第1話『人生のはじまり』
「うう、痛い……」
ティプスタンは左目を押さえながら、焚き火の前に座り込んでいた。
目の周りがじんじんと痛む。
たぶん、青アザになっている。
原因は――目の前に立つエルフの少女。
名を、ルベッカという。
青みがかった長い髪を、後ろで一つに束ねている。
「謝罪します」
銀縁眼鏡の奥からティプスタンを見つめ、淡々と言った。
その隣では、小柄な少女が腹を抱えて笑っている。
橙色の癖っ毛が、笑うたびにふわふわと揺れていた。
薄く日に焼けたような肌。
目の下には、そばかすが散っている。
頭には、ウサギ耳のようなものをつけている。
ミミリルだ。
「いやー! びっくりしたゾ!」
「笑い事じゃないよ!」
ティプスタンは思わず抗議する。
「殴らなくてもいいじゃないか!」
ルベッカが眼鏡を押し上げた。
「目を覚ましたら、テントの中に見知らぬ裸の人間がいたのです。警戒するのは当然でしょう」
「そうなの!?」
「そうです」
今はミミリルから借りた黄色いマントを羽織り、どうにか身体を隠している。
ミミリルがまたケラケラ笑う。
ルベッカは彼女へ視線を向けた。
「それより、この状況を説明してください。ミミリル」
「あのな。ティプスタンはウチの《スプリ》で生まれたんだゾ!」
「…………」
ルベッカが黙る。
ほんの数秒。
「なるほど。理解しました」
ティプスタンには何一つ理解できない。
ルベッカはミミリルへ問いかけた。
「ですが、なぜ今スプリを?」
「えっと……」
ミミリルが急にしおらしくなる。
「やってみたくて……」
「相変わらず、好奇心の塊ですね。あなたは」
ルベッカがため息をついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
置いていかれたティプスタンが身を乗り出す。
「スプリって何? それに、生まれたってどういうこと?」
ルベッカは彼を見る。
「《スプリ》は、ネクロクレイマンが新たな個体を生み出すための分裂能力です」
「ネクロクレイマン?」
「種族名です」
「じゃあ、僕も?」
「はい」
ルベッカはミミリルを示した。
「ネクロクレイマンは一定の年齢に達すると、《スプリ》が可能になります。自らの身体を分裂させ、新しい個体を生み出せるのです」
ミミリルが得意げに胸を張る。
「つまり、ティプスタンはウチから生まれたんだゾ!」
「ミミリルから……僕が?」
「でも、分裂したんだよね。ミミリルは大丈夫なの?」
「大丈夫だゾ! この通り、ぴんぴんしてるゾ! それに、スプリすると若返るからな!」
「若返る……?」
「はい。スプリした個体は、身体年齢がおよそ半分まで戻ります」
「半分……?」
ティプスタンは思わずミミリルを見る。
それから、自分の手へ視線を落とす。
指を曲げる。
開く。
思った通りに動く。
間違いなく、自分の身体だ。
それなのに――どこか実感がない。
「分裂……」
口にすると、その言葉が妙に重く感じられた。
頬に触れる。
額。
鼻。
顎。
首。
肩。
ひとつずつ確かめていく。
「……これが、僕の身体」
言葉にしても、まだ腑に落ちない。
その様子を見ていたルベッカが、鞄から何かを取り出した。
手鏡のようだった。
銀色の縁には細かな紋様が刻まれているが、中央にあるのは透明なガラスだけ。
柄には紫色の宝石が埋め込まれている。
ルベッカが手鏡を掲げる。
「リフレクト・アクティベート」
宝石が輝き、紫色の光が手鏡に走った。
透明だった表面が揺らぎ――やがて鏡へと変わる。
「どうぞ」
差し出されたそれを、ティプスタンは恐る恐る受け取った。
そして覗き込む。
「…………」
少年がいた。
赤い短髪。
茶色い眉。
二重まぶたの奥に、ライム色の瞳。
くすんだ色の肌。
見覚えのない顔。
「……これが、僕?」
頬に触れる。
鏡の中の少年も、同じ場所へ手を添えた。
奇妙な感覚だった。
ルベッカは、鏡を覗き込むティプスタンをじっと観察していた。
「どうも……妙ですね」
「妙?」
ティプスタンが顔を上げる。
「ネクロクレイマンは、身体年齢十歳前後で生まれます。ですが普通は、すぐに身体を動かしたり、言葉を話したりはできません」
「そうなの?」
「はい。会話ができるようになるまで、おおよそ一週間ほどかかります」
ティプスタンは自分の手を握り、開いた。
「でも僕、普通に動けるし、話せるよ?」
「そこです」
ルベッカの青い瞳が、わずかに細くなる。
「動きも言葉も自然すぎる。まるで――すでに経験しているように見えます」
「経験……?」
ティプスタンは眉を寄せた。
「それが変なんだ。何も覚えてないんだよ」
