第三話 闇夜
深かった。
特に、今宵の闇は深かった。
星も、月も、全てを覆いつくすような雲が塞ぎ、微かな光でさえ地上に降り注がない。このエータルの町に外灯はなく、四人は懐中電灯のような先を照らす道具さえ持ってなかった。
「――皆さん、すぐに私を置いて逃げたほうがいいですよ」
銀髪の美人はこれまで氷雨達に大人しく着いて来たのにもかかわらず、唐突に口を開いた。それは、あのユビキタス商会から出てきて、メインストリートにたどり着いた頃である。
内容は忠告だ。
“先”を知らない彼らに、彼女は親切心から忠告をしたのだ。
「な、なんでだよ!?」
美人に返事をしたのは、氷雨ではなくカイトだった。
昼間とは違い、四人しかいない大通りに慌てた少年の声が響く。
「詳しいことは時間がないから言えません。――ただ、“奴ら”が来ます」
透き通るようなソプラノ声から出たのは、冷徹な助言だけだった。
と、高い声と同時に遠くからは、多数の低い音だ。
「やつらって……もしかしてあれ?」
暗闇の中、その方向を目を凝らしながらユウが呟いた。
それは一定の間隔で刻んでおり、金属特有の鈍い音だった。そして、この世界に訪れてから、聞きなれた音でもある。
――鎧を着た者の歩く音だ。
現代では絶対聞こえず、戦いの絶えないこの世界ならではの足音である。
「すいません。私が原因です。本当に申し訳ありません」
銀髪の美女は声質からして、哀しげ顔をしていただろう。またもワルツに利用されたのを、優しい彼女は本当に悔いていたのだ。
だが、ワルツに逆らうことは出来ない。
彼女がワルツにとっての“餌”だからである。
「――へぇ……!」
だが、そんな慈愛に満ちた警告を、氷雨は聞いていなかった。
極上の“餌”に寄ってきた虫に期待を寄せ、意識を“敵”のみに向けていたのだ。
見えない敵は、足音から察するに二十数人。武器は不明。強さは中堅者より低い、が、氷雨の見立てだった。
「あ、アニキ……オレらはどうしたらいい?」
戦闘態勢に入った氷雨を見て、カイトはこれから来るであろう惨劇に怯えながらも、自分の行動の指示を求めた。それは氷雨が戦い好きだと、少年はこの数日の間で学習していたからだ。
そして、その戦いを邪魔されると、彼の機嫌が悪くなるというのも学習していた。
触らぬ神に祟りなし。
その諺どおり、カイトは余計なことをしない為、自分達にとってではなく氷雨の為に指示を求めたのだった。
「邪魔だから端で隠れてろ」
「うん、分かった! ユウ、こっちだ」
「ちょっとまって!」
カイトは氷雨に従って、数十人の兵士に見つからないような小脇の道を見つける。少年は妹を戦いに巻き込まないようにと、手を引っ張るがユウのわがままに止められた。
「おにいちゃん……がんばってね!」
氷雨へと近づき、声援を送ったのである。彼はユウの応援に、口角だけ上げて答える。それを見たユウは満足し、カイトのいる路地裏へと隠れたのだった。
「――本気ですか?」
だが、氷雨が目をやったそこに銀髪の彼女は居なかった。代わりに隣から疑問の声がやってくる。そこに立っていたのは彼女だ。
「何が?」
「“奴ら”と戦うことです」
彼女は“奴ら”の戦力を知っている。個々の質はお世辞にもいいとは云えないが、数だけは膨大だ。
一方こちらの戦力は、子供二人に力量13の男が一人。間違っても、二十人にも及ぶ兵士に適う戦力ではない。
「本気って言うか、その為にお前を買ったんだぜ」
「は、はい?」
突然すぎた発言に、彼女は疑問と驚きの声しか出なかった。
これまで彼女を買った人間は、その殆どが下劣な者だ。目が欲望に塗れて怪しく光り、口はだらしなく開いたまま。
金は稼げても、人間としては最低だっただろう。
「まあ、隠れて見てろよ」
しかし、近くで見た氷雨は違う。目は闘志にあふれてぎらぎらと光り、口はきゅっと真一文字に縛っていた。
横目に入った背中からは“鬼”のようにおぞましいと思えたが、“あの人間達”と比べたらまだ好感が持てる。
