第一話『人生のはじまり』
「いってぇ……」
ティプスタンは左目を押さえながら、焚き火の前に座り込んでいた。
左目のまわりがじんじんする。
青アザになっていた。
原因は目の前に立っているエルフの少女。
名を――ルベッカという。
「謝罪します」
ルベッカは淡々と言った。
ポニーテールの髪が揺れる。
ルベッカの隣では、ウサギ耳のようなヘアバンドを着けた、小柄な少女がケラケラ笑っている。
ミミリルである。
「いやー!びっくりしたゾ!」
ウサ耳がピコピコ動いた。
「笑い事じゃないよ!」
ティプスタンは抗議する。
「いきなり殴られたんだよ!」
ルベッカは銀縁眼鏡をクイッと上げた。
「しかし、裸の男女がテント内にいた場合。危険と判断するのは自然です」
「自然かな!?」
ミミリルは楽しそうに笑っている。
ルベッカはミミリルに視線を移した。
「それよりも。詳細な説明を求めます」
「ティプスタンはウチのスプリで生まれたんだゾ!」
「……」
沈黙が流れ。
ルベッカが腕を組んだ。
「……なるほど。理解しました。しかし……なぜ今、能力を使う必要があったのですか?」
ミミリルがモジモジする。
同時にウサ耳がシュンと垂れた。
「やってみたくて……」
「相変わらず好奇心の塊ですね。あなた……」
ルベッカがため息をついた。
「いや、ちょっと待ってよ。スプリ?ってなに?生まれたってなに?」
ティプスタンが身を乗り出す。
ルベッカは静かに頷く。
「ネクロクレイマンの分裂能力です」
「ネクロクレイマン?分裂能力?」
「ネクロクレイマンは種族名です。一定の年齢に達すると、自分の体から新たな個体を生み出せます。その行為をスプリと呼びます」
「僕は……ネクロクレイマン?」
ティプスタンは、自分の手のひらを見つめた。
指を曲げ、伸ばす。
確かに動く。自分の体だ。
けれど――
どこか、借り物のような違和感があった。
ミミリルが胸を張る。
「ティプスタンはウチの分裂で生まれたんだゾ!」
分裂。
その言葉が、妙に重く胸に落ちる。
ティプスタンは、自分の頬に触れた。
ぺた、ぺた、と確かめるように。
額。
鼻。
顎。
首。
肩。
「……僕の、体」
言葉にしてみても、実感が追いつかない。
その様子を見ていたルベッカが、静かに鞄へ手を入れた。
取り出したのは――手鏡。
だが、普通の鏡ではない。
縁は銀色の金属製で、細かな紋様が刻まれている。
中央の鏡面は、ただの透明なガラスだった。
ルベッカはそれを軽く掲げ、小さく呟く。
「――リフレクト・アクティベート」
次の瞬間。
透明だったガラスに、淡い光が走る。
すっと、表面が変質し――
ガラスだったところが“鏡”に変化した。
「確認してください」
ルベッカはそれを、ティプスタンへ差し出す。
ティプスタンは少し躊躇しながら、受け取った。
そして――
そっと、覗き込む。
「……」
そこに映っていたのは――少年。
赤い髪。
短く整えられたショートヘア。
茶色い眉。
二重まぶたの奥に、ライム色の瞳。
くすんだ色の肌。
見たことのない顔。
でも――
「……これが、僕?」
どこか知っている気もする。
不思議な感覚だった。
ティプスタンは鏡に映る自分の頬に触れる。
鏡の中の“自分”も、同じように触れた。
その様子を――
ルベッカは、じっと観察していた。
「ネクロクレイマンの誕生に立ち会うのは初めてですが」
静かな声。
「生まれたばかりだというのに、流暢に話し、行動もできるのですね」
ティプスタンは鏡から目を離し、少し困ったように笑った。
「それが……変なんだ」
「変?」
「記憶が……ないんだよ」
言葉を探しながら続ける。
「自分が何をしてきたのか、とか。どこで生まれたのか、とか……そういうのは全部、空っぽで」
拳を軽く握る。
「でも、言葉は分かるし。物の名前も分かるし……どうすればいいかも、なんとなく分かる」
少しだけ間を置いて。
「……自分の人生だけ、抜け落ちてるみたいなんだ」
ルベッカはゆっくりと頷いた。
「それは――アイデンティティ・ブランクですね」
「アイデンティティ……?」
「自己史欠損とも呼ばれます」
ルベッカは淡々と説明する。
「いわゆる逆行性健忘の一種です。過去の出来事――つまり“自分の人生の記憶”だけが欠落している状態」
ティプスタンは静かに聞いている。
