に下ろしたのである。
「アニキ、これからどうするんだ?」
「寝る」
氷雨はマントを部屋の中に投げ捨て、二つある内の一つのベットに寝転がった。
実は彼、数時間あった逃亡劇の間に、一時も気を休めていない。常に気を使い、神経を尖らせていた。数分から数十分、仮眠をとっていた三人とは違い、徹夜もあってか目の下のくまが尋常ではなかった。
「氷雨さん、私はどうしたら……」
「知らねえ。勝手にしろ。とにかく俺は寝……る……」
クリスは、これからどうするかの行動方針を氷雨に伺ったが、即座に打ち切られた。
そんな彼は五分もかからずにすうすうと、穏やかな寝息を立て始め、薄い掛け布団を体に巻きつけたまま、眠ったのだった。
十数人の兵士を撃破し、子一人抱えたまま走った氷雨のライフは既に限界だったのである。
「あの、どうしたらいいと思います?」
クリスはカイトに聞いた。
実は奴隷は『スレーブ』によって、寝食はおろか排泄でさえ制限される。主人が自由にしていいとの命令を出すと、奴隷側も好きに行動できた。
彼女は首輪をつけていないのだが、そこだけは氷雨に従おうと思ったのだ。
だが、結果は見ての通りだ。
氷雨は奴隷のそんな予備知識はおろか、関心さえ抱いていなかった。要するに今の彼は、ただ惰眠を貪りたいだけなのだ。
「ええっと、好きにしていいと思うぜ。ずっとアニキと行動してきたけど、基本そんなのだし」
その少年は尊敬する氷雨の無知な言動に、苦笑いしか出なかった。
カイトの思う限り、迷宮でも氷雨はずっとそうだ。基本自己責任で、最低限の命令しかしない。それも流すように言うだけ。失敗もあまり咎めないし、上層部の慣れた弱い怪物を狩る時は、いつも気だるそうにしている。
最近カイトが見極めた氷雨は、殆どの事が“適当”なのであった。
「そ、そうですか……」
クリスが氷雨の行動に戸惑っていた時、ユウに服の端を引っ張られた。
「おねえちゃん、いっしょにねよ?」
「ええっ!? でも私は奴隷ですし……」
「いいから、ねようよ~」
クリスはこの中で一番仮眠を取ったのにも関わらず、欠伸をしているユウに困っていた。
奴隷は――人ではないのだ。――物なのである。
物は人と同じ扱いをされてはいけない。
彼女は、そう教え込まれていた。だから、一緒にベットで寝ようと、誘ってくるユウに困惑していたのだ。
「クリスねえ、寝てやったら? ユウもそれで納得すると思うぜ」
クリスは目だけをうるうるさせ、カイトに助けを求めたが一蹴された。カイトはできるだけ、母親の温もりを欲しがっているユウの願いを、叶えて欲しいみたいである。
「わ、分かりました。では失礼します」
「やった! じゃあねよねよ!」
クリスはユウに続いて布団に入った。
ユウは寝つきがいいのか、すぐに目を閉じ、すうすうと寝息を立て始めた。左手を小さな両手でぎゅっと握るユウに――
「……かわいいですね」
――クリスは顔が若干綻んだ。
奴隷になって数ヶ月。
詳しい年月は暗い牢屋の中にいたので分かってないが、ある程度の日数が経ったのはクリス自身も実感している。その間に受けた“教育”で、奴隷の基礎を学んだので、すっかりワルツに毒されていたのだ。
(こんな穏やかなの……いつぶりでしょうね……)
だが、そんな凍り固まった心も、無垢な汚れも知らない少女によって融かされ始めていた。
何も知らないがゆえの、純粋で裏表がない子供ゆえの、クリスの心の与えた影響である。それはまだ小さな炎だったが、着実に心を溶かしていた。
と、そんな時だった。
――クリスの瞳から、涙が落ちたのは。
「あれ……あれ……なんででしょう? なんで私は泣くのでしょう?」
体の内側にある冷たい氷。
それらがユウによってとけた時、クリスは泣いた。目からポロポロと大粒の涙を流し、ユウの手をぎゅっと握りながら、泣いた。
「悲しくないはずなのに……諦めたはずなのに……どうして?」
クリスは分からなかった。自分が涙の流すわけが。
暗い牢屋で過ごす後、ワルツを憎むように過ごす後、すっかりクリスは人間らしい感情を失くしていた。
だが、今、少しだけユウによって、それが戻り始めた。
そのことが、何よりもクリスの心に、動揺を与えているのだった。
「クリスねえ、オレもいいかな?」
「はい、どうぞ」
「じゃあ……」
そんな二人の和やかな雰囲気に、ちょっぴり嫉妬したカイト。返事を聞くとクリスを真ん中として、布団に潜り込んだ。
仮眠を取ったとしても、眠たかったカイトはすぐに眠った。少年らしいあどけない顔を見てまたクリスの涙で濡れた顔は綻び、泣き疲れた彼女もまた眠りについたのである。
◆◆◆
それから十数時間。
やっと氷雨は眠りから目覚めた。
そんな彼の第一声が、
「なんだこれ?」
これである。
仲良くぐっすりと川の字に眠っている三人に、ふとした疑問が浮かんだのだ。ただし、まだ目は半開きで、脳は完全には覚醒していない。
「まあ、いっか。それより……腹減ったな」
だが、そんな疑問も食欲によってかき消され、上半身だけを起こし腹を擦っている。
ふと窓の外を見つめた。
少し欠けた月と満点な星空。
この世界特有の、綺麗な夜であった。
「何食うかな?」
そんな心打たれるような情景よりも、今の氷雨は飯だった。
ほぼ一日半食べていないのだから、当然のようにも思える。景色なんていくら見ても、腹も膨れないのだから。