それは彼女自身に敵意が向けられてないからであった。
氷雨の現在の形相は写真で見ても、映像で見ても恐ろしくない。
だが、直接その殺気を身に浴びることにより、初めてその貌に最大限の畏怖の感情が生まれるのだ。そして彼を、恐れ戦くのである。
――だから、彼女は氷雨に少し好感を抱いたのである。
「で、でもっ!! 奴らは危険なんですよ?」
「だから?」
「奴らは確かに力量は低いです。でも、貴方の力量はもっと低いのです! それに数は二十人近く居ます! それに比べて貴方は一人です! 戦力差は明らかでしょう?」
「で?」
「他にも貴方は武器を持ってません! でも奴らは高価な武具をつけているのですよ!」
なので、彼女は捲し立てるように氷雨を説得した。無謀な挑戦をしないよう、自分だけ置いて逃げるよう。
全てが彼を死なせないための、善意からの行動なのだった。
「はあ、でもでもうるせえなあ。そんな戯言はいいから、あいつらと一緒に隠れて見てろよ。――お前は邪魔なんだよ」
けれども、自分本位な善意ほど、鬱陶しいものはなかった。
氷雨にとって戦いは、他の何にも代え難い大切な物だ。そして、それを侵され、邪魔されるのを、彼は最も嫌悪している。
カイトはこの数日でそれを嫌というほど知っているから、先程大人しく身を引いたのだ。ちなみに、ユウはカイトの言うことに従っただけだ。
「……わかりました」
彼女は聞く耳も向けない氷雨へと、ぐっと歯を噛みしめた。
潔くカイトやユウの元へ身を引いた。路地裏まではとぼとぼと歩き、その場所に着いてからもしばらく彼の末路を想像して悲しそうな顔をしていたが、
「おねえちゃん! きっとだいじょうぶだよ!」
「そ、そうですか?」
「うん!」
ユウの無邪気な励ましによって、彼女は少し元気を取り戻せていた。
ガチャンガチャン!
三人は大通りの小脇から、見えない氷雨を見守っている。兵士は氷雨まで数十メートル先の所に来て、主人の命令である彼女を取り戻そうと、腰の剣を抜いた。氷雨はただ一人、敵をきっと睨みつけていた。
「そうそう、お前等。――逃げる準備しておけよ。俺でもあの人数をすべて斃すのは、無理だろうからな。――さあ、戦ろうか?」
そして、戦いの幕は、――氷雨の大声によって開けたのだった。
◆◆◆
ダンッ!
氷雨は敵に自分の居場所が知れるのが分かると、まず地面を強く蹴った。
先制攻撃のためだ。
この戦い、圧倒的にこちらが不利だとは、彼女が言う前から気づいていた。
だが、内に潜む“鬼”が、戦場から逃げるのを赦さない。
――肉が欲しい――血が欲しい――興奮が欲しい、と身体の中で暴れ回っていたのである。
彼もそれを制御しようとは、思わなかった。
理由の一つに、ストレスが溜まるから。それに、もしそれが何かの拍子に“鬼”がはじければ、被害がカイトやユウにまで及ぶかも知れない、と彼は危惧していたのだった。
しかし、だからといって、たかが欲望の為だけに無駄に神風特攻をして、死ぬわけにもいかない。
道は一つしかなかった。
満足に戦った上で、快勝するか逃げる。
その過程の一つが、――先制攻撃なのであった。
「前列っ! 敵は一人っ! 並べっ!」
一方の兵士たちは、急激に近づいてくる一体の灰色の鬼に、警戒を強めていた。これまで二人ずつ真っ直ぐに並んでいた隊列を、一人ずつの大通りを区切るような横一文字に変え、皆が地面と平行になるように刃を敵へ向ける。
これが――ワルツの度重なる“教育”の成果であった。
敵の数ははっきりとしているが、戦力が未知数な状態ではこれがいいと、この軍団の隊長は判断したのだ。
この的確な命令により、これまで力量差という不利があっても、全戦全勝を納めてきた。
いや、失敗すると首につけられた『スレーブ』から、どんな非人道的な命令が降されるという恐怖感からの、必死さがあったのかもしれない。
ダンッ!
氷雨は右の一番端の者まで距離を詰め、地面をもう一度強く蹴った。
空を飛んだのである。
兵士は突くように向けた剣を、飛んだ氷雨へと向けるが、
ダンッ!
