第一話 日常
「ほれ、避けんか!」
早朝、静かな山奥にしゃがれた声が響いた。それは眠気を邪魔するのには、最適な殺気だった声であった。
だからか、危険を察知した小鳥達が飛び立ち、木々がざわめく。
「うるせえ! ジジイこそ孫相手に背中を狙うな!!」
次に森に響いたのは、低い青年の声。こちらもドスの効いた“怖い”声だ。
そんな二つの声の出所は、山の中腹にある小さな神社の裏手にある板間の道場だ。
中にいた者は――二人。
どちらも一流と云える武芸者であった。
片方の青年は汗で黒く汚れた道着と白い帯を着ており、背は170後半。腕や足などの体は遠くから見れば細く見えるが、実際に近くで見ると常人の“それ”より太く、細かな傷もついており一般人の腕とはまるで違っていた。
そんな青年と対峙していたのは、白髪の老人。
青年と同じような道着だったが帯の色だけは黒で、それだけでも強いと錯覚する。そして、その老人の最大の特徴は青年より細い体躯で、筋肉も然程しかない肉体だ。しかし、無駄な贅肉もついていない。
まさしく、不必要な肉を全て削ぎ落とした体だった。
そんな風貌の二人は、殴り合っていた手を止め、一旦距離をとった。即座に二人は睨み合い、――同時に踏み込む。
青年は拳で、老人は足で、それぞれを狙い、やがて拳と足が激突した。
一般的に手と足では足のほうが三倍強いと云われるが、この二人の威力は同等だった。
若い故の青年の優れた瞬発力が勝ったのか、やはり老いた老人の肉体が負けたのかは分からない。
だが、どんな結果であろうと、威力が同じだった“事”に違いはない。
なので、二人はその結果に大した動揺は見せず、すぐに次の行動へと移る。
最初に仕掛けたのは青年だ。
ぶつかった右手をすぐに引っ込め、右手で老人の胸倉を掴む。老人は蹴りだった為、次の動きへと移るのは遅れたが、それでも負けてはいなかった。
老獪とまで云われる、永い年月をかけた技術のみで青年の胸倉を掴んだ腕を、左で持ち、肘を右手で逆方向に――極める。
「糞がっ!」
しかし、青年もすぐに反撃した。
関節が極められていない逆の二本の指で、咄嗟に老人の目を狙う。
「うわっ! 危ないのう。いたいけな祖父を殺すつもりか?」
老人はこれに対して急いで両手を離し、後ろに上体を倒す。ようするにスウェーであった。
「いーや、老人思いの俺が、そんな事するわけないだろ。それより、ジジイも折るつもりだったのか? 俺の右腕」
「いーや、孫思いのわしが、そんな虐待のような事するわけないじゃろ」
似たような答えを返す二人。
青年は口では笑っているが、目が笑っていなかった。勿論、老人も口では笑っていたが、目は笑っていない。
「ははっ……」
「ほほっ……」
両者とも分かっていた。
乾いた笑いをしながら、お互いがお互いに本気だったのを。しかし、表面上では冗談のように振舞っている。
とんだ茶番だ。
本当を知っているのに、あえて知らない振りをする。
だが、そんな偽りは長くは持たない。込み上げる激情は、そう我慢できるものではないのだ。
「死ねやっ!!」
「くたばれっ!!」
やがて、似たもの同士の二人の堪忍袋の緒が同時に切れ、――またぶつかり合った。
◆◆◆
「はあ……」
こんな朝が、あの二人には毎日のように訪れていた。メビウスの輪のように、昔から永遠と続いていたのだ。
だからか、この光景を、もう千を超えるほど見たこの光景を、道場の外から見ていた女性がそっと嘆息する。
「氷雨もお祖父ちゃんも止めなさいっ!!」
そして、大声で二人を止める。
二人は何度も交わりながら戦いあったのが、目に見えるほど汗をかいている。これを見た女性は、また洗い物が増えた、と溜息を吐いた。
先程の一瞬は、この二人にとっては、ほんの短い時間なのだった。
彼女の声が耳に届くと、そんな二人も動きを止める。
両者とも相手に対するぎらつく目を押さえ、エプロン姿の彼女に目を向けるのだ。
「ほう、もう朝食か。小僧、命が助かったな」
「そういえば腹が減ったな。ジジイこそ死期が早まらなくてよかったな」
戦いが終わった後の、こんな言い合いも日常のように行われていた。
そんな祖父と弟には、同族嫌悪の言葉がよく似合う。
性格も、戦い方も、遺伝子でさえも似ている二人。
だから、まるで自分を見ているようで苛立つ。
何故、自分も同じような遺伝子なのにこうはならないんだろうと、彼女は不思議に思った。
(そういうわけね。性別が違うからか)
勝手に彼女はそう納得する。
もとより、こんな疑問などどうでもいいこと。
なので、適当に理由づけるのであった。
◆◆◆
それは、これまたいつもどおりの静かな朝食の風景だった。畳に置かれた長いテーブルに姉弟そろって座り、その向かいに祖父が座る。
それぞれの目の前には焼き魚と味噌汁とご飯が置かれ、テーブルの真ん中には白菜の漬物が置かれていた。
「姉ちゃん、たしか今日が発売日だよな」
先程戦っていた青年が、味噌汁を啜りながら尋ねる。