「あ、おにいちゃん……おきたの……?」
寝ぼけ状態の氷雨に気づいたユウが、ベットの上で首を傾げる。
彼女もまた、寝ぼけていた。
「ああ、飯に行こうと……」
「わたしもいく!」
「……えっ!?」
「……はっ!?」
氷雨の提案の甘い話に、大声でユウが大賛成した。
一気にご飯という甘い話によって、頭が冴え渡ったのだ。
そんなユウの声は、寝ていたクリスとカイトの目覚ましとなったのである。
「起きたか。どうする? お前らも飯行くか?」
氷雨は起きた二人を見て、提案だけした。
「アニキ! オレは肉な! たっぷりの肉が食べたい!」
「勝手に頼め」
「やったぜ!」
氷雨の手持ちのお金は、まだ10万ギルほど持っていた。
彼も馬鹿ではないので、全財産で奴隷を買うような真似はしないのである。多少のお金をプールするぐらいの知識は身に付けていたのだ。
「あの……では私は……」
「おねえちゃん! いっしょにいこうよ! ここのごはんはおいしいよ?」
「でもですね。私は奴隷ですし……そうだ、氷雨さん! やっぱり、食事の席を共にするのは駄目ですよね?」
今回のユウの意見には、しぶとくクリスは喰らいついていた。
やはり、自分は奴隷なのだと。
だからクリスは、しつこいユウには逆らえそうにないので、氷雨なら共に食事するのを断ると思ったのである。
「好きにすれば? 一々考えるのがめんどくさいし」
彼は、物凄く投げやりだった。
それだけ言い残すと、扉を開けて部屋から出た。
「アニキ! ちょっと待って!」
カイトもそんな彼に続いた。
「じゃあ、おねえちゃん! いこっか?」
「………………はい」
クリスの心の中では数秒の壮絶な葛藤があった後、素直にユウに従う。
彼女の弱点は、小さい子供なのであった。
◆◆◆
ここは、氷雨が泊まっている宿の一階にある食堂ではなく、宿の斜め向かいにある少しだけ飯屋だ。
金属と金属のぶつかる音や冒険者たちの喋り声が中では響き、ジューシーな香りや食欲をそそる匂いが漂っていた。
「あれ、すっごい美人だな?」
「子供連れ……? 家族か? でもなんでここなんだ?」
「おいおい、あいつどれだけ食べるんだよ!?」
その幾つかあるテーブルの一つ。
皆の注目を引き付ける四人がいた。
「うっま! やっぱ肉は焼いたのだな!」
一人は肉汁が溢れている小さな100グラム程度の肉の塊に、ナイフとフォークをあてがい食べている少年だ。
肉は鉄板で焼いたのか、表面には焼き目が綺麗についており、中は赤みのレアで酷く柔らかそうな肉である。味付けは塩コショウしかかかってない。
なのに、何故か特別に美味しそうであった。それは少年が、一口一口幸せそうに口に入れ込むのもあるだろう。
カイトにとって、焼いた肉は久しぶりだ。それに、このエータルで現在流行っている飯屋に来たのも久しぶりであった。
宿の備え付けの食堂よりは割高で、メニューの種類も多いこの店。
味は、やはり、格別であった。
「おねえちゃん! それ!」
「これですか? 殻はどうします?」
「とって!」
女性陣二人は横に仲良く座って、夕食を食べている。
ユウとクリスが食べているのは、近海で取れた豊富な魚介類だ。様々な大きな貝や、蟹っぽい生物。他にも数種類の魚などである。
そんな食材の調理方法は、様々である。
貝は網にぱかぱかと開かれたまま焼かれたのを、塩だけで頂く。蟹は湯引きしたのをぽきんと関節を折って殻を取り、一口で頂く。魚はムニエルで頂いたり、ブイヤベースで頂いていた。
どれも氷雨と比べると少量であったがまだ作られたばかりで、暖かい湯気が空中に待っている。
「それもとって!」
「はい。と、その前にお口を拭きましょうか?」
「うん!」
クリスはそれを、じっくりゆっくりと味わっていた。ユウはすぐに口を汚すので、それを拭きながら。
――母子か姉妹か。
初めて彼女らを見た人には、仲良し家族に見えた。
そんな中に入り込む勇気など、このお店の中にはいなかった。ゆえに誰もクリスにナンパなど、しないのであった。
「……」
がつがつ。
そんな効果音が流れるかのように、氷雨は次々と口へ流し込むように運んでいた。
彼の食べているメニューはクリスとカイトとユウ、三人が食べているメニューを別途に頼んでおり、それにまたパンを数個。拳大ほどのチーズと、大きな大皿に乗ったグリーンサラダまで食べていた。
その量は、店にいる客の中で一番多い。
本来なら、大食いなど行うような安い店ではないのだが、氷雨はそんなのを気にしない。筋肉に溢れた猛者にも負けず、次々と口いっぱいに頬張っていた。
「おい、あいつまだ食べてるぜ?」
「頭湧いてんじゃねえか?」
そんな声も聞こえるほど、氷雨は次々と皿を綺麗にして行く。
「あ、アニキ……」
「ひ、氷雨さん……」
食べ終わった彼の仲間も、休憩を入れずに一心不乱に食べ続ける氷雨に引いていた。
それから数分。
最後のお皿を積み重ねると、
「ふう、ごちそうさま」
「おにいちゃん! すっごーい!」
やっと彼も食べ終わったのだった。
量としては二、三キロだ。沢山食べたといっても、たかだかそのぐらいなので、お腹はそれ程膨れていなかった。
そして、四人は会計へと移った。
「ぜ、全部で、9万5千ギルとなっています」
この日、氷雨はお金の殆どを失ったのだった。