氷雨に壁を蹴って方向転換をされたせいか、無残に脳天に踵落しを喰らった。
「うがっ!?」
力量が低いせいか実践経験が低いせいか、詳しい原因は不明だが、その兵士は命令に従うことは出来ても、氷雨のフェイントに攻撃を合わせることは出来なかったのである。
兵士は酔ったように千鳥足になっていた。
「全体っ! 囲めっ!」
彼の追撃よりも、隊長の判断のほうが早い。
兵士たちは一定の間隔を開け、壁が直径となるように、半円となった。剣は先程と同じく構えている。
(厄介……だな)
それが氷雨の感想だった。
実力は高くないが、指揮がしっかりとしいている。まるで、山狩りをされてるような気分だ。じわじわと追い詰められ、ゆっくりと嬲られる。
彼にとって、地味で、興奮の少ない嫌な戦い方だ。
「とつげ……」
次の瞬間、氷雨は兵士たちに先手を取られる前に、酔っ払いを蹴った。
囲んだ兵士に盾として、ぶつけたのである。
「なっ!?」
兵士達は大きく悩んだ。
仲間を切るべきか、優しく受け止めるべきか、大きく悩んだ。
だが、――その刹那の迷いが、氷雨にとっての狙いだった。
――灰色の鬼は、次の瞬間には闇夜に舞っていた。
その隙をついたのである。
◆◆◆
「カイにい、あれいったいどういういみ?」
道の真ん中では激戦が起こっている所ではなく、細い道の中でユウが疑問をあらわにしていた。氷雨の発言の意味が、いまいち分からなかったのである。
「そのままだよ! アニキはきっとオレ達の身を案じてるんだよ! だから、ピンチになったらすぐに逃げろと言いたかったんだよ!」
「へえ~! やっぱりおにいちゃんだね!」
「だろ?」
カイトは氷雨の言葉をいいように取っていた。
(本当にそうなのでしょうか?)
だが、銀髪の彼女だけは、子供達と一緒にいながら、別の考えに染まっていた。
――負けた場合の懸念だ。
彼は圧倒的戦力差を痛感していながらも、“何かの理由”により撤退できない。だから、あの中隊からも逃げなかったのではないか、と考えたのだ。
そんな風に、難しい顔をしていると、ユウが彼女に声をかけた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「い、いえ、なんでもありませんよ。そう言えば、音が消えてますね」
「そうだねえ! なんでかなあ?」
彼女は自分の話題を逸らすため、彼の激戦の場へ視線を向けた。
そこは、氷雨が戦っていた時と比べると、無音に近い。
(いや、まさか……ありえないですよね?)
銀髪の美女は、最悪の結末を予測した。――彼の死である。
彼が死んだために、静寂が訪れたのではないかと思ったのだ。
「みなさん! いますぐ……」
「――よし、逃げるぞ」
だから子供達に逃げるよう、と言おうとしたが、いつの間にか横にいた――氷雨に遮られた。
偶然にも、言葉の内容は同じであった。
「あ、アニキどういうこと?」
「簡単に言うと、――無理だ。色々と」
氷雨は自分から始めたが、三人斃したところで、これが負け戦になると気づいた。
まず、敵一人を斃すのに無駄が多い。次に一桁までの人数なら何とか斃せるが、数十の統率された兵士を退ける経験が足りない。
これらの理由から、自分にはまだ“一騎当千”の実力はないと判断したのだ。
――つまり、氷雨は、まだ武術の至極まで辿り着いてないのだ。
だからある程度“鬼”が満足したところで、氷雨は戦闘を切り上げたのだった、
「えっ!? えっ!? なにが……どうなって!?」
そんな氷雨のすぐ横で、この急展開に驚いた彼女が居た。様々な現象が一気にやってきたので、それを消化できてないのだ。
「あの人数は俺でも斃すの無理だから、今から宿に帰るんだよ。ほら、あの音が聞こえるだろ?」
後ろでは「追えーーーー!!」等の怒声や、低い足音が沢山聞こえる。
氷雨は勝てないと思ったことに、悔しく思っていた。子供達二人は目を点にしながらも氷雨に従い、逃げる準備を開始した。彼女はわけが分からなくとも、氷雨の背中についていこうと決意している。
「ユウは俺が背負う。――さあ、死ぬ気で逃げるぞ?」
――こうして、凸凹な四人と一八人の鬼ごっこは始まったのだった。