今は道着ではなく黒い学ランを着ている彼は、エプロン姿の彼女の弟で、あの老人の孫だ。
名は、南雲氷雨。
高校二年生の彼は、一般的に見れば地味であった。
今は春先なので長袖。だから服の上からでは筋肉は見えなく、細かい傷痕も見えない。
勉強の成績は平凡的で、理数系が少し苦手な程度。
体育は少し得意だが、それも部活に所属している者には負ける。専門職の人間には、いくら彼でも敵わないのだ。
顔つきは目が少々鋭いだけで、ほかに目立つようなことはない。髪は染めてもなく普通の黒色である。
友達は多くもないし少なくもない。クラスの皆と喋るが、いつもは4,5人ぐらいのグループにいる。
これまた地味だ。
当然ながら、そんな彼に目立った噂はなく、今後も生まれる予定がなかった。一つあるとすれば、姉の話題ぐらいだろう。
クラスの女子には、「ああそんな人いた」としか認識されてない。
さらにクラスの全員が、彼が山奥に住んでいるので祖父から武術を嗜んでいる事など、友達も知らない。
ゆえに学校の皆には、氷雨は一般人としか認識されていなかった。
「ええ、そうよ。ちゃんと氷雨の分のゲームも、予約しといたから安心していいわよ」
「ふう、良かった。もしも俺の分が無かったらどうしよう……と思ってたところだな」
お茶を一杯口につけた彼女が氷雨の問いに答える。
彼と彼女が言っているゲームは、本日発売の世界初VRMMORPG、“ダンジョン・セルボニス”だ。
これは実際に体験できる“バーチャルリアリティ”という最新のバーチャル技術を使ったゲームで、“リアル・カモフラージュ”という機械を使うことによってそのゲームに応じた仮想現実へと行けるのだ。
その画期的なシステムが使われた第一陣のゲームが“ダンジョン・セルボニス”で、彼も彼女も楽しみにしていたのだ。
「それも見てみたいわね」
「……勘弁してくれよ」
優しげに氷雨に微笑む彼女の名は、南雲雪。
少しの乱れもない真っ直ぐな黒髪は長く、肌は真珠やシルクのように白い。目はぱっちりの二重で、セーラー服からは体の細さが伺える。
正座をしながら朝食を食べている彼女は、誰が見ても日本人形のように美しいと思うだろう。
学校で勉強の成績がよかったり、運動が出来たりと、彼女は優等生扱いされていた。さらに美人だが誰とでも分け隔てなく接し、優しいと、校内でも男女問わず人気の高い女性だ。
地味な氷雨の話題がクラスで挙がるとしたら、殆どが彼女の弟だということでもあった。
「にしても、姉ちゃんがゲーオタだって学校の皆が知ったら、どんな顔をするんだろうな?」
「驚くんじゃないの?」
「なあ、冗談で姉ちゃんがゲーオタって、言ってもいいか?」
「――殺すわよ?」
「だ、だよな……」
雪は氷雨の質問に、箸をばちんとテーブルに叩きつけて答える。まさしく雪のような冷たい殺気が、彼女からなだれ出た。
誰もが羨むような完璧さを持つ彼女にも、やはり隠しているとある“秘密”があったのだ。
それは生粋のゲームオタクだという事。
携帯ゲームからテレビゲーム。それまたネットゲームまで、RPGなら大体手をを出している。ほかにもSTGやFPSなど、種類は様々だ。
だが、彼女はそれが回りに知られると、自分の周囲の評判を落とすことをよく分かっており、それをひたむきに家族以外には黙っていたのだ。
「ふん、氷雨に一言釘を刺しておくがな。いくら、ばーちゃるりありてぃーでも、武術の腕はまったく上がらんぞ!」
朝食の途中、ゲームの話題があがる度、祖父は氷雨にことある度にしっかりと言い聞かせていた。
いくら仮想現実でも本当の現実とはまるで違う、ということだ。
祖父は薄々だが、氷雨が誰かと戦いたがっていることに気づいていた。
交通事故によって親を亡くした孫を引き取ると、二人を甘やかしてはいけないと心を鬼にしながら己が嗜んでいた武術の稽古をつけた。
その方向性を氷雨だけちょっと間違えたな、と思う。
雪は別だ。
彼女はいい姉として、いい女性として、素晴らしく成長した。
だが、氷雨は違う。
彼の組み手相手は、幼少の頃から実の姉と祖父だけだった。
――故か、氷雨は血に餓えている。
「けっ、だからなんだ。ジジイには関係ないだろ」
食べ終わっていた氷雨は、祖父に悪態付きながら、学校の準備に自分の部屋へと戻った。
「おじいちゃん、じゃあ私も行くね」
「お、おう。氷雨を宜しく頼むな」
「うん、分かってる」
と、彼のすぐ後、雪も部屋へと戻る。朝食の食器は全自動の食器洗い機に入れれば済むので、それは祖父の仕事だ。雪に迷惑をかけないため、祖父が自ら提案したのであった。
そして、その数分後、姉弟の二人は学校へと出かけた。
「はあ……」
そして、二人が学校に向かった後、こうして縁側で神主の格好をしながら、祖父は一人考えに耽った。
――修羅道へと堕ちれば、二度と人へは戻れない。
祖父は知っている、堕ちた者の人生を。
祖父は知っている、堕ちた者の結末を。
しかし、いい案が出ない。
「さてどうしたものかのー」
だから白髪の老人は、そう溜息を吐くのであった。