「生まれたばかりなんだから、当然じゃないかの?」
ミミリルが首を傾げる。
「……」
ティプスタンは胸元を軽く握った。
「初めてなはずなのに、初めてって感じがしない。何かを忘れてるような……」
ルベッカの表情がわずかに変わった。
「忘れている……ですか」
「うん……」
ルベッカはしばらく彼を見つめた。
「……記憶喪失に似ていますね」
「記憶喪失?」
「ただし、あなたには失うはずの過去がない。それなのに、『忘れている』と感じている」
ルベッカは少し考える。
「症例としては――《アイデンティティ・ブランク》に近いですね」
「アイデンティティ・ブランク?」
「知識や能力はあるのに、自分自身に結びつく記憶だけがない状態です」
一拍置いて、静かに続ける。
「言うならば――自分の物語だけがない」
「自分の……物語」
ティプスタンは鏡を見る。
身体の動かし方も、言葉も知っている。
けれど、自分だけの出来事が何一つない。
「だったら、これから作ればいいんだゾ!」
ミミリルの声が飛び込んできた。
「これから色んなことして、いっぱいワクワクすればいいんだゾ!」
ニシシ、と笑う。
その無邪気な顔を見ているうちに、胸の奥の重さが少しだけ薄れた。
「……そっか」
自分の物語がない。
そのことは、まだ妙な感じがする。
でも――
「そうだよね。これからなら、あるんだよね」
「もちろんだゾ!」
ミミリルがにっと笑う。
ティプスタンもつられて笑い――ふと、自分の姿を見下ろした。
借り物の黄色いマントは、裾が膝の下まで届いているが、肩まわりがきつく、どうにも着心地が悪い。
ティプスタンは前を押さえながら、困ったように笑う。
それを見ていたルベッカが言った。
「そのままでは不便ですね。あなたの服はククルシアで用意しましょう」
「ククルシア?」
「これから向かう街です」
「ウチの冒険者登録をするんだゾ!」
ミミリルが嬉しそうに拳を掲げた。
「冒険者?」
「そう! 冒険者になって、世界中を旅するんだゾ!」
目を輝かせるミミリルを見て、ティプスタンの胸も少し弾んだ。
「世界中……」
知らない場所。
知らない人。
知らないもの。
今の自分には、そのすべてが本当に未知だった。
「なんか……楽しそう」
「だろ?」
ミミリルが満足そうに笑う。
「ワクワクするゾ!」
そのとき。
東の空に光が差した。
「……朝ですね」
ルベッカが空を見上げる。
夜の色が、ゆっくりと薄れていく。
やがて山の向こうから太陽が姿を現した。
金色の光が草原を走り、朝霧に沈んでいた森を照らしていく。
消えかけた焚き火。
濡れた草。
木々の葉。
目に映るすべてが、少しずつ色を取り戻していった。
ティプスタンは黙って立ち上がる。
これが――朝。
「……きれいだ」
自然と声が漏れた。
その視線が、さらに遠くへ引き寄せられる。
朝日に霞む地平の向こう。
そこに――巨大な影が浮かんでいた。
「……あれは?」
ティプスタンは目を凝らす。
山だった。
いくつもの峰が空へ突き刺さり、巨大な山脈が大地の彼方へ伸びている。
あまりにも遠く、輪郭は大気に滲んでいた。
まるで、空の向こうに浮かぶ蜃気楼。
その中心に、ひときわ巨大な峰がそびえている。
ティプスタンは、思わず息を呑んだ。
「ルベッカ」
「はい」
「あれ、何?」
ルベッカも遠くの山を見る。
「あれは――《グラン・エルヴス》です」
「グラン・エルヴス……」
「星落ちの山とも呼ばれています。この世で最も巨大な山です」
ティプスタンは、その名を胸の中で繰り返した。
グラン・エルヴス。
ルベッカは、その周囲へ広がる稜線を示す。
「そこから五つの巨大山脈が伸びています。《星腕山脈》と呼ばれる山々です」
「上から見ると、ヒトデみたいなんだゾ!」
ミミリルが元気よく付け加えた。
「ヒトデ……」
壮大さが少しだけ薄れた気がした。
ティプスタンは小さく笑い、グラン・エルヴスへ視線を戻す。
遠すぎて、細部までは見えない。
朝の光の中で、蜃気楼のように揺れている。
それでも――確かに、そこにある。
胸の奥が妙にざわついた。
怖くはない。
懐かしいわけでもない。
分からない。
ただ――
なぜか、目を離せなかった。
ぱちっ。
背後で、焚き火の最後の炭が弾けた。
赤い光が一瞬だけ瞬き、そのまま静かに消える。
「行きましょう」
ルベッカが荷物を持ち上げる。
ミミリルも元気よく拳を掲げた。
「出発だゾ!」
「うん」
ティプスタンは歩き出しかけて――もう一度だけ振り返った。
朝日に揺らぐ、星落ちの山。
グラン・エルヴス。
ティプスタンは二人の後を追う。
生まれて初めての朝。
そして――
彼の物語が始まった。
2話に続く