「しかし、言語能力や知識、常識といった“意味記憶”は保持されている」
ルベッカは眼鏡を上げた。
「簡単に言えば――」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「“自分の物語だけを失った状態”です」
「……」
ティプスタンは、もう一度鏡を見る。
そこに映る自分。
名前はある。
体もある。
考えることもできる。
でも――
その“続き”が、どこにもない。
そこでミミリルが言った。
「これからいっぱいワクワクする物語を作っていくんだゾ!」
ニシシと笑った。
ウサ耳がピコピコと動いている。
「……そっか。そうだよね」
小さく呟いた。
不安はある。
けれど――
なぜか、怖くはなかった。
ミミリルは立ち上がり、クルッと回った。
「ウチはさっき20歳だったんだゾ!」
「だった?」
ミミリルの体は完全に子供だった。
身長は120センチほど。
「スプリしたら10歳になった!」
「どゆこと!?」
「スプリすると身体年齢は半分になります。分裂元を『ルート』、そこから生まれた個体を『ブランチ』と呼びます。つまり、あなたはミミリルから生まれたブランチです。身体年齢は10歳前後ですね」
ルベッカが補足する。
「服が少しブカブカな気がするゾ!」
「ミミリルはドワーフ型のネクロクレイマンですから、体格はそれほど変わっていませんよ」
ミミリルは少し不満げに頬を膨らませる。
「僕は服すらないんだけどね……」
夜風が寒い。
ルベッカが眼鏡を上げる。
「提案があります。ちょうど私達はこの近くのククルシアという街へ向かっています。そこで服を調達しましょう」
「ウチの冒険者登録するんだゾ!」
「冒険者登録?」
「うん!冒険者になって世界を冒険するんだゾ」
ミミリルの目がキラキラしている。
「なんか……楽しそうだね」
ミミリルは拳を突き上げた。
「ワクワクするゾ!」
そのときだった。
東の空が、ほんの少しだけ明るくなった。
夜の色がゆっくりほどけ、地平の向こうから淡い光がにじみ出していた。
「……朝ですね」
ルベッカが手をかざして空を見上げる。
やがて――
山の向こうから、太陽が顔を出した。
金色の光が、世界へ流れ込む。
草原が輝き、遠くの森が朝霧の中から姿を現す。
消えかけた焚き火の炭が、朝日に照らされる。
「……」
ティプスタンは、ただ立っていた。
胸の奥が、静かに揺れる。
言葉は出てこない。
ただ、目の前の世界が光に満ちていくのを見ていた。
ティプスタンの視線が、遠くの空に引き寄せられる。
空の彼方。
そこに――
巨大な影が浮かんでいた。
山だった。
だが普通の山ではない。
いくつもの峰が空へ突き刺さり、山脈がそのまま天へ連なっているように見える。
輪郭はぼやけていた。
朝の光と大気の向こうで、ゆらゆら揺れている。
まるで――蜃気楼のように。
その中心に、ひときわ巨大な山があった。
ティプスタンは黙って見つめていた。
声が出ない。
ただ胸の奥が少しだけ熱い。
「……あれ」
ようやく小さくつぶやく。
「あれは?」
ルベッカはティプスタンの視線を追った。
そして少しだけ微笑む。
「あれは――」
「星落ちの山。通称『グラン・エルヴス』です」
ティプスタンはその名前を心の中で繰り返した。
グラン・エルヴス。
ルベッカは静かに続ける。
「惑星エルヴス。この世界で最も大きな山です」
「エルヴス……」
ルベッカは頷いた。
「グラン・エルヴスからは五つの巨大な山脈が広がっています」
遠くの地平線を指す。
「腕のように大地へ伸びている。そのため『星腕山脈』と呼ばれています」
「ヒトデみたいなんだゾ!」
ミミリルが元気よく言う。
ティプスタンは、ぼんやりとグラン・エルヴスを見つめる。
遠すぎてはっきりとは見えない。
太陽の光の中で、蜃気楼のように揺れている。
それでも確かに、そこにある。
胸の奥が静かに満たされていく。
理由はわからない。
でも――
なぜか目を離せなかった。
そのとき。
ぱちっ。
焚き火の最後の炭が弾けた。
そして、静かに消える。
「行きましょう」
ルベッカが言った。
ミミリルが拳を上げる。
「出発だゾ!」
ティプスタンは、もう一度だけ遠くの山を見た。
星落ちの山グラン・エルヴス。
その名前を胸に刻んで。
三人は、街へ向かって歩き出した。
☆二話に続く☆




